歴史創作ワンドロ投稿作品・お題『中世フランス』
《学者殿下》と、彼は長らく呼ばれていた。
幼い頃から病がちで、狩りにも剣の稽古にも身が入らなかった。暇さえあれば書にかじりつく王太子が、世間に好意をもって受け入れられることはなかった。騎士道の華が咲く時代、勇壮さこそが何よりの美徳だった。生白い肌も細い手足も、世の人の嘲笑の対象でしかなかった。
昔の話である。すべて昔の話である。
「ベルトラン」
「はっ」
かつての学者殿下は31歳。至尊の冠を戴いてようやく5年。
ヴァロワ家第3代の王シャルル5世は、軋みを立てて椅子を引き、背後に控える臣に顔を向けた。
床に跪き頭を垂れているのは、逞しいが伸びやかさに欠ける体だ。
《ブロセリアンドのブルドッグ》と人は呼ぶ。顔を見れば誰もがなるほどと頷く。ひところ流行りに流行った余興、雄牛と犬を戦わせる他愛もない遊び、あれに登場する犬とよく似た顔をしている。
醜さを嗤われても恥じ入りもしない。むしろ潰れた鼻をふんと鳴らし、『一目見て忘れん顔は金貨の山に勝る』と言い放つ。ベルトラン・デュ・ゲクランはそんな男である。
ブルゴーニュ生まれの荒くれ者がしおらしく跪く様は、かつての喧嘩仲間が見れば目を剥こう。実際シャルルは知っている。この男に宮廷作法は似つかわしくない。見た目によらず如才ない男で、王家に仕えて15年余でひととおり振る舞いは身につけているが、それでも一挙一動に独特の匂いがする。戦場に吹く乾いた風の匂いである。
どんなに香を炊いても掻き消されることのないこの匂いを、シャルルは好ましいと思っていた。
「顔を上げろベルトラン。二人きりだ、気を遣う必要などない」
時刻は深夜、灯かりのない中世の夜ならなおのこと、室内はしんと静かで暗い。燭台の先にともる小さな火だけが、王の細い面を赤く照らす。
主君の命のままにベルトランは顔を上げた。
「陛下のご酔狂は数え上げれば切りがありませんな」
よくもまあこの潰れた顔でこの声が出ると、感嘆したくなるほどによく通る声音だった。
「算術に幾何に占星術。暇さえあれば机の前で書き物。何より筆頭は私のような者の話を好んでお聞きになることかと」
戦場ではこの声が兵を動かす。傭兵の世界では実力こそが物を言う。腑抜けた貴族では彼らを従わせられない。盗賊と紙一重の無法者どもは、ベルトランの声にこそ、ベルトランだからこそ従うのだ。
「謙遜するな救国の英雄殿。おまえの話を聞きたがらん者などいない。コシュレルでの武勇談など皆がこぞって聞きたがったではないか」
ナヴァールのシャルル・デヴルーを下した戦をシャルルは引き合いに出す。
「誰も彼もが凱旋したおまえに、蜜にたかる蠅のように群がって。いや雄牛に襲いかかる闘犬かな。見た目からすれば逆だが」
ベルトランは笑った。
「華々しい話を聞きたがる者なら薪の代わりに火にくべてやりたいほどおりますが、陛下がおっしゃるのはあの連中のことですかな。彼らが求めているのは《私の話》ではなく《物語》です。陛下のお父上のお部屋に架かっていたタペストリの連作のような、ただただ美しいばかりの」
陛下がお聞きになりたいのはそんなものではありますまい。ベルトランはそう言った。
「オーレの戦いで捕虜となった私に、畏れ多くも身代金を払ってくださいましたな」
「その価値があると判断したのでな。それがどうした?」
「あのときはさすがの私も感激いたしました。フランス王ともあろう方が、一介の傭兵隊長の命をわざわざ買い上げてくださった。しかも決して少なからぬ金子を積んで。このご恩は命を賭してでもお返ししようなどと柄にもないことを考えたものです。まあそんなことはすぐにも忘れましたが、それはさておき忘れられぬのは、晴れて自由の身となりお傍に参じたときの陛下のお言葉ですよ」
シャルルは首をかしげた。何と言ったのだったか記憶になかった。
「5年前の私は何と?」
「こたびの敗戦について詳しく2度語れ、初回は事実のみ微に入り細に入り詳細に、失策は改善し厄介者を追い出し再起をめざすために。2回目は好きに心情を込めて語れ、誰でもない私個人のために。おまえという一個の人間がこの戦いをどう見て感じたかを知りたい――と」
シャルルはクッと笑い声を立てた。
「英雄殿はまたつまらんことを覚えている」
「フランスはまったく大した君主を戴いたものだと天を仰ぎましたよ。策を練る冷静さと知的好奇心とを、同時同列に持ち合わせていらっしゃる。しかも両者は決して矛盾しないのだから」
唇の端を持ち上げたまま、元《学者殿下》は肩をそびやかせる。
1356年のポワティエの戦い以来、王の人生はひっきりなしの荒波続きだった。件の戦いで父王ジャン2世は捕虜となった。王太子だったシャルルの軍勢は早々に崩れ、その敗走は後々まで謗られた。
父王不在の状況下での、パリ三部会との対立。新三部会を打ち立ててのパリ包囲と勝利。捕虜暮らしに倦んだ父王が国土を売り渡そうとすれば、これを拒んで対抗せざるを得なかった。和平交渉の末ようやく取り戻した父王が、逃亡した人質の責を負うと自らロンドンに戻ったときは真剣に頭を抱えた。おまけにそのまま父が没するという珍事の果てに、ヴィノワのドーファンはフランス王となったのだ。
さらに言うならその後の道も、決して平坦なものではなかった。《学者殿下》はもはや亡く、民は彼を呼ぶための語を未だ探している。彼の智を揶揄するのではなく誇るための語を。
「さあ、ベルトラン」
シャルル5世は両手を広げる。
「過去の話をするために、おまえをここに呼んだわけではない。今の話をしよう。そして未来の話をしよう。さしあたってはそうだな、アキテーヌ大公領について、などどうだ?」
裂けそうに大きな口でベルトランがニヤと笑う。
「神の采配でございますかな。私もちょうど、陛下とそのお話をすることが叶えばと思っておりました」
1369年秋。フランスとイングランドはまたも一触即発の状態に陥っている。
南部ガスコーニュの領主たちが、アキテーヌ大公たる黒太子エドワードによる戦時税に異を唱えた。悲喜こもごもあって上訴はフランス王家に届き、しかしフランス王の出頭命令を黒太子は拒絶した。
領地没収の絶好の機会、この機を逃す手はどう考えてもあるまい。
「父王ジャンは何より誇りを重んじる男だった。騎士としての誇りをな。……良くも悪くも私は父に似なかった。それでも、誇りというものの重みは理解しているつもりだ。父とはいささか意味が違うがな」
己の誇り、ではない。フランスの誇りだ。
一国を守り支え立つ者としての誇りだ。
なればこそ、ここでアキテーヌは奪わなければならないのだ。
「ベルトラン、おまえは戦場に立つ者だ。おまえが目に映すものは私とは違う。それでも、おまえなら分かってくれるものと思っている。私の誇りがよって立つものを」
「回りくどい誉め言葉ですな相変わらず。ですが、光栄に存じます」
闘犬が笑い、また頭を垂れる。
風のない部屋で蝋燭が燃えている。
夜はまだ長い。交わせる言葉はいくらでもあるだろう。朝日が昇るまで。