五里霧中
深く、黒く、どこか邪悪な雰囲気を纏った霧。
自然に晴れることのないそれは、禍々しい魔力を帯びて、捉えた者の五感を尽く阻害する……
……そろそろ近い……?
一体どのぐらいの間歩いたのだろう。
魔力で強化を施した銀眼で追うのは、地面に残った小さな足跡。
僕は一歩、また一歩と進むごとに明瞭になっていく、異質な魔力の存在を第六感で確かに感じ取っていた。
……あと少しで……
どんどんと濃くなっていく黒い霧。強くなっていく邪悪な魔力の胎動。それらはきっと、この濃霧を作り出した人物との遭遇が近いということを表しているに違いない。
「……ふぅ……」
僕は小さく張り詰めた息を吐く。
五感が思うように働かない濃霧の中を歩くという行為は、非常に辛く、余計な神経までもをすり減らす。自然と僕の体力にも余裕がなくなってきていたのだ。
……集中を切らしちゃダメ……焦っちゃダメ……
白い仮面の下、薄っすらと額に浮かんでいた汗を服の袖で拭った僕は、油断しない程度に出来るだけ肩の力を抜いてリラックスをする。
最小限の呼吸で思考をクリアにし、体に異常が出ていないことを確認する。
……大丈夫…問題はないよ……
幻術といい、この霧といい、何のために用意したものかはわからない。でも、両方とも前世で僕が見たことのある魔法よりも遥かに高い技術が、膨大な魔力が使われているのだ。
たぶんこの魔法をあやっている人は相当な実力者で、もし、僕がその人と戦うことになったら、きっと壮絶な魔法の打ち合いになるんだろう。
……できれば話し合いで……でも、最悪……
最悪戦闘になってしまったら、おそらく苦戦をすることは必至。
コンディションが万全でなければ、それこそ逃げることすら出来ずに殺されてしまうかもしれない。
「……っ……」
随分と身近に感じる死の臭いにゴクリと生唾を飲み込んだ僕は、ともすれば竦みそうになる足を必死で前に出す。
一歩、また一歩。強くなる圧力の中を進んでいく。
……この先にいるのは助けなきゃいけない子供で……
それこそ僕より強いかもしれない魔法使いで……
クリスが思い出すのは、家族を守るために戦場へと馬を走らせて行った父の後ろ姿。
理想の漢のとっても大きな背中。
「……進む……」
記憶の中の父の姿に憧れ、僅かに勇気を貰ったクリスは歩く、前に進む。
辺りに満ちた黒い霧がまるでクリスを嘲笑っているかのようざわめき、その度にクリスは手に持った刀を強く握り、震える。
でも、絶対に、止まらない。
……恐い……?
……うん…恐い……
クリスは自問し、首肯する。
そう…僕にはライルのような戦いの才能もセンスなければ、それを補うような経験だってない。
あるのは膨大な魔力と、それを操れる程度の拙い技術だけ。できる戦法は、魔力に頼った力押しと、俄か刀術を併用することだけ。
恐くないわけがない。
……痛いのは嫌…僕はまだ死にたくない……
前世で刺されたおなかの辺りがシクシクと痛む。殴られ蹴られた記憶が忘れられない。
強化した視力であっても完全には見通すことができない霧の中。クリスは足の裏にヒンヤリとした地面の感覚を感じながらも、無意識の内にヒビ割れた白い仮面を撫でていた。
……イリス……皆恐いんだよね……?
……戦うのが、痛いのが恐くない人なんて……いないよね?
返事はなくてもそう考えるだけで少しだけ楽になる。
死ぬことへの恐怖は依然として強く、まるで本能に刻まれているように根強いもの。
だが、クリスには頑張る気概が湧いてきていた。
「……」
無言で力強く、辺りの闇を消し飛ばすように強く踏み込む。
頼れるものはなくても守りたいものはある。
迷いがないわけじゃないけれど……恐くないわけじゃないけれど……
でも、それでも僕は進むんだ!
「……っ……!?」
何の前触れも無く蠢く霧。流動する大気。
僕が息を呑んだのと同時に、パラパラと砂礫が辺りで弾け、前方の闇の中から巨大な火柱が噴き上がった!
……い、いきなり!先に発見されたっ!?
瞬時に上昇する周囲の気温。
吹き出る汗。熱風が僕から酸素を、水分を奪おうと襲い来る。
だけど常に警戒心を持っていた僕が、前触れもなく噴き上がった炎に驚愕したのはほんの一瞬のこと。
「……だいじょう…ぶ……」
咄嗟に目の前に掲げた掌の先。
拙い構成ではあるが、追撃に備えて分厚く展開した光の盾。それは僕の体の前で、炎の流れを完全に食い止めることに成功していた。
焦りはしたけれど、これは認識できるし、防御できる程度の攻撃だったのだ。
「……?」
しかし危機が去ったことで少しだけ余裕を取り戻した僕は、ここで一つの疑問を抱く。
……あれ…この炎……?
なぜか光の盾の手前で燻る炎からは、敵意や殺気といったものを感じなかったのだ。
それどころか燃え盛る炎から感じたのは、どこか柔らかい波長の魔力。
荒々しい見た目とは裏腹に、僕は火柱から何故か優しい印象を受けたのだ。
……?
もしかして僕じゃない誰か…誰かが戦っている……?
新しい波長の魔力の発見に仮説をたて、後先を考えずに感知を全開にすれば、なるほど、少し離れたところで二種類の魔力が互いにぶつかりあっているのが微かにわかった。
……な、なんで……?ううん、今はそんなことより援護をしなくちゃ……
迷っていたのは秒にも満たない短い間。
見る見るうちに勢いを落とし、弱々しくなっていく炎を、優しげな魔力を見た僕は、自分の魔力を全力で解放する。
「……んっ……!」
短く高い掛け声と共にブワっと僕を中心に吹き上がった魔力の風が、辺りに満ちた邪悪な霧を、炎の残滓を吹き飛ばす。乾いた地面を抉る。
黒い魔装を隔ててもわかるほどに明るく僕の銀の長髪が輝けば、背面に浮かんだ魔法陣からは、即座に巨大な一対の銀色の翼が現われた。
……ま、間に合って……!
優しい波長の魔力はもはや風前の灯。
もう警戒している時間も無ければ、タイミングを窺う余裕も無い。
僕は警戒を捨て去って地面を力強く蹴り、鈍く輝く刀を片手に全力で飛翔した……
……あ、あの子が……?
僅かな間感じていた飛翔感、そして辿りついた先、大部分が消えている赤い炎の向こう側に見えたのは、まだ十台前半と思しき銀色の仮面を被った華奢な子供。
「ーーー」
その子供は飛翔する僕に気がつくことも無く、小さく何かをとっても悲しそうに呟く。
夥しい量の血に濡れ、いたるところが破れた茶色いフードからはみ出ているのは真っ白なショートヘアー。
傷だらけの仮面の下には、半ば閉じられかけた真っ赤な瞳があるのをチラリと僕は捉えた。
……危ないっ!
僕が近づいたその瞬間、彼女はちょうど支えを無くしたかのように地面の上に崩れ落ちていく。
僕にはそれがまるでスローモーションのように見えていた。
「……っ……!」
急激な速度の変化のせいで体にかかる大きな負担。一度大きく羽ばたいて勢いを殺した僕が、手で支えたその子供の体は軽く、おそらくは女の子なのだろう、服の上からでもわかる程度には柔らかい。
多量の出血のせいだろうか。恐ろしく体温は低いけれど、でも、まだ生きている。
……酷い怪我……なんでこんなこと……
抱いたのは疑問、同情や悲しみ。
そしてこんな小さな女の子を痛めつけた者への飽くなき怒り。
……でも、まずは回復しなくちゃ……
だが、少し距離をとったところで見ず知らずの少女の体に回復魔法をかけようとした僕の思考は、そこでかなりの間停止をすることになる。
「……あれ…君……」
僕は目の前にいる銀色の仮面をつけた少女を凝視していた。
珍しい白髪に赤い瞳。
剣を使っていて……
僕より少し年上の女の子で……
も、もしかして君は……
僕の抱いた疑問は一瞬で確信へと至り、いつのまにか僕は彼女の顔についた銀色の仮面に指をかけていた。
ここには燻る炎と僕と、銀色の仮面を被った女の子だけがいて……たぶんこの女の子は……
いや……
「……誰……?」
ゆっくりと振り返った先。僕が捉えていたのは、人型に凝縮された恐ろしく黒い影。
大きさは僕と変わらないか、それよりも小さいぐらいかもしれない。
『…くくく……』
僕の言葉に影は一言も返さない。生温い風が吹くたびに、影はまるで笑い声のような不愉快な音を立てる。
輪郭は激しくぶれており、境はひどく曖昧だ。
……ぇ……か、影!?
一見風に揺れるだけの無害な存在のようにも見える影。
だがそれは見せかけだけで、その奥から感じる圧倒的な負の感情と、魔物や人のような肉体を持たないその異様な姿に僕は一瞬だけ硬直をしてしまう。
「……っ!」
……ゆ、油断してたっ!
すぐに我に返った僕は、宙に起動手前の魔法陣を浮かべ、女の子を地面に下ろして刀を構える。
『…くくくくく……』
そんな僕の致命的な隙をつくこともなく、なぜかニタニタと、寧ろどこか愉快そうに不気味な影は嗤う。
まるで余裕を見せ付けられているように感じた僕は、仮面の下で冷や汗を流さざるをえなかった。
「……」
闇以外に両者を隔てるものはなく、僕は深淵のように暗い影を覗き込み、影もまた僕の銀色の瞳を通して僕の中を覗き込む。
凄いプレッシャーに四肢は強張り、刀を持つ手には汗が滲むけれど、でも、いつでも即座に魔法陣を発動できるようにと僕の脳はフル回転をし続けていた。
……ぼ、僕は逃げないんだからっ……
死という原始的な恐怖に、逃げろという本能。
影は女の子を庇って立つ僕を嘲笑う。
『クハハハハ!!』
上がる哄笑、距離を瞬時に詰めてくる影。
「……は、はやっ……!」
咄嗟に身を護るために展開した光の盾を、僕の刀を、魔装をまるで何も無いかのように影はすり抜けて……
「……ぇ……?」
後ろの大気に溶けるようにして霧散していったのだ……
…………
………
……
…
完全に霧が消え去った後に見えてきたのは綺麗な星空。
それを見てようやく我に返った僕は小さく呟く。
「……化物……」
あまり何かを差別するような言葉が好きではない僕だが、思わずこういわざるをえなかった。
人の悪意に、絶望に力を与えて人型に固めたような、そんな異質な雰囲気を僕は先程すれ違った瞬間に感じていたから。
「……」
ここにいるのは僕と、魔力の使い過ぎ、出血多量で重篤な状態に陥っている一人の少女。
僕は見逃されたの?
一体どうして?
なんであの影は、この瀕死の女の子にトドメを刺すことすらしなかったの?
「……」
わからないことが多く、もう独り言も言う元気も湧かなかった僕は、血を流して横たわっている女の子に回復魔法をかけ始める。
……どうしてこの女の子は、あんなに恐ろしいものと戦っていたんだろう……
考えても答えは出ない。
君は…も、もしかして…イリスなの……?
だが、こちらの方はどうだろう?
僕は回復魔法をかけながら、気がついたら再び血がこびりついた銀色の仮面に指をかけていた。
これを剥がせば……きっと……
「……」
結論を言えば僕は、結局寝ている女の子の正体を暴くことはなかった。
理由はわかる。
僕は確認するのが恐かったんだ。
「……イリス…じゃ…ないよ……」
それは希望。
僕の仮面の下の頬を伝って一筋の涙が乾いた地面に落ちる。
イリスのことを友達だと思っていたのは実は僕の方だけで……
イリスはもう僕のことなんて忘れて生活をしていて……
「……っ……」
頭を過ぎる悲しい想像。
そんなのが嫌だった僕は、わかってはいながらも現実を否定する。
この人はイリスのそっくりさんで……僕の大好きだったイリスじゃないんだ……た、たぶん……
夜空に散らばる無数の美しい星。
それを見あげた僕は、唯一の友達について思いを馳せる。
魔力がなくても、でも、それでも広い世界を見に行くんだって言って貴族の屋敷から戦場に行ったイリスは僕の中にっ……
もし、もし本当に生きているのなら、真っ先に僕に会いに来てくれるはずなんだから……
後になって僕らがいたところを振り返ってみれば、そこは本当に何もない、草木一本生えていない荒地であった。
結局、昼間に大きな魔力を操って、僕を惑わせるぐらいの幻術を使い、この辺り一帯に長い間霧をはっていたあの影のことは何もわからなかった。
僕がここに来た意味はなかったのかもしれないけれど、でも、この僕が背負っている女の子の命が救われたと思えば、今日の外出は無駄じゃなかったのかな……
僕はチラリと肩越しに、おぶっている女の子のことを見る。
月に照らされた白い髪の毛はまるでイリスのもののようにとっても綺麗で、美しい。
「……話し…したい……な……」
休めるようなところを探しながら、僕はこの背負っている女の子と少し会話をすることを心に決める。
女の子の腰に差された妙に見覚えのある短刀からは、意識的に視線を逸らしていた。
……出来る範囲で色々聞きたいこともあるからね……
………………
《???》
昼であっても太陽の光が欠片すらも届かない暗黒の大地。その最果て。
黒い霧が蔓延し、魔物すらも近寄れることのできないその一帯。未だかつて人類が到達したことがないその未開の地には、ぽっかりと口をあけた大きな洞窟があった。
終始暗黒に支配された土地にあって、さらに深く、地獄へと続いているかのように開いた洞窟。
およそ生き物の気配が全くしないその洞窟の中で、天井から延々と滴り続ける水滴は、永劫の時をかけてどんな天才芸術家ですら及ばないほどに美しい芸術を作り上げていく。
『くっくっく……』
しかし、今、誰もいないはずの洞窟の中には、どこからともなく聞こえ始めた不気味な笑い声が響いていた。
それは確かに人間が使っている言語のようではあるが、決して生きている人間が発したものでない。
闇が、闇そのものが肩を震わせるように、どこか楽しそうに笑っているのだ。
『くくくくく……くはっはっはっはっは!』
生き物の気配がまるでしないその空間。意思を持って存在している闇は、なぜか気が狂ったように哄笑を撒き散らす。
天井から下がる長い歴史をかけて作られた美しい鍾乳石の何本かが崩れ、地面から伸びる石筍を打ち砕いた。
『……素晴らしい!』
やがて闇は人型を取り、ようやく顕現する。
『……くっくっくっく……あぁ、なんて素晴らしい』
よくよく見れば、影のおおよそ人で言えば左腕に当たる部分、そこがまるで炭化しているかのように煙を上げ、ブスブスと辺りに嫌な臭いを撒き散らしているではないか。
そして、それを見て心底楽しそうに笑う影はやはり人ではないのだろう。
もし人であるならば、完全に気狂いの類か……
『くくくっ…もうすぐ封印も完全に……』
そう言って心底楽しそうに影は笑う。
鍾乳洞全体が震え、大気に満ちた黒色の霧が振動した。
『―――死にたい―――』
『―――暗い――恐い―――』
『―――殺してくれ―――』
決して空耳ではない誰かの声。
途切れることなく、影が笑っている間でさえも絶え間なく聞こえていたそれらの小さな、複数人の怨嗟の声は果たしてどこから聞こえてきたのだろう?
今はまだ誰にもわからない……




