闘技祭 勇者とライル
闘技場に併設された小さな医務室。整えられた清潔なベッドの上、そこで倒れている一人の青年は、意識を取り戻してすぐに白い天井を片手で仰ぐ。
受けた傷の痛みに引き攣る体。未だに動きの悪い唇で彼はポツリと呟いた。
「届かなかったか……」
蘇る苦い記憶。
小細工を講じることもせずに全身全霊を込めて振るった彼の二本の模造刀は、いとも簡単に破壊され、もはやその原形をトドメてはいない。多くの観客の前で自分よりも小さな相手に、自分の刀よりも遥かに細い剣に、それをされたということが彼の心に大きな影を落としていた。
「……そうだね」
返事をしたのは、ベッドの脇の椅子に腰掛けるリョウと同年代の青年。
彼は事実を認め、リョウの言葉をただ肯定する。実際に対峙したわけではないが、ライルもあの時の対戦相手には、少なからず戦慄していたのだ。
「俺もまだまだだな。またユーリに心配かけちまった……」
リョウはそうどこか悔しそうに言葉を紡ぐ。ライルもその言葉を聞き、無言で床に目線を落とした。
月並みの慰めを言うつもりはない。彼らが歩こうとしている道のりは遠く、険しいものなのだ。
自分達に匹敵する、もしくは強い相手がいるという事実を、現実を受け止めて先に進むより仕方が無い。
「僕はもう行くよ。
これから勇者と手合わせをしなくちゃいけないからね」
リョウの状態は思っていたほど悪くはなかった。ひとまず安心をしたライルは、彼の肩を叩いて立ち上がる。
「負けるなよ」
「もちろん。クリスに心配をかけるわけにはいかないからね」
部屋を出て行くライルと入れ替わるようにして入ってくるユーリ。彼女はライルに小さく礼をすると、即座に病室の中にいるリョウに向かって飛びかかるようにして突撃をする。
「全く……仲がいいのは良いことなんだけどね」
扉を閉めても漏れてくる二人の怒鳴り声。
兄妹で騒ぎあった経験などないライルは、ほんの少しだけ羨ましそうな顔して、勇者との戦いに臨むべく闘技場の方へと足を向ける。相手が勇者であれば、気分はまるで噂の魔王とやらにでもなったかのようであった。
「でも、クリスは一体どこに行ったんだろう?
クリスの性格なら真っ先にリョウに会いに来ていてもおかしくないと思っていたのに……」
ライルは一つの疑問をポツリと呟く。
責任感の強いクリスならば、リョウの傷を治しに来ていてもいいものなのだが……
「いや、聖女というのはきっと忙しいに違いない。
そういうところをしっかり僕も父様も理解してあげなくちゃいけないね……」
頭を過ったのはかつて父に言われた言葉。ライルと比べられていたというクリスの苦悩。
ライルはせめて自分だけでも妹の力に、理解者になってやりたかったのだ……
………………
「こちらです」
「……うん……」
ところ変わって同時刻のクリス。彼女は闘技場の裏にある小さな勝手口から外へ向かって、その小さな足をセカセカと動かしているところであった。
徐々に辺りの喧騒から離れて閑静な方へと向かっていくのはどことなく寂しく、なんとも言えない不安をクリスに植え付ける。だが、そんなことを言っても仕方が無い。
何よりもまずは一刻も早くリョウが負った怪我を治さなくてはいけないのだ。さらに欲を言えば、ライルの試合が回ってくるまでには闘技場に帰っていたい。
「向こうに停留している馬車で向かいましょう。少し離れたところにまで行くことになるとは思いますが、どうぞご了承ください」
「……うん……」
歩きながら語られる今後の予定に渋々とクリスは頷く。
ライルのことは心配だし、彼の試合を見たいのは山々だが、こればっかりは仕方が無い。そもそもライルの実力は、長い間一緒に過ごしたクリスが一番知っているのだ。クリスが信じてあげなくて、誰がライルの勝利を信じてあげればいいのだろう。
「……あぁ、そこの貴方。こちらが例の聖女様です。手はず通りに送り届けてあげてください」
抜き身の剣をそのまま腰に下げた巡回中と思しきギルド員。彼に軽く会釈をした男は、そのままそのギルド員にクリスの護衛を頼む。
「了解した」
鋭い目をしたギルド員と思しき男は、チラリとクリスの方を見て頷くと、先に立ってクリスを導く。先程までクリスを先導していた男は後ろへと回り、クリスは前後を大きな男二人に挟まれるような格好となった。
「……」
多少の居心地の悪さを感じるクリスであったが、これもやっぱり仕方が無いのだろう。聖女でもあるクリスの警護は、普通の一般人よりも遥かに厳重なのだから。
「どうぞお手を」
「……ありがと……」
辿り着いた先。後ろを歩いていた男からゆるりと差し出された手を取ったクリスは、少しだけカビ臭い匂いのする馬車の中へとはいる。
少なからず剥げかけた内装を見るに、それは普段アズラエル家が使っているものよりも格段に質が悪いものなのであろう。わざわざ用意してくれた馬車に文句を言うほどクリスは厚かましい人間ではないのだが、でも、それでもほんの少しだけ変だなとは思っていた。
「では私が御者を引き受けます。くれぐれも聖女様が怪我をしないように注意しておいてくださいね」
「……了解だ」
馬車の中に設置された粗末な長椅子。そこに腰を下ろしたクリスの横にドッカリと遠慮もなく座ったのは、鋭い目をしたギルド員。護衛のためには仕方がないとは言え、魔物だけではなく、躊躇いもなく人を殺せそうなほどにギラギラとした瞳が少しだけ恐かった。
「では出発します」
後ろの扉が閉じられると急に暗くなる馬車の中。横に座る男の観察するような視線を感じながらクリスは俯く。
……リョウのところに行くまでの辛抱だから……
やがてゴトゴトと言う音を共に馬車は走り出す。窓の一つもないその馬車は、まるで囚人を護送しているようにも見えた……
………………
《ライル視点》
「あ〜あ、クリスちゃんまだ戻ってきてないのかよ。俺の勇姿を見せたかったんだがなぁ」
「……」
闘技場、リョウの見舞いから十数分後。舞台の上に立ってライルと向き合った途端に勇者が発した一言がそれであった。
……気軽に僕の妹の名前をっ……
内心で怒りを感じていたライルであったが、彼はそんなことを表面に出すような、感情に左右されてしまうような生半可な鍛え方をしている訳ではない。
リョウと修行をしていた時とは比べ物にならないぐらいに集中している今、その程度の挑発で彼が揺らぐことはありえなかった。
「そういえばお前、巷では天才だなんて言われてるんだろ?」
「……」
無言で睨むライルにまるで怯むことなく勇者は嗤う。その様子は、つい先日初めて剣を持ったとは思えないほどに落ち着いていた。
「見せてくれよ。この世界の天才って奴らが、どれほどの実力を持ってるのか知りたかったんだ」
自身の実力に相当な自信があるのだろうか?それともライルのことを舐めているのだろうか?……いや、おそらくはその両方であろう。
「……?」
ただライルは、その勇者のセリフから抑えきれない呪詛を、隠すことのできない嫉妬を感じていた。
間違いなく人としては非凡な部類に入るはずの勇者がなぜ僕に……?
「いくぜ!」
疑問に感じたのは一瞬。そう、今は戦うべき時なのだ。
「こいっ!」
慣れない手つきで辿々しく剣を引き抜いた勇者は、左手に持った盾を乱雑に扱いつつもそれを眼前に構える。
それに呼応したライルは、手を鞘に入ったままの刀の柄に添えると軽く腰を落として左脚を後ろに下げ、迎撃の姿勢をとる。
この時のライルには、手加減をするつもりなど毛頭なかった。妹にたかるハエは、一撃で屠るのだ!
「これより勇者ノリヒコと刀匠ライルの試合を始めることとする!」
ざわめく会場。刀匠ライルが出る試合であれば、元々その注目度は非常に高かったのだ。そしてここにきてまさかの勇者である。
顔を知らなかったほとんどの人達から悲鳴のような声が上がり、観客席から観戦していた学園の生徒達からも黄色い叫びがあがる。動じていないのは貴族関係の者達だけか……
「……始めっ!」
そしてその声援を裂くようにして轟く教皇の声。銅鑼の音。どこなく恥ずかしそうにニヤける勇者の一挙手一投足にライルは意識を向ける。
「はぁ!」
気合を吐いた勇者の予備動作は大きく、まさに初心者のそれ。だがしかし、その後に続いた動きに音はなかった。
「なっ!?」
その動きを朧げながらに捉えたライルは、咄嗟の思考と反射で横に飛ぶ。
風圧だけで弾き飛ばされるような感覚が全身を遅い、一瞬後に聞こえた地面を踏み砕くような音が耳に突き刺さる。まるで何かが焦げたような異臭が鼻についた。
……こ、これは鎌鼬……?
いつの間に頬から垂れていた一筋の血。それを拭ったライルは驚愕を露わにする。
「こ、これが……勇者……」
そう、目で追えたことが奇跡。勇者の動きは、ただしく音速を凌駕していたのだ……




