外伝短編|正しいまま、消えていく
高校生の頃の自分は、特別でも何でもなかったと思う。
部活もそこそこ、成績も中の上。
友達はいて、家に帰れば夕飯が用意されていた。
ただ一つ、はっきりしていたのは、
「ちゃんとやれば、ちゃんと報われる」
と、本気で信じていたことだ。
大学受験に失敗したのは、冬の終わりだった。
掲示板の前は、人で溢れていた。
白い紙。黒い文字。
自分の番号だけが、そこになかった。
周囲の空気が、一瞬だけ冷たくなる。
耳の奥で、血の流れる音がやけに大きく響いた。
帰り道、駅までの道をどう歩いたのか覚えていない。
靴底がアスファルトを擦る音だけが、やけに鮮明だった。
家に帰ると、母がすぐに気づいた。
「……ダメだった?」
短い問い。
自分は、黙って頷いた。
「そっか」
それだけ言って、母は台所に戻った。
包丁がまな板に当たる音が、一定のリズムで続く。
その夜、父が言った。
「浪人して、もう一度やってみるか」
声は落ち着いていた。
怒りも、失望もなかった。
それが、逆に胸に刺さった。
「ちゃんとやれば、結果は出るから」
その言葉を、疑わなかった。
むしろ、安心した。
だから、浪人生活は悪くなかった。
朝、同じ時間に起きる。
机に向かう。
参考書を開く。
カリカリと鉛筆が紙を削る音。
昼になると、台所から味噌汁の匂いが漂ってくる。
「頑張ってるね」
母はそう言ってくれた。
父も、特に何も言わず、いつも通りだった。
自分は、やれている。
そう思えた。
だから、二度目の不合格は、もっと重かった。
同じ場所。
同じ掲示板。
同じように、自分の番号はなかった。
ただ、今回は少し違った。
周囲のざわめきが、やけに遠い。
誰かの笑い声も、ため息も、ガラス越しに聞いているみたいだった。
冷たい風が吹いていた。
コートの隙間から入り込んだ空気が、首元をなぞる。
寒いはずなのに、手のひらは汗ばんでいる。
掲示板を見つめたまま、動けなかった。
視線を外せば、この現実が確定してしまう気がした。
目を逸らした瞬間、
世界が一段、下に落ちた。
帰り道の記憶は、ところどころ抜け落ちている。
改札を通った音。
電車が到着するアナウンス。
金属が擦れるブレーキ音。
それらが、順番に流れていくのに、
自分だけが、どこにも接続されていない感じがした。
家に着いたとき、玄関の電気はついていた。
母が、すぐに気づいた。
「……どうだった?」
声は優しかった。
だからこそ、胸の奥が縮んだ。
「……ダメだった」
それだけ言うと、喉が詰まった。
続きの言葉が、見つからない。
母は一瞬だけ目を伏せて、
それから、いつも通りの動きで言った。
「そっか。寒かったでしょう」
その言葉が、妙に現実的で、
自分の中の何かが、静かに崩れた。
その夜、食卓は静かだった。
箸が皿に当たる音。
味噌汁の湯気が、ゆっくりと立ち上る。
父は、少し間を置いてから言った。
「……焦らなくていい」
続く言葉を、待ってしまった。
でも、父はそれ以上、何も言わなかった。
部屋に戻ると、机の上はそのままだった。
開きっぱなしの参考書。
書きかけのノート。
それらが、急に他人のものみたいに見えた。
椅子に座っても、身体が落ち着かない。
蛍光灯の光が、やけに白くて、目が痛い。
スマホを手に取る。
SNSを開くと、
「努力は裏切らない」
「諦めなければ道は開ける」
そんな言葉が、無数に流れてくる。
指先が、自然と動いた。
閉じる。
別のアプリを開く。
また閉じる。
胸の奥に、黒い塊が溜まっていく。
「……なんでだよ」
声に出した瞬間、
その言葉が、部屋の中で空回りした。
自分は、やってきた。
ちゃんと、やってきたはずだ。
なのに、結果が出ない。
それなら、きっと理由がある。
世の中が悪い。
制度が悪い。
運が悪い。
そう考えた方が、楽だった。
数日が過ぎ、
外に出る理由が減っていった。
カーテンは閉めたまま。
昼か夜かも、曖昧になる。
食事の時間になると、
ドアの向こうで、皿の音がした。
「ご飯、置いとくね」
母の声。
「……うん」
そう返すのが、精一杯だった。
部屋に戻る足音が、遠ざかる。
その距離が、少しずつ伸びていく気がした。
机の上のパソコンを開く。
参考書ではなく、
コードを書く画面。
画面の中では、世界は静かだった。
正解と不正解が、はっきりしている。
書けば動く。
間違えれば、動かない。
そこには、曖昧な評価も、空気もない。
夜更け、完成したアプリを公開した。
通知音が、ひとつ鳴る。
ダウンロードされた。
胸の奥で、かすかな熱が戻る。
「……ほら」
誰にも聞かれない声で、呟いた。
「俺は、間違ってない」
その小さな成功が、
自分を現実に繋ぎ止める、唯一の糸になった。
気づけば、
それ以外の世界が、少しずつ色を失っていったことに、
そのときの自分は、まだ気づいていなかった。
⸻
数年が、静かに過ぎていた。
正確に言えば、
「過ぎた」という実感すら、もうなかった。
いつから受験を意識しなくなったのか、覚えていない。
カレンダーをめくる習慣も、いつの間にか消えていた。
朝と夜の区別は、カーテンの隙間で判断する。
光が強ければ昼。
弱ければ夜。
それだけだった。
外に出る理由は、もう無い。
コンビニの音も、駅のアナウンスも、
すべて「遠い世界」のものになった。
階段を降りなくなったのは、
いつからだっただろう。
居間の気配が、怖くなったわけではない。
ただ、あそこには「言葉」がある。
「最近どう?」
「何か考えてる?」
そう聞かれるたびに、
自分の中の何かが削られていく気がした。
だから、降りない。
代わりに、ドアの前に音がする。
カチャリ、と控えめな音。
皿が置かれる気配。
それから、足音が遠ざかる。
「……ありがとう」
小さく言うが、返事はない。
最初から、期待していない。
食事は、いつも冷めている。
だが、それが嫌だと思うほど、
自分の感覚は鋭くなかった。
文句は、頭の中に溜まっていく。
なんで、こんな扱いなんだ。
なんで、分かってくれない。
なんで、放っておく。
だが、声に出すと疲れる。
だから、ネットに吐き出す。
匿名の画面は、優しい。
自分の正しさを、
誰かが代わりに言ってくれる。
「社会が悪い」
「運が悪い」
「才能が評価されない」
その言葉を読むたび、
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
そうだ。
自分は、間違っていない。
証拠はある。
机の上のパソコン。
自分で作ったアプリ。
あれは、確かに売れた。
ランキングに名前が載った日、
通知音が何度も鳴った。
あのときの高揚。
身体の奥が、久しぶりに熱を持った。
「ほら、やっぱり」
誰にも言わず、画面に向かって呟いた。
才能はある。
ただ、理解されていないだけだ。
だが、流行は早かった。
数ヶ月後、
ダウンロード数は静かに減っていった。
新作も出した。
コードは綺麗だった。
機能も悪くない。
それでも、結果は出ない。
入ってくる金額は、
かつての勢いを思わせない数字だった。
それでも、思った。
これは過程だ。
成功する前の、準備期間だ。
世の中が、追いついていないだけ。
自分は正しい。
自分は、間違っていない。
間違っているのは、世界の方だ。
そう考えることで、
今日も、部屋に居続ける理由ができた。
親は、最初は心配していた。
ドア越しに、声をかけてきた。
「少し、外に出てみたら?」
「体、大丈夫?」
その声に、苛立ちを覚えた。
分かっていない。
何も。
だから、返事をしなくなった。
すると、声も減った。
代わりに、
食事だけが置かれるようになった。
朝。
昼。
夜。
皿が来て、
皿が消える。
それだけ。
会話はない。
視線もない。
それが、楽だった。
誰にも、期待されない。
誰にも、評価されない。
失敗することもない。
時間は、溶けていった。
気づけば、
自分の存在は、
この部屋の中だけに収まっていた。
それでも、心のどこかで思っている。
いつか、成功する。
必ず、見返す。
その「いつか」が、
何年先なのか、
もう考えなくなっていた。
ドアの向こうで、
食器が触れ合う音がする。
今日も、同じ。
世界は動いているらしい。
ニュースの向こうでは。
だが、この部屋の中では、
何も変わらない。
それが、正しい状態だと、
この頃の自分は、本気で信じていた。
ある日、ドアの前に音がしなかった。
いつもの時間。
いつものはずの、あの控えめな気配がない。
最初は、気づかないふりをした。
たまたまだろう、と。
数時間が過ぎても、
夜になっても、
何も置かれなかった。
空腹より先に、違和感が広がる。
「……は?」
喉が、かすれた音を出す。
冗談だろ。
そう思った。
仕方なく、ドアを開けた。
廊下の空気は、少し冷たい。
階段を降りる。
一段ずつ、足音が響く。
久しぶりに踏む居間の床は、
記憶よりも固かった。
テレビが点いている。
画面だけが、淡々と光っている。
「……飯は?」
自分でも驚くほど、
荒い声が出た。
親は、こちらを見ない。
視線は、テーブルの上。
箸を揃え、
コップを置き、
ただ、それだけの動作。
「……今日は、自分で」
それだけだった。
声に抑揚はない。
怒りも、呆れも、疲れもない。
「おい、冗談だろ?」
一歩、近づく。
「ずっと置いてただろ。
急に、なんなんだよ」
返事は、少し遅れて返ってきた。
「もう、大丈夫だから」
意味が分からない。
「大丈夫って、何が?」
問いかけても、
親は淡々と皿を洗う。
水の音。
一定のリズム。
まるで、機械みたいだ。
「……俺が、どうなっても?」
声が震えた。
「このまま、何も食わなくて、のたれ死んでも?」
一瞬、手が止まった。
だが、それだけ。
「それも、選択だから」
正確な言葉。
感情の無い音。
胸の奥が、ひゅっと冷える。
怒鳴る気力も、
泣く衝動も、
どこにも湧いてこない。
ただ、分かった。
ここには、もう感情がない。
テレビから、音声が流れる。
《感情変動値のさらなる平滑化が進み、本日も正しい社会へ》
機械音声。
抑揚の無い声。
画面の中の街は、整然としている。
誰も叫ばない。
誰も取り乱さない。
正しい社会。
それを、親は見つめている。
自分も、見つめる。
不思議と、腹は立たなかった。
悲しみも、
怒りも、
失望も。
どれも、輪郭が薄い。
ああ、そうか。
この人も、
この世界も、同じ場所に来ただけなんだ。
部屋に戻る。
階段を上る足音が、やけに軽い。
ドアを閉めると、部屋は静かだった。
パソコンの画面が、淡く光る。
成功。
失敗。
正しさ。
間違い。
どれも、同じ色に見える。
親の顔を思い出そうとして、
やめた。
胸が、何も反応しない。
世の中に向けてだけじゃない。
自分自身に向けても。
頼っていたはずの存在に対しても。
感情は、薄く、平らになっていく。
それが、楽だった。
痛まない。
苦しまない。
正しい。
正しい状態だ。
ニュースの音が、壁越しに聞こえる。
《今日も、正しい社会へ》
自分も、その一部だ。
そう思ったとき、
胸の奥で、
最後の何かが、静かに消えた。




