軽挙妄動 これは愛?
城壁の上に掲げられた雄雄しき軍旗が、生温い西風に吹かれてパタパタと靡く。
僕の頬を撫でる、徐々に濃くなっていく瘴気を孕んだ風は、きっと最後の決戦の時が近いということを暗示しているのだろう……
太陽はおろか、小さな星の一つさえも見えない漆黒の空の下。
沈鬱な面持ちで城門の前に立ったクリスは、全身全霊を込めて魔王を再び封印するための術式を描いていた。
無表情ながらに真剣な面持ちをした彼女の手の上にあるのは、大臣によってその大部分が翻訳された古の書物。
短い時間でその全てを理解したクリスは、寸分の狂いもなく魔法陣を宙に転写していく。
「……」
スーッと彼女の白く繊細な指先が宙を走れば、大きく描かれた魔法陣の隣りに、光り輝く幾本もの魔力線が浮き上がる。
魔法陣に絡みつくようにして伸びた一本と、それに連なる文字列は魔法の劣化を防ぎ、魔法陣を縛るかのように幾重にも巻かれたもう一本の光の線と、それに連なる文字列は外部からの侵食を、改竄を防ぐ。
そして今、さらにクリスによって追加された一本の線と、それを覆う摩訶不思議な文字の配列は、無数に引かれた光の線と魔法陣の発動を結びつけるものなのであろう。
クリスの指先が宙をはしる毎にどんどんと最適化されていくそれは、まさに正しくクリスの努力と研鑽の賜物。
本来は別々に効果を発揮するはずの魔法が、まるで元から一つであったかのように無理なく集約されていた。
「……ふぅ……」
一仕事を終えたクリスはほっと小さく息を吐く。
常人にとっては不可能なことであっても、クリスにとってはさほど難しいことではない。
前世から魔法に触れていたクリスにとって、魔法陣を描き、多少改造するだけならば、それこそ小一時間とかからずに終わらせることが可能なのだ。
「……でも……」
では、なぜ彼女はこんなにも浮かない顔をしているのだろう?
きっとそれは彼女にとって、感化できないレベルの問題がまた別にあるということに他ならない。
事態は魔法陣を完成させるだけでは終息しないのだ。
……もう少し、あとほんの少しだけでも、何か僕にあれば……
クリスはその可愛らしい顔を歪めて必死に悩む。
魔法陣を維持し、魔王を名乗る化け物の前で起動できるかどうか言われれば、それはただ単に魔法陣を描くだけというのに比べて、いや、比較にならないほどに大きく難易度が跳ね上がる。
魔王の抵抗は勿論あるだろうし、発動にかかる魔力はそれこそクリスの全力でも足りないほどには膨大なのだ。
……僕は本当に魔王を封印できるの……?
「……」
今になってクリスの脳裏を過る苦い後悔、不安。自分に対する漠然とした失望。
……僕はもう少し頑張れば良かったんだ……
……あの時寝ちゃわないで、もっと夜遅くまで修行をしてれば良かったんだ……
考え始めれば止まらない自己嫌悪。
だがしかし、転生し勇者がやってくるまでの十数年、彼女はそもそも魔王などと言う概念すらも詳しくは知らなかったのだ。
文献を読み解き、その存在を確信するまでは、ただ漠然と嫌な予感を抱えて生きていただけ。
1対多の戦闘こそあり得るとは思っていても、まさか避けきれないような強大な敵を前にするとは想像だにしていなかった。
多数の魔物によってではなく、まさか一人の魔王という存在によって、人類が滅び去ろうとしているなどとは、夢にも思ったことがなかったのだ。
想像力不足と罵る人もいるだろう。
だが、力が足りないのは仕方が無い。彼女は精一杯頑張っていたのだから……
「……恐い……?」
首を振って終わりのない自己嫌悪を一旦止めたクリスは、今更ながらに震える自身の手足に気がつく。
……震えてる……僕は怯えてるの……?
銀色の瞳が見つめる先。
クリスはそう、酷く震えていた。
ただそれは、今までのように相手の命を奪う、殺すといった忌避感によるところのものではない。
この止まることのない震えは、きっと、もう後がないというプレッシャーからきているのだ。
自身よりも遥かに巨大なものに立ち向かうという、本能的な恐怖からきているものなのだ。
「……す、すぅ〜…はぁ〜……」
クリスは己を抱き、震える口先で一つ深く息を吸うと、しばらく後にそれをできるだけ大きく吐き出す。
落ち着くための努力をする。
相手は過去に一国を陥とし、膨大な量の魔物を産み出したばかりか、太陽すらも隠してしまうような恐ろしい伝説上の魔物。
後があろうと、無かろうと怖くないはずがない。
そう。誰だって恐くないわけがないのだ。
「……ん…足音……?」
自己暗示の甲斐あって、俄かに落ち着きを取り戻していくクリスの思考。
冷静になったことで、誰かの焦ったような足音を聞きとることができたクリスは、ゆっくりと体を傾け、そちらの方へと首をめぐらせた。
「はぁ!はぁっ!」
「……?」
クリスの知覚範囲に入ってから数秒後。
クリスの視線の先に立っていたのは、切れ長の瞳に、長身で細め、おそらくは妙齢の女性。
顔に見覚えはない。クリスとは間違いなく初対面の女性。
「あ、あなたがクリス嬢ね?」
「……」
息を切らせた怪しい人物。
知らない人にいきなり下の名前を呼ばれたクリスは、僅かに怯み、暫く後に小さく頷く。
敵意を感じないとはいえ、まだ初対面の人と気軽に話せるほど、クリスの人見知りは治ってはいなかった。
「私はギルドマスター……ギルドを経営する社長、とでも言うべき立ち位置の人間よ。名前はベガ。
いきなりだけど、リス…いいえ、イリスについて、貴女に話したいことがあるの」
「……イリス……?」
……なんでこんな時に……?
俯くクリスの脇に浮かぶ巨大な魔法陣に眼を向けることもなく、焦ったように捲し立てる女性。
大事な友人の名前を耳にすると同時に、クリスにえも言えぬ嫌な予感がはしった。
クリスの無表情が僅かに強張る。
「こんな時にごめんなさい。
でもリスが、イリスが、暗黒の大地から帰って来ないの。
国境の部隊とも連絡が取れないのよ……」
「……えっ……」
まるでクリスの動揺を反映しているかのように宙に浮いた巨大な魔法陣が点滅し、揺らぐ。
ベガはクリスの些細だが、大きな変化に気がつかない。
「きっと今もあの子は、1人で暗黒の大地にいるんだわ……」
絶望しているかのような響き。
光源が一つ、闇に呑まれるようにして消えた……
(あの子は私にとっても、今は亡きマスターにとっても、娘のように大切な存在)
(あの子はよく貴女のことを気にしていたわ。私に捜索を依頼してきたことだってある)
(私にだって今の状況はよくわかってるいるわ。
でも、貴女の持った不思議な力ならイリスを連れ戻す……いいえ、場所を特定するぐらいならできるんじゃないかって……)
クリスの脳裏を過るベガの心配そうな顔。反芻される言葉。
最後にクリスとイリスが出会ってからここに至るまで、時間にすれば、およそ3日ほどの日数が経過していた。
「……イリス……」
クリスは俯いたまま暗い空をバックに飛翔する。
イリスの移動速度であれば、既に王都に着いていたとしても……いや、最低限国境付近の部隊と合流していなければおかしいはずなのだ。
しかしベガという女性曰く、伝書鳩から受け取った手紙には、イリス帰還の報告がなかったという。
「……僕、僕は……」
……もしベガの言うことが真実だったら……
……イリスが本当に、国境に常駐している部隊と合流することさえできていないっていうんなら……
ギュッと握りしめられたクリスの手の先に既に切り札は、魔王を封印するための魔法陣はない。
不確かな情報のために、全てを投げ捨ててクリスは戦場となりうる場所へ、そのさらに先へと飛び込んで行こうとしているのだ。
……ごめんなさいお父さん、お母さん。ライル。王国の皆……
クリスは息継ぐ暇もないほどの速度で飛行をしながらも、小さく、切れ切れに懺悔の言葉を紡ぐ。
……僕は、僕はイリスを見捨てることなんてできないんだっ……
初めて出会った似たような境遇の友達。
イリスと十数年来にお互いをお互いと認識し、言葉を交わした時、クリスは本当に嬉しかったのだ。
今も、昔も、クリスの中の最も大きな部分をイリスは占めている。イリスはクリスにとって、自分自身よりも大切にしたい、優先順位の高い、そんな大切な存在。
……たとえ、人類の存続のためにどれだけの生贄が必要だとしても……
……ライルが、お父さんが、たとえクリス自身が死地へと赴くことが必要だとしても……
でも、それでも、クリスはイリスという犠牲だけは容認することができない!
「……助ける……」
眼下で、矢のような速さで後ろへと通り過ぎていく無数の人影。松明の灯り。
暗闇の中で美しく、燦々(さんさん)と光輝くクリスの翼。
歓声をあげる多くの兵士達の声もクリスには届かない。
「……絶対に……」
もうイリスを一人で行かせるなんてことはしない!今度は僕も着いて行くんだ!!
かつて牢の中から一人で飛び出して行った親友。
二度と一人で行かせはしない。辛い思いをさせたりはしない。
僕も、イリスも一人で寂しい思いをするのは嫌いなんだ。
胸に抱く強い思い。
クリスは全てを犠牲に飛翔する……




