吹き荒れる男、伊吹。
それから三年。もはや官吏の仕事も板について来てしまった。ああ悲しい。でもまあ、こんな日々も悪くはないので結構毎日を謳歌している。青春とはほど遠いが。かくのは冷や汗ばかりだが。
「梓ちゃん、こいつ捕まえてー!」
「って刀持ってますけど!?」
「だから捕まえてー!」
ふむ、スリリングである。あ、犬だ。可愛いなあ、なんて名前なの?へえポチかあ、ってもしや君は花咲か爺さんの犬かね?ふぉ、これは貴重な犬に出会ってしまった。お犬様々である。
「梓ちゃん現実逃避しないで!あとでジュース買ってあげるから!」
「紙パックは嫌ですよ。二リットル買って下さいね」
んな無茶な、と呟いた父の同期の遠藤さんににっこり笑う。無茶じゃないよね?
「ういっす」
よろしい。素直な子は嫌いじゃないよ。まあ私も二リットルなんて一人じゃ飲みきれないけど。兄弟にも恵んでやろう。それにしても私はつくづく目上の人を敬う事が出来ないらしい。まあいいや。
「はいはーい、そこの方、ストーップ」
軽く言ってみる。すると彼の取り巻きてきな猿顔が私に吠えて来た。猿はお黙り!
「こちらは天下の織田信長様であるぞ!」
へーへーさようでございますか…って、は!?織田信長と言えば誰もが知っている歴史の偉人である。戦国時代、天下統一を掲げまあ色々やった人。テストに必ずと言っていい程の高確率で出て来る。二次元が大好きな友達にいかにカッコいいのかを語られる事も日常茶飯事。耳に胼胝とはいかなくても日本人なら小さい子供とボケたご老人以外は全員が知っているであろう人物だ。それが、これ。ただのおっさんですよ、おっさん。
「織田信長…?」
今まで何人か偉人は見た事がある。歴史の偉人って皆物騒だから、なにかと地獄に居る事が多いのだ。でも、まさか信長みたいに古い人までまだ地獄に居たとは知らなかった。
「驚いたか!恐れ入ったか!」
ええ、驚きましたとも。でもねえ、
「誰であろうと亡者は亡者!地獄の決まりに従いやがれぇえ!」
死後の世界じゃただの幽霊だよ信長さんや。あと隣に居る猿もね。いやあ実に良いネーミングセンスだと思うよ。豊臣秀吉ってばほんと猿そっくり。ちょっとウキーって鳴いてみてよ。
「この剣はなあ、俺が十五の時に…」
「あ、その話長いですか?なら良いです、眠いんで。さっさと武器しまって下さい」
「お願いだから聞いてよ俺の武勇伝」
嫌ですよ面倒くさい。ちょっと、良い歳こいたおじさんが明らかにへこまないで下さい。目障りだよ。
「はい武器没収」
ひょいっと後ろから遠藤さんが信長の武器を取り上げてしまった。
「あああ!?俺の刀ぁぁぁああ」
ねえ、歴史の偉人って馬鹿なの?生き様はかっこ良くても脳みそすっからかんなんじゃないの。え、なんというか馬鹿でしょ、この人。遠藤さんに武器を没収された信長と、必死に慰める猿。なんだこれ。
「お前もしっかりしろよ?減給されたいの?」
「いえ!お給料はなるべく多く欲しいです」
「忠実に答えなくていいから」
「笑いは必要かと思いまして」
「この光景で充分笑えてるから大丈夫。あ、梓ちゃんもありがとねー。新卒がヘマしてさあ」
遠藤さん、笑顔がまぶしい。あっけらかんとした笑顔で新卒君殴らないで。新卒君もへらへらしてないで。おーい。
「いえ、まあ、二リットルのジュースは欲しいんで」
「二リットルって面白いですね」
「そうですか?」
さっきまで殴られてた新卒君が話しかけて来た。質より量でしょ。
「というか伊吹、なんで亡者逃がしたの」
新卒君は伊吹と言うらしい。風が吹き荒れそうな名前だ。ビューンビューン。
「サイン、欲しかったんですよね」
「…織田信長の?」
なんとも変わった人だ。
「そう、この人の。なんか自慢出来そう」
いや待て。仮にサインを貰ったとしよう。まず初めに織田信長はサインがなんなのか理解していないと思うけどそれは割愛したとして。自慢する相手は誰だ。もし現世で、これ信長のサインー、と言ったとして、誰が信じるか。精神病等に強制連行されて終わりだ。そんな思いはしたくない。つまりこいつ、馬鹿か。
「ったく、伊吹、お前もうちょっと仕事ってこと解っとけよ?じゃあね梓ちゃん、お金は君の父さんに渡しておくから」
遠藤さんがそう言って颯爽と去っていく。ダンディな人だね、遠藤さん。
「ねえ、本当にサインが欲しかったんですか?」
さっきから終始ニコニコしている伊吹さんに話しかける。ちょっと苦手なタイプかも。でも、こんな世渡り上手そうな人がそんな理由で亡者を逃がすとは、何故か思えなかった。
「全然いらないです。でも、亡者も運動したいかなって思って」
にっこり笑ってそう答えた伊吹さんに、やっぱり苦手だなって思った。食えない奴。
その後、父に聞いた所、織田信長はどうしてもあの刀を持っている所を誰かに見てもらいたかったそうだ。親友だった人が拙いなりに自分の為に造ってくれた刀を、皆に見てもらいたい。アイツはこんなにすげえんだ。いいだろう?こんな友達を持てた俺は幸せだろ?そう言いたくて。伊吹さんは、亡者の願いを叶える為に、わざと亡者を逃がしたらしい。仕事人として絶対やったらいけない事だけど、お人好しなんだろう。
「ねえ父さん、地獄って変だね」
残業が無く、久々に一緒に帰る事になった父にそう話しかける。
鬼が亡者の為に怒られて。亡者は罰を受けてる筈なのに生き生きしてて。人間じゃないのに、人間みたいに。楽しそうで。もう死んでる筈の人達が、呼吸をするように、当たり前に毎日を過ごしている。地獄絵図とは大違い。
「変じゃないよ。皆元は人間だから。現世となんの代わりも無いんだ」
父はそう言って笑った。
「…そうだね」
こんなに騒がしくて、楽しくて、面倒で。時間がどんどん過ぎていく。それは、現世も一緒。
何も、代わりはしない。
「父さんは、現世と地獄、どっちが好き?」
それでもやっぱり、私には別物に感じてしまう。こうやって比較してしまう。だって死ぬって、この世の終わりを指すでしょう?もう一生を終えた人と、まだ生きている人で構成された世界は、私にとって別物だ。
「どっちも大好きだね」
どこか誇らしげにそういう父に、早く角をしまえと怒鳴る。父が羨ましいと思ったのは内緒。