結末
「……」
一体どのくらい、そうしていたのだろう?
すっかり暗くなってしまったその世界に、もはや以前の暖かさはない。
凍えるような寒さから少しでも逃れようと、自身を抱きしめて蹲っていたクリスは、しかし、ふとそばに暖かい気配を感じてそっと顔をあげる。
「……気が…ついた……?」
果たしてそこにいたのはもう一人のクリス。
瓜二つといっても過言でないほどに似たもう一人のクリスが、僕の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「……ここ…でよ……」
前世のクリスは優しい仕草で僕に手を伸ばす。
「……」
でも、僕はその優しげな言葉に首を振って答えとする。
僕はもう疲れていたのだ。何をするにも力がでないのだ。
外の恐い世界にでるぐらいなら、このまま凍え死んでしまった方がましだったのだ。
「……そう……」
前世のクリスは、再び俯いてしまった今世のクリスの力無い仕草を見つめて悲しそうに顔をゆがめる。
再び死を想起させる穏やかな静寂が僕らの間に戻ってきていた。
ただでさえ暗かった世界が、もっと暗く、まるで奈落の底のように黒くなる。
「……イリス……」
そんな中でポツリと呟かれた言葉に、俯いたままの彼女はピクリと反応を返す。
「……また…一人……」
どこか苦虫を噛み潰してしまったような顔で前世のクリスは言葉を続ける。
まるで言ってはいけない言葉を言ってしまったかのように。
「……それでも…いい…の……?」
今世のクリスの頭を過ぎる白髪の女の子。
……イリス…イリス……イリスはこんな僕のことをまだ待ってくれているの……?
大事な時に頑張れなくて、助けられなくて……こんな不甲斐ない僕のことを?
「……」
ゆっくりと顔をあげたクリスは、前世のクリスと目を合わせる。
既に8割以上が完全に闇に沈んだこの空間では、お互いの顔の輪郭ですらもぼやけて見えた。
「……そう…待って…る……」
ゆっくりと、なぜかとても悲しそうに頷く前世の僕。
でも、その動作はとても、とても優し気なもの。
「……僕に、できる……?」
「……うん……」
「……本当に、待って、くれてる…かな……?」
「……うん……」
外の世界は辛くて恐い。
でも、それでも、大切な人が僕のことを待ってくれている。
「……代わり…に……」
前世のクリスから差し出され小さな手にクリスはゆっくりと手を伸ばす。
「……代わりに……」
握った手の先から淡い光に変わっていく前世のクリス。
「……さよなら……」
きっともう彼と会うことはないのだろう。
なんだかそんな気がした……
『クリスちゃん、心配したんだからね』
「……イリ、ス……?」
至近距離。眼をあけたクリスの眼と鼻の先。
透き通るように美しい真紅の瞳がぼんやりとしたクリスの姿を映している。
『うん、ボクだよ。イリスだよ。
良かった、本当に良かった……』
クリスの頬にポタリポタリとあたる暖かい液体。
暗黒の大地に降り続く、闇をとかしたような黒い雨と違い、それはとても温かく、キラキラと輝いている。
「……僕、は……」
イリスの泣き顔が、その声が、クリスの記憶を呼び起こす。
今生のクリスの大切な思い出が、出会いが呼び起こされる。
「……イリスっ……!」
『クリスちゃんっ……』
涙がクリスの瞳からボロボロと零れて止まらない。
謝りたいことが、お礼が、とにかく言いたいことがたくさんあった。
「……イ、イリっ……」
言葉をなさない涙声。
イリスは何も言わずにクリスをただただ優しく抱きとめる……
「……っ……!」
暫く抱き合った後、我に返ったクリスは泣き腫らした瞳をそのままに、焦って気配を探る。
『ううん、魔王は今ここにはいないから安心して』
まるでクリスのやりたかったことを読んだかのように優しくポンポンとクリスの背中を叩くイリス。
その温もりに安堵を覚えたクリスは、しかし、そのあとすぐに不安を覚えた。
「……あっ……」
『クリスちゃん、大丈夫?』
「……う、うん……」
大丈夫なわけがない。
魔王にはクリスの攻撃が一切通じていなかったのだ。
どうしようもなかったのだ。
でも、不安そうに頷くクリスを見てイリスは僅かに微笑む。
『ううん、クリスちゃん。無理をしないで。一人で抱え込まないで。
大丈夫。今度はボクが導くから。クリスちゃんは安心してボクに着いてきて』
「……?」
イリスは一体何を言っているのだろう?
疑問を浮かべるクリスの瞳にうつるイリスは、しかし、少しだけ照れくさそうに笑って言った。
『どうしてかな?今のボクにはわかるんだ。
大事なのは心だって。
うん。クリスちゃんとボクならきっとやれるから、ね?』
イリスに引っ張り上げられるようにして立ち上がるクリス。
『ほら、ボクを信じて』
「……うん……」
クリスは泣きはらした瞳を擦ってぎこちなく笑う。
僅かにイリスがぼやけて見えたのは、きっとクリスが泣いていたからなんだろう……
…………………………
王国暦1013年
その日、太陽が昇らなかった日のことを私達王国民は決して忘れることがないだろう。
魔王を称する化け物の襲撃。
魔王が産み出した異形の亡霊との戦い。
誰もが死を覚悟したそのときに奇跡はおきたのだ。
「あれは……」
空を覆う分厚い暗雲を裂き、天から舞い降りる片翼の天使。
不可思議な力を纏った彼女は慈愛に満ちた声で魔王達に話しかける。
『私が貴方達を救いましょう。赦しましょう。
もう眠りにつきなさい。貴方達のいる場所はここではありません』
吸い込まれてしまうような不思議な響きを持った声。
その場にいる誰もが我が眼を疑った。
「闇が、泣いている……?」
果たしてあれは歓喜の涙だったのだろうか?
浅学な私に詳しいことはわからないが、闇が泣いている、これ以外に適切な表現が見つからなかった。
呆然とする私達の目の前で、天使から溢れる光を浴びた魔物が、亡霊が一人、また一人と姿形を失い、天へと昇っていく。
『さあ、貴女も』
やがて一人残った魔王も片翼の天使に何かを囁くと、満足そうに笑って宙に昇っていく。
天使に負けず劣らず美人な女性。あれが魔王の本当の姿だと気がついた者が一体何人いただろうか。
あれはとても神聖な光景だった。
空から零れる暖かな光。昇っていく幾千もの魂。
最後に天使は私達に向かって優しく微笑むと、言ったのだ。
『歴史から学びなさい。
二度と同じ過ちを繰り返してはいけませんよ』
「おおお……」
信心深いものは剣を投げ捨て、地に這い蹲るようにして涙を流す。
まだ若かった私は、きっとどこか悲しそうにも見えるその天使の顔を食い入るように見つめていたのだろう。
なぜなら、今でもあの銀色に輝く美しい微笑みを鮮明に脳裏に思い描くことができるのだから。
片翼の天使は惚ける私達の前で、先に昇っていった彼らを追いかけるようにして天へと舞い上がる。
既に辺りに闇はなく、明るくなっていた……
残念だが、私の話しはこれで終わり。
聞いただけではおそらく信じがたいだろう。その気持ちはよくわかる。だが、御伽噺のようなこの話しは、事実本当にあったこと。
この日を境に私は己に正直に生きようと心に決めたのだから。
ああ、後世にも私のこの思いが伝わればいいのだが……
【とある名も無い兵士の書記より抜粋】




