ばい、ばい
こちらに向かってくる姿には見覚えがあった。肌寒くなってきた夕方六時過ぎ。部室のゴミをゴミ捨て場に持っていく途中、頬の辺りだけが熱くなっていくのがわかる。
間違いない。あれは確かに――
「あの人、おるよ」
恋焦がれる人の姿に隣を歩く友人も気付いた。「あの人」と私の距離はどんどん近付いていく。今見れば確実に目が合うだろう。
「ばいばい!」
と、そう言わなければ。向こうも部活帰りで、茶化す友人はおらず今は一人。
これは待ちに待った絶好のチャンスだ。
「え? ……あぁ、ほんまや。気付かんかったわ」
私の声は友人に対しての誤魔化しの言葉になって出てきた。あの人はというと、とっくに私の横を通り過ぎてしまっていた。
正直、気付かなかったわけがない。友人より先に、私の目があの人のシルエットを捉えてから、顔は熱くなるわ胸の辺りは何だかどくどくうるさいわで、意識せずにはいられなかったというのに。
なぜあんな嘘を言ってしまったのだろう。
「言ったらよかった」
ゴミを捨て、帰路に引き返していたとき、私はぽつりと呟いた。今更になって気持ちは素直になる。
「あほやなぁ」
隣から聞こえた呆れ声に、深く頷く。
「ほんま、あほや」
だめだ、泣いてしまう。あほな上に落ち込みやすいときた。私はこの言葉を何週間言えずにいるんだろう。
一回、たった一回だけだが、あの人に言えたことなのに。
雨の日、真っすぐ帰る気にもなれず駅前で友人と話している時、練習でびしょぬれになったのであろう彼と、男友達の姿が見えた。そのときも、彼の姿が目に飛び込んできた瞬間、私の心臓はうるさく騒ぎ始めた。
「おい」
男友達がおもむろに私に近づいてきた。彼は少し離れたところで立ち止まっていた。
「あいつにばいばいって言いや」
「え?ちょっと……」
言いかけた私を見事にスルーして、そいつは立ち去った。当然、彼もその後をついて行く。その後ろ姿を見た瞬間、鼻の奥がツンとした。
「ば、ばいばい!」
確かに自分の声で、自分がそう言ったのが聞こえた。一瞬で体温は上昇する。あの人が、不思議そうにこっちを振り返ったのだ。後悔の念が私の中に積もり出した時、
「ばいばい」
あの人はそう私に言ってくれた。私に向かって、ふわりと笑ってくれた。しかも手まで振ってくれたのだ。友人が私の脇腹を突っつくまで、私にはそれが夢だか現実だかわからなかった。
たかが四文字で、こんなに幸せになれるなんて。あぁやっぱり好きだ。
「……気持ち悪っ」
ヘラっと頬を緩ませる私を横目に、友人は言った。
たかが「ばいばい」なのに。たかが「おはよう」なのに。
一体何度練習すれば、もう一度あの人に届かせることができるのだろう。ダイエットしたり、髪型を変えたり、雑誌を広げてどれだけ綺麗になる努力をしても、一言言えないままでは始まらないのに。
「……ばい、ばい」
天を仰いで言ったその言葉は、月が顔を出し始めた空に吸い込まれた。
チャンスを下さい。
そしてまた、私だけに笑って下さい。
秋の夜空に願ったのは、たったそれだけ。