第七十一話
食事を終えた美咲はバルコニーに出ていた。
長時間座っていたために、固まってしまった体を伸ばす。
振り返ると、酒で陽気になった父親の姿がある。
その被害を受けているのはレイブンで、背中を何度も叩かれている。
迷惑に違いないが、レイブンはそれを一切表情に出さず、笑顔で受け入れていた。
三人の中で最も年上というだけある。
顔を正面に向ければ、心地よい風が頬を撫でる。
美咲はバルコニーの手摺りに両肘を置いて、空を見上げた。
空には雲一つなく、月と小さな星だけが浮いていた。
城下町の赤い屋根がぼんやりと月光に照らされている。
「私って異世界にいるんだ……」
思わず当たり前のことを呟いてしまう。
目の前に映画のような景色が広がっているからなのかもしれない。
異世界にいるということを改めて実感する。
「元の世界に帰りたいのか?」
背後から声をかけられて、肩が小さく揺れる。
振り返ると、恭輔が腹部を押さえながら立っていた。
食べ過ぎたのか、少し苦しそうだ。
「すごい食べっぷりだったね」
さきほどの光景を思い出すと、笑いを堪え切れない。
ざっと10人前は軽く超えていただろう。
メイド達も慌てて料理を運んでいた。
普段の食事では一人前しか頼まないので、恭輔が大食いだとは知らなかった。
「さすがに食い過ぎたな」
ふらつきながらも、美咲の隣に立って町を見下ろす。
夜になると、町は仕事を終えた者達で賑わい始める。
「すごいな、田舎育ちの俺には信じられないよ」
生まれて初めて見る景色に、恭輔は驚きを隠せない。
新宿や渋谷を見ている美咲には、それほど驚きはなかった。
それでも、この世界に来てからは最も華やかな夜だ。
微かに城下町から賑やかな声が届いてくる。
しばらくは聞こえてくる声に耳を傾けていた。
「帰りたくないって言えば嘘になるかな」
急な話に、恭輔は怪訝な表情になった。
すぐに話の続きだということに気付き、黙って聞くことにした。
「向こうには友達いるし、戦う必要もないしね」
美咲は自身の手に視線を落とした。
精神を集中させると、淡い光が両手を包み込む。
僅かだが、休んだことで魔力が回復したようだ。
この世界に来てから何匹の魔物と戦っただろうか。
少しでも油断をすれば命を落としかねない緊張感。
できれば二度と味わいたくない感覚だ。
「でも、今は帰る時じゃないって思ってる」
やらなければならないことがある。
自分にできるかわからないが、できる限りのことはしたい。
「そうか、ならいいんだ」
恭輔の顔が明るいものに変わった。
美咲が不思議に思い、口を開こうとした時。
背後から第三者の声が届いた。
「嬉しそうだね、恭輔?」
美咲と恭輔がほぼ同時に振り返る。
そこには柱に背中を預けたレイブンの姿があった。
「レイブンさん、いつからそこに?」
「んー、恭輔が田舎の生まれってところかな?」
「お前……ほとんど最初からいたってことだろ」
恭輔の表情が一気に不機嫌なものになる。
最も聞かれたくない相手に聞かれてしまった。
にやけ顔のレイブンを見るのが嫌になり、恭輔は顔を背けた。
「まぁまぁ、暇だったから仕方ないでしょ?」
「暇?」
美咲が首を傾げると、レイブンが室内へ顔を向けた。
視線の先を辿ると、美咲の父がテーブルに突っ伏している。
飲み過ぎて寝てしまったようだ。
兵士が二人係りで部屋に運ぼうとしている。
「娘との再会が嬉しかったんだろうね、美咲ちゃんの話をたくさんしてくれたよ」
「え?」
美咲の動きが止まる。
父が知っているのは3歳までのはず。
13年前の話をされても恥ずかしいだけだ。
「お父さん、余計なことを……」
美咲の顔が少しだけ赤みを帯びる。
レイブンは咳払いをして、話題を変える。
「それで、これからどうするんだい?」
その言葉には、明日には出発する?という意味が含まれている。
美咲は手摺りに寄り掛かって考え込む。
「お父さんは好きなだけ城にいて構わないって言ってくれましたけどね……」
かといって父親に甘え続ける訳にはいかない。
次の旅までにもっと強くならなければ。
それまでは父の厚意に甘えることにする。
「私は使える魔法を増やしたいです」
最低でも治癒魔法を使えるようになりたい。
恭輔やレイブンの補助ができなければ、後衛として役不足だ。
首都ならば魔法に関する書物が大量にあるはず。
「俺はレイムを倒せるほど強くなりたい」
恭輔は町を眺めたまま、自身の思いを述べた。
大切な妹に辛い思いをさせているレイムが許せない。
レイムを倒すことで妹の病が治らないとしても、今のままでは腹の虫が治まらない。
そのためにはもっと強くなる必要がある。
「レイブンさんはどうするんですか?」
「僕は……呪いを解く方法を探すよ」
長い歴史をもつセントリアなら魔族に関する資料もあるだろう。
それを探すことに加えて、レイブンにはやりたいことがあった。
「観光するついでに、ね」
魔族であるレイブンは力を封印されている今しかセントリアに入ることができない。
ならば今のうちに観光しておかないと勿体ない。
このような機会は二度と訪れないかもしれないからだ。
「レイブンさんらしいですね」
美咲は口元に手を当てて笑った。
恭輔も美咲につられて小さく笑う。
「お話し中、失礼します」
メイドが食堂の中から声をかけてきた。
食堂では食事の後片付けが行われている。
「夜は冷えますので、お部屋にお戻りになられた方がよろしいかと思います」
「はい、わかりました」
美咲達は食堂を経由して、廊下に出た。
部屋に戻る途中で恭輔、レイブンと別れて自分の部屋に戻る。
廊下の角を曲がったところで、美咲は足を止めた。
「あれ、誰かいる?」
部屋の前には一人のメイドが立っていた。
金色の長髪を頭の上で束ね、凛とした表情をしている。
メイドは美咲に気付くと、深く頭を下げた。
美咲も反射的に頭を下げる。
「お待ちしておりました、姫様」
「あ、どうも」
姫様と呼ばれ、曖昧な返事をしてしまう。
メイドは表情を崩すことなく、淡々と話し続けた。
「姫様のお世話をさせていただきます、ジュリアと申します」
「えっと、よろしくお願いします」
「私は使用人ですので、敬語はお止め下さい」
「あ、うん」
初対面の相手とは敬語で話すようにしていたので、違和感を拭い切れなかった。
それでも、言われた以上はタメ口で話すべきだろう。
「それでは、お部屋にご案内します」
「え?」
案内も何も部屋は目の前にあるではないか。
美咲の疑問を察して、ジュリアが口を開いた。
「この部屋は姫様に相応しくないので、別のお部屋をご用意しました」
「そ、そうなんだ」
美咲本人は特に気にしておらず、狭い部屋でも十分だった。
しかし、国王の娘という立場上そうもいかないらしい。
美咲はジュリアに連れられて、別の部屋に向かった。
徐々に廊下の床や壁が立派なものに変わっていく。
「こちらです」
ジュリアは大きな扉の前で足を止めた。
扉を開けて、美咲が部屋に入るのを待つ。
「ありがとう」
美咲は礼を言って、足を踏み入れる。
そして部屋の豪華さに言葉を失った。
キングサイズの天蓋付きベッド、大きな姿見。
城下を一望できる大きな窓に巨大なクローゼット。
床には柔らかい絨毯が敷いてあり、天井にはシャンデリアが吊るしてある。
「お休みになるのであれば、こちらにお召しかえ下さい」
ジュリアはクローゼットから真っ白なネグリジェを取り出した。
初めてのネグリジェに抵抗はあったが、私服で寝るわけにはいかないので着ることにした。
「何かお飲みになりますか?」
「うーん、眠たいからいいや」
美咲はベッドに倒れ込んだ。
客室とは比べ物にならないほどの柔らかさだ。
かといって客室のベッドが粗悪というわけではない。
この部屋のベッドが凄すぎるだけだ。
「姫様、そのままでは風邪を引かれますよ」
「うん、わかって……る」
頭では理解しているが、体が動かない。
美咲はそのまま眠りに落ちた。
作品を最初から見直しました。
プロローグが見にくいので、一つにまとめます。