忍び寄る影
『ふむ……一体どうしたものか……』
一寸先すらわからぬ深き闇の中。その中にあってなお、まるで白い半紙に垂らされた一滴の墨汁のような異彩を放つ人型の影。
黒でありながらあたりの闇に溶け込むことなく、異質な雰囲気を持ってその存在を浮き上がらせていたその人型は、傍目から見るとまるで困惑しているかのようにも見えた。
『まさか人間がここまで脆弱だったとはな……』
山を一つ消し飛ばすほどの強大な力。惜しげも無く行使した力の反動によって、一回りほどサイズが小さくなり、絶え間無く体全体にノイズが走るようになってしまった影。
彼は黒色の、どこに脳があるのかすら定かではない体で思考する。
長い間眠っていた間に、手加減というものを忘れていたのだろうか?
否、人という存在が以前にも輪をかけて弱くなっているのではないか?
闇の中には、元がなんだったのかすらわからないほどに分割された肉片が鎧や武具と共に四散していた。
血生臭い臭いがあたりに満ちている。
『ふむ……』
もう残り魔力の少ない分体であるとはいえ、このまま消すのもつまらない。
まだ何も楽しんでいなければ、戯れに山を一つ消し飛ばし、弱者を踏み潰しただけなのだ。
『味気ない……』
あの時感じた高揚感はなんだったのか……死に直面した人間は、あの憎き神をも超える奇跡を起こす存在ではなかったのか?
私を殺せるほどの存在ではなかったのか……?
『まるで足りない……まさか私の思い違いだったのか……』
暫しの沈黙。
そして影は結論を出す。それは至極当然の結論。
目の前の肉片がきっと異常に弱く、情けなかっただけであろうと。
『そうか…そうなのか……』
残念に思ったことこそ否定はできないが、幸い待つことにはそれこそ死ぬほど慣れている。
なれば、マトモな強者が来るまでの間、細々とこの分体を維持し続けるのもまた一興。
『くくく……』
不毛の大地、夜の荒野。
踏み潰した虫ケラの血で赤く染まった大地に立つ漆黒の影は、幾分か小さくなった体を嬉しそうに、まるで笑っているかのように小刻みに揺らす。
……一体どうやってあの忌々しい人間どもに復讐してくれよう……
邪悪な思考に共鳴するかのように辺りの闇が揺れ、まるで影の黒い体に亀裂が走っているかのように一層激しいノイズがはしる。
実体を持たない影が、随分と小さくなった己の体を再び削って魔力を行使したのだ。
『なんとも楽しみだな……』
満足気に自身が辺りに張り巡らした結界をみた影は、また暫しの間、眼を瞑ることにしてその動きを止めた……
………………
《クリス視点》
「ここで当時の哲学者べネディクト・エルスマンは、ニコポ論というものを提唱したが、これは当時の男性学者達の大半から否定的に受け止められ、学会からも……」
時刻は正午を少し回ったところ。
学校でおこなわれている歴史の授業もそろそろ終盤に差し掛かり、昼休みまで後少し、お昼ご飯までもう少し、そんな生徒達の声にならない願望が聞こえてくるような教室の中。
窓際の最前列に座っており、いつもの如く全くお腹の減っていないクリスは、暖かい春のポカポカとした陽気に当てられて、思わず夢の中へと旅立ってしまいそうになっていた。
……気持ちがいいなぁ……
溶けてしまいそうな、蕩けてしまいそうなそんな春の柔らかな日差し。
クリスはうつらうつらとして……
……っ!?
それはまさに青天の霹靂。
なんの前触れもなく、それこそ唐突に発生した巨大な魔力の反応。クリスの形の良い銀の眉が大きく跳ねあがる。
……ず、随分と離れたところ…国境付近?
と、とっても大きな魔力の反応が……
感じたのは禍々しく、攻撃的で自信に満ち溢れた魔力。
でも、それは同時にどこか凪いだような穏やかさをも持ち合わせているようで、クリスは無意識のうちに鳥肌をたたせていた。
「……」
クリスは無言で己の平べったい胸に手を当てる。
返ってくる鼓動は激しく、とても嫌な胸騒ぎがしていた。
……なんて…禍々しいっ……
「…スさん?クリスさん?
大丈夫ですか?どうかしましたか?」
横からかけられる声。ブラウスの袖を引っ張られる感覚に驚いて横を向けば、そこにいたのは金色の髪に碧眼の美少女。
そういえばまだ授業の途中だったようで、級長でもある彼女は、どうやら僕のことを心配してくれているようだった。
「……なんでも…ない……」
「少々お疲れのように見えまして。
あら、それは随分と可愛らしいハンカチですわね。
クリスさん、よく似合っていますわ」
「……そう…かな……?」
僕はいつの間にかかいていた冷や汗を、スカートのポッケから取り出した花柄のハンカチで拭く。少し恥ずかしさを感じながらも、授業の邪魔をしないように極力小さな声で返答をする。
幸い、恐ろしいほどの魔力を感じていたのは1分にも満たない僅かな時間。
不気味なことに変わりはないが、ともかくクリスの激しい心音は、鼓動は徐々に治まりつつあった。
……さっきのは一体なんだったんだろう……?
気のせいでないということは、感じたクリスが一番よく知っている。
……こっそり様子を見に行った方がいいかな……?
今は感じないとはいえ、もし、さっき感じた魔力の波動が気のせいで無いとするならば、あの邪龍や豚王に匹敵するだけの恐ろしい化け物が、ここから西側の国境付近にいる可能性があった。
……うん……夜にこっそり抜け出して…
離れているとは言っても、翼を使えば数時間とかからない距離。
不測の事態さえ起きなければ、全く問題無く行って帰って来れるはず。
「ニコポ論を独自に解釈し、さらに発展させた形として、ベネデディクト・エルスマンの一番弟子であったモーラ・ジュールはナデポ論を……」
「ふふん、明日の剣術の授業が楽しみだよ。
えっ?一体どうしてかって?
そんなの勿論僕の実力を証明するいい機会だからに決まっているだろう?」
「おい、もう貴族だからって調子に乗ってんじゃねぇぞ?誰も聞いてねぇよ!」
「ふん、僕の身から溢れ出る高貴なオーラに気がつくことすらできない愚民が。
君にはどうやら僕の華麗な剣技をお見舞いしてあげなくてはいけないようだね」
「フォルコンうるさい。授業の邪魔だから黙ってて」
「お前から出てるのは悪臭だろ?黙ってろよフォルコン」
クリスは真面目に授業をする教師の声や、自慢話をする名前も知らないクラスメイト達の話し声の全てを目を瞑って一度遮断する。
すぅーはぁー
深く深く呼吸をし、まだ少し残っていた動揺を落ち着け、僕は体内を巡る魔力の流れに思いを馳せる。
すぐにクリスの知覚範囲から教室が消え、集中が深くなるに連れてより鮮明に感じるのは音のしない静かな湖面に潜り、果てのない底へと潜っていくような不思議な感覚。
それは慣れ親しんだ感覚でクリスのことを惑わせるものではなかった。
……あと少し…深く……
彼女は僅かな瞑想で、問題なく体の奥にある超常の力との対面を果たす。
……僕の魔力……これは簡単に誰かの命を奪う力……
目の前に存在するのは、まるで青空のように透き通った大海。
前世の頃からは考えられないほどに太く、力強い魔力の流れ。
邪竜と戦った時にはその大半を使い切り、枯渇寸前になるまで減ったその力。
だが、今では当時以上に増加し、もう前世においてもトップクラス。比肩するものが、いないというほどには増加していた。
……大丈夫……僕はこの世界を、平和な今を守るって決めてるから……
魔力の流れは僕の覚悟を汲み、内心を反映するかのようにその輝きを強めていく。
戦うだけの力はある。
命を奪う覚悟だって…ある。
僕は…僕は戦えるんだ!
「クリスさん、本当に大丈夫ですか?
もしかしたらお加減があまりよろしくないのではありませんか?」
ハッとして顔を上げれば、かなり近い距離、まさに目と鼻の先から心配そうに僕のことをじっと見つめるソプラノの顔が。
「……あっ…う、うん……
だ、大丈…夫……」
少し調子に乗りすぎていたのだろう。
僕は綺麗なソプラノの顔に少し赤面しながらも、必死に健康であることをアピールしたのであった。
「ユーリ…寝た……」
新しく運び込まれたベットの上。小さな寝息をたてて眠る小さな女の子。
彼女は8歳ながらに、特例として10歳の一年生達に混じって授業を受けていた小さなユーリちゃん。
僕の使用人で新しい妹。
少し興奮した様子で授業の風景を僕に話してくれたユーリちゃんは、やっぱりきっと疲れていたのだろう、まだ少し寝るには早い時間だけど、今はもう完全に夢の中。
「…外…行く……」
魔法で強制的に眠らせることも視野にいれてはいたが、どうやらその必要もなさそうで、僕は僅かに安心しながら外出の用意を始める。
「…服…どこ……」
ガサゴソとチェックのスカートやらピンク色の女の子の服ばかりがあるクローゼットを漁って、奥の方から私服でもあるラフな男物の服を引っ張り出す。
……やっぱりズボンが一番。
スカートは落ち着かないよね……
「…うん……」
僕はいそいそと着替え、次に魔装の外装部分の色を変化させるべく集中をする。
淡く一瞬だけ輝き、慣れた動作で僕の体を覆う男らしい黒のローブ。癖からか色を変えたのと同時に、僕の左手には恐怖心や躊躇いといった負の感情を抑制することのできるはずの白い仮面も顕現していた。
「……あっ……これ……」
僅かに驚く僕の左手に乗っていたのは、もう二度と消せないほどの大きな罅が入り、端が欠け、随分とボロボロになってしまった白い仮面。
最後にみた時に比べれば随分と再生しているようではあるが、一年もかけてこの程度しか再生していないということは、そもそも限界を超えた使用で術式のどこかが修復不可能なほどに破損しているのだろう。
きっともうこれ以上再生することはない。
……作り直せるかな…?
いや、やっぱり消すべきなの……?
罅割れた白い仮面の処分の仕方を僅かに思案した僕は、結局その仮面を顔につけることにした。
「……大丈…夫……」
仮面の効果は罅がはいっているせいかほとんどなく、もう素顔を隠すだけの普通の仮面となんら用途は変わらない。
でもこの仮面は、僕が悩んで、とっても苦しんでいた時期に一緒に戦ってくれた、言ってみれば大事な大事な戦友。
女々しいと言われるかもしれないけれど、どこかイリスのことを思い出す色合いをしたこの仮面を僕は壊す気にはなれなかったのだ。
……ありがとね……
「…うん……」
僕はベッドで穏やかな寝息をたてる可愛らしいユーリちゃんを一瞥し、皹の入った大事な仮面の表面を指先で撫でる。
同時に背面に展開される魔法陣。蕾が花開くように僕の背中から生えてくる一対の銀色に輝く翼。
目的地は昼間に突如として巨大な魔力が発生した例の場所。
思い浮かべるのは最強の自分。
……大丈夫……うん、僕は戦えるんだから……
大通りでみた楽しそうな女の子の姿や男の子達の姿が脳裏を過ぎる。
……何もなければいいんだけど……
窓の枠を軽く蹴り、闇の中に身を躍らせた僕は、重力に引かれて地に落ちていく。
夜特有のどこか澄んだ風が、ローブの内側に仕舞われた僕の銀髪を撫でるようにして後ろに抜けて行く。
僕は落下する。
「……行こう……」
急速反転。
地面に墜落する直前、僕は身長よりも遥かに大きな翼を展開し、滑空。
落下の反動を活かして僕は、輝く翼で闇を切り裂いて飛翔した……
………………
《イリス視点》
「そろそろ着くかな?」
手に持った短剣で邪魔な草木を切り払いながら真夜中に道無き道を走り、目的の場所へと向かうボク。
「こっちの方でいいはずなんだけど……」
比較的マトモな土地感覚、距離感覚を持つボクは、案の定それから少しして星明かりとは違った光を捉えていた。
「ふぅ…無事に見つけられたみたい。良かった良かった」
ボクは闇の中、どこか幻想的に浮かび上がったランタンの光に、まるで火に引き寄せられる虫のように近づいていく。
「うん、お仕事お疲れ様。
悪いけどこれで通してくれる?」
そこにいたのは一人の騎士。
少し開けた場所に立った彼は、かなり古風な装備に身を包み、いかにも厳格そうな、真面目そうな風貌をしていた。
『なんだ貴様は?』
見た目通り低く、渋い声でまるで恫喝するかように声を上げる騎士。
『早急に帰られるがよい!
どこから来たのかは知らないが、ここは力無き一般人が来るようなところではないのだ!』
ボクのことをチラリとも見ることなく、勿論一切表情を変えることなく厳格そうな騎士は言う。
「ちょっと待ってね…すぐにギルドマスターから貰ったボクの身分証明書を……」
『おいおい!まずはどうしてここに来たのかって聞くのが道理ってもんじゃねぇのか?
お前は怒鳴ることしか出来ないのかっての。
もしかしてあれか?お前の首の上に乗ってるその大層な頭は飾りか何かか?』
ボクの言葉を、行動を遮るようにして騎士に難癖をつけ始めたのは一人の冒険者風の男。
「いや、別にそこまで酷く言わなくても……」
『……ふん!任務に私情を挟むなど笑止千万。しかも騎士に対してただの冒険者風情がなんたる言葉遣いか。
やはり冒険者という輩は皆須らく粗野で礼儀とやらを知らないらしい』
『はぁ、そのお上品でご立派な騎士様はなんでこんなところにいるんですかねぇ?
王様に尻尾でも振ってればいいのによぉ』
軽く引いているボクのことなど意にもかえさない様子で殺気出し合う二人の男達。
……うわぁ…なんだか悪い雰囲気……
冒険者と騎士たちが仲が悪いのはボクも知ってはいたけれどまさかここまでだとは思わなかった。
もしかしたら内乱の影響でお互いの関係がかなり悪化したのだろうか?
『抜け。どちらの格が上かその身にしっかりと刻み込んでやろう』
『上等だ。騎士様のお上品な剣術とやらが本当に通用するのか教えてやんよ』
はぁ……
ボクは一つ溜息をついて二人の男達をそのままにコッソリとその場を後にする。
「あんなの相手にしてられないし、ここからはしっかりと気合をいれていかなくちゃね……」
感じるのは異質な雰囲気。
現世とはどこか隔絶しているような、不思議な世界。
淀んだ重い空気がボクの体にのしかかってくる。
「でもなんだか嫌な感じ。
できるだけ油断しないようにしなくちゃ……」
なぜ彼らはこんなところに立っていたのだろう?
そんな疑問が一瞬頭を過ぎったボクであったが、すぐに大したことではないと考えを改め歩み始める。
どこからか聞こえたボクを嘲笑うような声に気がつくこともなく……
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