第1話:トレーナーは鞭を使わない
「――リーゼ・ド・ベルシュタイン! 貴様のような理屈ばかりの無能、我がギルドには不要だ! 今すぐ消え失せろ!」
石造りのギルドホールに、野太い怒声が響き渡った。
声の主は、この国でも指折りのビースト・テイマーとして知られるバルガス男爵だ。その手には、魔力を帯びた「服従の鞭」が握られている。彼のスタイルは強力な魔力を行使した《支配型》、恐怖と権威で抑え込む、この世界では一般的なテイム手法である。
対する私は、手元のストップウォッチをパチリと止めた。
「……男爵。今の怒鳴り声、デシベル換算で平均値を大きく上回っています。それに、私が無能であるという主張に対して、客観的なエビデンスを提示していただけますか?」
「えっ、えび……?」
バルガスが毒気を抜かれたように目を見開く。
私は淡々と、手に持っていた羊皮紙の記録表を彼に突きつけた。
「では、私の方から先に。これは、私が担当したFランクからDランクの魔物たちのデータです。
【命令への反応潜時】は、介入前の平均5.2秒から0.8秒へと短縮。反応速度は650%向上しました。さらに、複雑な連携行動の**【正答率】は、以前の12%から95%**へと跳ね上がっています。これらはすべて、首輪の魔力を使わず、適切なタイミングでの『正の強化(ご褒美)』のみで達成した数値です」
バルガスの目が点になった。
「対して、こちらが男爵、貴方の手法によるデータです。
貴方は一日に平均42回の鞭打ち、つまり『嫌悪刺激』を与えていますね。その結果、魔物たちの【攻撃的バースト】の発生頻度は、先週比で210%増加しています。
貴方はそれを『元気がある』と誤認しているようですが、行動分析学的には、過剰なストレスによる『逃避・回避行動の機能』が働いているに過ぎません。魔物たちは貴方に従っているのではなく、ただ『痛みから逃げるための最短ルート』を探しているだけ。その証拠に、貴方が背を向けた瞬間の心拍数は、安静時の3.2倍を記録しています。これは明らかな殺意のサインです」
「何をわけのわからんことを! 魔物は心で屈服させるものだ! 貴様のようにエサで釣って媚を売るなど、テイマーの風上にも置けん!」
私は内心でため息をついた。
異世界に転生して一ヶ月。この世界の「テイマー」の常識は、あまりに非科学的で、何より動物愛護の精神に欠けている。
前世でドッグトレーナー、そして行動分析学の専門家として活動していた私から見れば、彼らのやり方は「動物虐待」のカタログスペックそのものだった。それで成果の一つも上がるなら、まだいいが。
「データで比較すれば、結果は明白です。
私の手法は、管理コストを80%削減しながら、戦闘能力を3倍に引き上げました。一方、貴方の手法は、管理リソースを浪費し、魔物の寿命を縮め、さらに『飼い犬に手を噛まれるリスク』を恒常的に高め続けている。
結論を申し上げます。
男爵、貴方のマネジメントは『投資対効果が極めて低い、非科学的なギャンブル』です。
これ以上、私の貴重な時間を、貴方の無能な指導の尻拭いに費やすのは合理的ではありません。……よって、私は本日付でこのギルドを辞職し、より『学習効率の良い個体』の元へ移らせていただきます」
私が踵を返そうとした、その時だった。
ギルドの奥、重厚な鉄格子の向こう側で、地響きのような咆哮が轟いた。
――ガァアアアアアアンッ!!
強烈な魔圧がホールを駆け抜ける。
居合わせた冒険者たちが悲鳴を上げ、腰を抜かした。
そこにいたのは、漆黒の毛並みを持つ巨大な狼。
絶滅危惧種の最上位魔物、シャドウ・ウルフだ。
「ヒッ……! ま、まずい、鎖が切れるぞ!」
「あいつ、昨日の討伐隊から捕獲してきたばかりの『黒き絶望』だ!」
バルガス男爵の顔が、みるみるうちに土気色に変わっていく。
「お、おい! 誰か『服従の首輪』を持ってこい! こいつを殺せ! 処分しろ!」
シャドウ・ウルフは、血走った眼で周囲を威嚇していた。
鎖を噛みちぎり、今にも誰かの喉笛にかじりつこうとしている。
騎士たちが槍を構え、魔術師たちが攻撃魔法の準備を始める。
私はその光景を――ただ静かに、観察していた。
「(ターゲット:シャドウ・ウルフ。行動:威嚇・攻撃。先行条件:多数の人間による囲い込み、金属音、視覚的な武器の提示、そして……)」
私はバルガスの持つ鞭を見た。
彼は恐怖に震えながら、無闇にその鞭を空中で振っている。ピシッという高い音が響くたび、シャドウ・ウルフの耳が不自然に動いた。
「(なるほど。音に対する過剰反応。過去に同様の音刺激と共に痛覚を与えられた経験がある。典型的な『逃避・回避行動』の機能ですね)」
私は一歩、前へ出た。
「おい、死にたいのかリーゼ! 下がっていろ!」
バルガスの静止を無視して、私はシャドウ・ウルフの射程圏内へと足を踏み入れる。
「グルルルルッ……!」
巨大な狼の牙が、私の鼻先まで迫る。
周囲からは悲鳴が上がったが、私は笑みを浮かべた。
恐怖を感じる必要はない。これは「予測可能な行動」に過ぎないのだから。
「こんにちは、可愛い子。その牙、立派ですね。でも、今はそれを使う必要はありませんよ?」
私は腰のポーチから、あるものを取り出した。
それは、この一週間、私が密かに開発していた「高価値強化子」――魔力を帯びた乾燥肉のチップだ。
それと同時に、左手には小さな金属製の器具を握る。
カチッ、という小さな音を鳴らすだけの道具。クリッカーだ。
「さて。まずは『消去』から始めましょうか」
私は、シャドウ・ウルフが私を噛もうと飛びかかってくる瞬間、あえて視線を外して「完全に無視」した。
同時に、周囲の騎士たちに鋭い声で命じる。
「全員、槍を下げて! 彼を見ないで! 音を立てないで!」
私のあまりの気迫に、騎士たちが思わず槍を下ろした。
攻撃対象が静止し、自分を無視したことに、シャドウ・ウルフは一瞬の困惑を見せた。
動きが止まる。
その瞬間を、私は逃さなかった。
カチッ!
クリッカーを鳴らし、即座に乾燥肉を鼻先へ放り投げる。
「ガフッ!?」
反射的に肉を飲み込む狼。
噛み砕いた瞬間、彼の瞳が大きく見開かれた。
魔力循環を助け、幸福ホルモンを分泌させる特殊な成分を配合した私の自信作だ。
「おい……今、何をした?」
「黙って見ていてください。今は彼が『正解』を選んでいる最中ですから」
シャドウ・ウルフは、再び私に飛びかかろうと身構えた。
私はまた無視する。
そして彼が戸惑い、一瞬だけ地面に四足を着いて静止した。
カチッ!
また、肉を投げる。
今度は、彼は肉を食べるスピードを早めた。
「(条件付け完了まで、あと数回。随伴性を理解し始めましたね)」
私はあえて、肉を投げる位置を少しずつ自分の方へ近づけていった。
逐次近似法だ。
ホールの中は、奇妙な静寂に包まれていた。
つい数分前まで「絶望の化身」と呼ばれていた魔物が、一人の少女が鳴らす小さな音と、放り投げられる肉チップに翻弄されている。
五分後。
そこには、私の足元でしっぽを振りながら、次の「音」を待っている巨大なワンコがいた。
「お、おい……嘘だろ……」
「伝説のシャドウ・ウルフが、あんなに大人しく……」
私は屈み込み、その黒い額を優しく撫でた。
彼は気持ちよさそうに目を細め、私の手に鼻を擦り寄せてくる。
「良い子ですね。あなたは凶暴なんじゃない。ただ、どう振る舞えば快適になれるのかを知らなかっただけ」
「リー、リーゼ! 今の術は何だ!? どんな魅了魔法を使った!?」
バルガス男爵が、腰を抜かしたまま這い寄ってくる。
私は彼を冷ややかに見下ろした。
「魔法? そんな非科学的なものは使っていません。ただの『正の強化』です。正しい行動に正しいタイミングで報酬を与え、望ましい行動の頻度を増やした。それだけですよ」
「そ、そんな馬鹿な! そんなことで、魔物が従うはずが――」
「従うはずがない、と思っているから、貴方はテイムに失敗し続けるんです。力で抑え込めば反動が来る。それが自然界の摂理、行動の法則ですから」
私はクロ――そう名付けた狼――の背中にひょいと跨った。
「さて、契約解除でしたね。クロも、こんな野蛮な場所には居たくないそうです。一緒に行きますか、クロ?」
クロは「ワフッ!」と短く吠えると、驚愕するギルドの面々を尻目に、風のような速さでホールを駆け出した。
背後でバルガスの「待て! その魔物はギルドの財産だぞ!」という声が聞こえたが、私は振り返らなかった。
「……ふふ。自由になるための先行条件は整いました。次は、拠点となる『環境設定』から始めないとね」
私とクロの、異世界行動分析ライフが始まった瞬間だった。
まさかこの時、自分が一国の王女を「しつけ」直し、さらには国家そのものを「調教」する宰相へと成り上がることになるとは――当時の私は、まだ予想だにしていなかった。
とりあえず、今の目標は一つ。
クロがもっと喜ぶ、最高級の「ご褒美(強化子)」を見つけることだ。
「さあクロ、次のステップへ行きましょう。スモールステップで、世界を変えるますよ」
青空の下、私はストップウォッチを再び動かした。




