幼女の日常
作者が大好きな《ょぅι゛ょ》が主人公の3話目です!
「クリスお嬢様、朝ですよ~。おはようございます」
クリスの朝は前世ほどではないが、それなりに早く、いつも乳母であるメノトの挨拶から始まる。
シャーという音と共にカーテンが開かれ、新鮮な朝日が、大きなベッドに埋もれるようにして眠る、クリスの横顔を照らした。
「……ぅ……」
僅かに呻いて日光から逃れるように、寝返りをうとうとするクリス。
だが、それは毎度のことで、今回も乳母であるメノトに優しく掴まれ、阻止されてしまう。
「はいはい、お嬢様、失礼しますね」
クリスは毎日夜遅くまでしている修行の関係からか、年齢からくるものなのか、あまり朝が強くない。
とはいえ、乳母のメノトはそんなことを知る由もなく、彼女の中のクリスはよく寝る手のかからない子供。
そんな程度の認識があるだけなのだ。
「ほら、お目目を開けておっきしましょうねー」
どこから取り出したのか、ポフポフと温かく湿ったタオルで優しくクリスの顔を拭いたメノトは、幼児語を喋りながらよしよしとクリスの頭を撫でる。
ガタイがよく、ドッシリという表現が最も似合う女性。
育児だけでなく、そこそこならば戦闘もこなせるというメノト。
なんとも万能な乳母だ。
「ほら、お嬢様。
今日はオシッコしてませんか〜?」
しかし、そんな万能で、たぶんエリートな彼女が出すのは、赤子をあやすような猫撫で声。
僅かに股のあたりが涼しくなったような気がしたが、クリスは何をされているのかなどと、無粋なことは考えない。
「……」
そう、たとえどんなに恥ずかしくても、どんなに嫌でも、クリスは決して言葉を発しないのだ。
台風が過ぎ去るのをただじっと待つ葦のように、クリスもまた、過ぎ去るのをただ待つのみ。
「まぁ、お嬢様は今日も大丈夫ですね!
メノトは嬉しゅうございます」
「……」
嬉しそうに笑い、明るく声をかけてくるメノト。
対してクリスの反応は淡白という他ないだろう。
乳母であるメノトには悪いが、クリスは自分より明らかに強そうな人間、というよりは大人全般が苦手なのだ。
対人恐怖症の気があるクリスにとって、優しさよりも先に感じるのは恐怖。メノトが少し手を上げるたびに、体がビクリと震えてしまう。
ないとはわかっているが、殴られるような気がしてしまうから……
「あらあら、お嬢様は今日も不機嫌ですか?」
ところどころでビクビクとしていれば、機嫌を取るつもりだったのだろう、メノトはプニプニとクリスのほっぺたを、指の平でつついて笑う。
「……」
でも、それもやっぱりいつものこと。
ひたすらに硬直を続け、一切の反応を返さない僕を見て、どこか諦めたようにメノトは言った。
「はぁ…お嬢様。
ほら、メノトとお外でも見ましょう?」
「……」
メノトの言葉は疑問系だが、それはクリスの意思を問うものではなかった。
優しく、ユックリと大きな掌で抱き寄せられ、窓辺へと連れて行かれるクリス。
「……」
自分の背丈よりも遥かに高くなった視線。窓を隔てて見えるのは、青い空に白い雲。綺麗に整頓された街並み、活気のある市場。眩しい日差し。
だけど、その全てが近いようで遠い。
前世ではできたことが、今のクリスにはまだできない。外に出ることは勿論、窓から外を自由に眺めることすらできない。
窓を通して見える全てが、クリスには届かない世界。
そう、この広い部屋とメノトだけが、彼女の狭い世界で、鳥籠なのだ。
「……」
無言のまま、食い入るように僕は窓の外を凝視する。
なぜかクリスは自分の今世の父親とも母親とも会ったことがなかった。
兄弟がいるのかさえもわからなかった。
……一体どうして、僕はこの部屋に軟禁されているんだろう?……家族と会うこともなく、どうして隔離されているんだろう……?
疑問は多々あれど、答えはでない。
幼い彼女はまだ何も知らなかったのだ。
窓から見える景色と、メノトから一方的に語られる言葉から得られる知識だけでは、得られるものなど無いに等しいのだから……
「もう春ですよ〜、日差しが温かいですね〜」
「……」
メノトの言葉を聞きながら、僕はコッソリと魔力で強化した瞳で外の世界を見る。
しかし、何度見てもやはりそこから見える町並みに見覚えはなかった。過去、クリスが生活していた王都の町並みとは、似ても似つかないものであった。
……ここはどこの国なんだろう、王都じゃないのかな……?
「ほら、お嬢様。高いですよ〜、眺めがいいですよ〜」
ユサユサと自分を抱いて揺れるメノトは、クリスが疑問を抱いていることにも、魔法を使って視力を強化していることにさえも、気がついた素振りを見せることはなく……
「……」
何の変化もない日常に全てを諦めた彼女は、夜の修行に向けて、体力の温存をはかることにしたのだった……
…………
………
……
…
「……」
時刻は真夜中。
人気の無い部屋の中で、ムクリと起き上がる一人の幼女がそこにはいた。
無言でゴシゴシと顔を擦って、閉じかけた目を無理矢理に覚ました彼女は、喋り方を忘れないためにも恒例の独り言を呟き始める。
「……赤ちゃん…いつも…何…考えて……る……?」
それは実に馬鹿らしいが、クリスにとっては切実な疑問。
昼間だけとはいえ、一年間以上もただひたすらにぼうっとしているのは、流石に肩が凝るというものだ。
「……僕…上手く…喋れ…てる……?」
まるで他人と喋らなかったこの一年。
常に自分の殻に篭り、偏った価値観で世界を眺めていた彼女は、前世にもまして、他人と話すことが苦手になってきているような気がしていた。
「……大丈夫…かな……?」
とはいえ、上手く喋れているかどうかなど、他人を基準にしてはかるものであり、一人で判断できるものではない。
早々に考えることを諦めたクリスは、今度は自分の社会的な立場についての考察を開始する。
「……たぶん…貴族…でも……」
優秀な使用人。全貌こそ把握できてはいないものの、おそらくは大きな屋敷。
なんとなく豪華そうで、上品な見た目の家具。
もろもろの判断材料から、おそらく貴族であるという予想はつくが、どうしても嫌悪感が先についてしまうのだ。
「……貴族…嫌……」
貴族についての詳しい知識をまるで持っていない彼女ではあったが、前世では権力を傘に着た貴族の子供にその命を絶たれ、その前にも散々嫌がらせをされていたのだ。
流石にいいイメージなどあるわけがない。
「……あいつ…僕の…前……出て…きたら……」
貴族と言われて、真っ先に思い出したのは、クリスにとっては一年前。前世の自分を殺した金髪の男。
傍から見れば、幼女がその子供ながらに整った顔を、ムスリと可愛らしく歪めているだけに見えたのかもしれないが、その瞳に宿るのは紛れもない憎しみ。
いくらクリスといえども、自分を殺した人間を許せるほどの寛容さはもっていないのだ。
「……あっ、僕……っ!?」
しかし、クリスはその直後に目を見開き、大きすぎるベッドの上で一人、自身の細い肩を抱きしめ、震え始める。
……ぼ、僕は今、何を考えていたの……?
憎しみを抱いているのはわかる。許せないのもわかる。で、でも、僕がしようとしていたことは……
小さく首を振るクリス。そのまま柔らかいベッドの上で落ち着くのを待つこと数分。
「……貴族…嫌……」
結局原点に帰るクリスの思考。自分の醜さからは眼を逸らす。
そこは間違いなくクリスの弱さであった。
「……強く…なろう……虐め…られない…ように……」
しかし、クリスはここで前向きに、一つだけ決心をする。
前世のようにならないためには、強くなればいいのだ。
極端な例だが、御伽噺にでてくる英雄のような力を手に入れれば、きっと自分も、自身に自信を持つことができるだろう。
「……頑張ろう……」
せめて人並み程度でも力を持つことができさえすれば、この恐怖もなくなるのだろう。
恐怖がなくなったら、人としっかり話せるようにもなって、虐められなくなるのだろう。
「……強く……」
この世界において、まだまだ自分は弱者。
持っているのは、前世において一般的だった魔術師と同程度の魔力に、少し高めの魔法技術、比べようもなく低い身体能力。
何よりも絶対的な力が足りない今、仇を見つけようが、貴族に会おうが、どうにかできるわけがない。抵抗できるわけでもない。
「……うん……強く…なったら……」
前世、親にゴミのように売られ、奴隷として人としての尊厳を穢された辛い記憶から、少なくとも目をつけられるような、不用意な行動を自重する傾向があるクリス。
今回もその魔力であり、思考力の高さであり、普通の子供とは明らかに違うところを誰にも見せずに、隠して生きていこうと考えていた。
少なくとも自立できるだけの力を得るまでは……
「……強く…なった…ら……」
自分のために。女神様のために。
無言で目を瞑り、多彩な魔法を操る幼女。
美しい彼女の周り。
複雑な軌道を描いて飛ぶ火球の数は、日々その数を増し、目を瞑った彼女が探れる距離は、既に広い部屋、彼女の狭い世界では収まらなかった。
「……僕…強い…救世主……」
思い描くのは最強の自分。
誰からも虐められることなく、皆から好かれ、大事にされている理想の自分。
「……僕は……」
自然と彼女の頬が緩む。
今日はいい夢が見れそうだ……
《人物紹介》
クリス……主人公。現在二歳手前。現女、元男の娘。お嬢様。
メノト……クリスの乳母。実は脳筋。
誤字脱字、意味不明なところがありましたらご報告いただけると幸いです( ´ ▽ ` )ノ