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外伝短編|正しいまま、消えていく

作者: 安剛
掲載日:2026/03/31

 高校生の頃の自分は、特別でも何でもなかったと思う。

 部活もそこそこ、成績も中の上。

 友達はいて、家に帰れば夕飯が用意されていた。


 ただ一つ、はっきりしていたのは、

「ちゃんとやれば、ちゃんと報われる」

と、本気で信じていたことだ。


 大学受験に失敗したのは、冬の終わりだった。


 掲示板の前は、人で溢れていた。

 白い紙。黒い文字。

 自分の番号だけが、そこになかった。


 周囲の空気が、一瞬だけ冷たくなる。

 耳の奥で、血の流れる音がやけに大きく響いた。


 帰り道、駅までの道をどう歩いたのか覚えていない。

 靴底がアスファルトを擦る音だけが、やけに鮮明だった。


 家に帰ると、母がすぐに気づいた。


「……ダメだった?」


 短い問い。

 自分は、黙って頷いた。


「そっか」


 それだけ言って、母は台所に戻った。

 包丁がまな板に当たる音が、一定のリズムで続く。


 その夜、父が言った。


「浪人して、もう一度やってみるか」


 声は落ち着いていた。

 怒りも、失望もなかった。


 それが、逆に胸に刺さった。


「ちゃんとやれば、結果は出るから」


 その言葉を、疑わなかった。

 むしろ、安心した。


 だから、浪人生活は悪くなかった。


 朝、同じ時間に起きる。

 机に向かう。

 参考書を開く。


 カリカリと鉛筆が紙を削る音。

 昼になると、台所から味噌汁の匂いが漂ってくる。


「頑張ってるね」


 母はそう言ってくれた。

 父も、特に何も言わず、いつも通りだった。


 自分は、やれている。

 そう思えた。


 だから、二度目の不合格は、もっと重かった。


 同じ場所。

 同じ掲示板。

 同じように、自分の番号はなかった。


 ただ、今回は少し違った。


 周囲のざわめきが、やけに遠い。

 誰かの笑い声も、ため息も、ガラス越しに聞いているみたいだった。


 冷たい風が吹いていた。

 コートの隙間から入り込んだ空気が、首元をなぞる。


 寒いはずなのに、手のひらは汗ばんでいる。


 掲示板を見つめたまま、動けなかった。

 視線を外せば、この現実が確定してしまう気がした。


 目を逸らした瞬間、

 世界が一段、下に落ちた。


 帰り道の記憶は、ところどころ抜け落ちている。


 改札を通った音。

 電車が到着するアナウンス。

 金属が擦れるブレーキ音。


 それらが、順番に流れていくのに、

 自分だけが、どこにも接続されていない感じがした。


 家に着いたとき、玄関の電気はついていた。


 母が、すぐに気づいた。


「……どうだった?」


 声は優しかった。

 だからこそ、胸の奥が縮んだ。


「……ダメだった」


 それだけ言うと、喉が詰まった。

 続きの言葉が、見つからない。


 母は一瞬だけ目を伏せて、

 それから、いつも通りの動きで言った。


「そっか。寒かったでしょう」


 その言葉が、妙に現実的で、

 自分の中の何かが、静かに崩れた。


 その夜、食卓は静かだった。


 箸が皿に当たる音。

 味噌汁の湯気が、ゆっくりと立ち上る。


 父は、少し間を置いてから言った。


「……焦らなくていい」


 続く言葉を、待ってしまった。


 でも、父はそれ以上、何も言わなかった。


 部屋に戻ると、机の上はそのままだった。

 開きっぱなしの参考書。

 書きかけのノート。


 それらが、急に他人のものみたいに見えた。


 椅子に座っても、身体が落ち着かない。

 蛍光灯の光が、やけに白くて、目が痛い。


 スマホを手に取る。


 SNSを開くと、

 「努力は裏切らない」

 「諦めなければ道は開ける」

 そんな言葉が、無数に流れてくる。


 指先が、自然と動いた。


 閉じる。

 別のアプリを開く。

 また閉じる。


 胸の奥に、黒い塊が溜まっていく。


「……なんでだよ」


 声に出した瞬間、

 その言葉が、部屋の中で空回りした。


 自分は、やってきた。

 ちゃんと、やってきたはずだ。


 なのに、結果が出ない。


 それなら、きっと理由がある。


 世の中が悪い。

 制度が悪い。

 運が悪い。


 そう考えた方が、楽だった。


 数日が過ぎ、

 外に出る理由が減っていった。


 カーテンは閉めたまま。

 昼か夜かも、曖昧になる。


 食事の時間になると、

 ドアの向こうで、皿の音がした。


「ご飯、置いとくね」


 母の声。


「……うん」


 そう返すのが、精一杯だった。


 部屋に戻る足音が、遠ざかる。

 その距離が、少しずつ伸びていく気がした。


 机の上のパソコンを開く。


 参考書ではなく、

 コードを書く画面。


 画面の中では、世界は静かだった。

 正解と不正解が、はっきりしている。


 書けば動く。

 間違えれば、動かない。


 そこには、曖昧な評価も、空気もない。


 夜更け、完成したアプリを公開した。


 通知音が、ひとつ鳴る。


 ダウンロードされた。


 胸の奥で、かすかな熱が戻る。


「……ほら」


 誰にも聞かれない声で、呟いた。


「俺は、間違ってない」


 その小さな成功が、

 自分を現実に繋ぎ止める、唯一の糸になった。


 気づけば、

 それ以外の世界が、少しずつ色を失っていったことに、

 そのときの自分は、まだ気づいていなかった。



 数年が、静かに過ぎていた。


 正確に言えば、

 「過ぎた」という実感すら、もうなかった。


 いつから受験を意識しなくなったのか、覚えていない。

 カレンダーをめくる習慣も、いつの間にか消えていた。


 朝と夜の区別は、カーテンの隙間で判断する。

 光が強ければ昼。

 弱ければ夜。


 それだけだった。


 外に出る理由は、もう無い。

 コンビニの音も、駅のアナウンスも、

 すべて「遠い世界」のものになった。


 階段を降りなくなったのは、

 いつからだっただろう。


 居間の気配が、怖くなったわけではない。

 ただ、あそこには「言葉」がある。


 「最近どう?」

 「何か考えてる?」


 そう聞かれるたびに、

 自分の中の何かが削られていく気がした。


 だから、降りない。


 代わりに、ドアの前に音がする。


 カチャリ、と控えめな音。

 皿が置かれる気配。

 それから、足音が遠ざかる。


「……ありがとう」


 小さく言うが、返事はない。

 最初から、期待していない。


 食事は、いつも冷めている。

 だが、それが嫌だと思うほど、

 自分の感覚は鋭くなかった。


 文句は、頭の中に溜まっていく。


 なんで、こんな扱いなんだ。

 なんで、分かってくれない。

 なんで、放っておく。


 だが、声に出すと疲れる。

 だから、ネットに吐き出す。


 匿名の画面は、優しい。


 自分の正しさを、

 誰かが代わりに言ってくれる。


「社会が悪い」

「運が悪い」

「才能が評価されない」


 その言葉を読むたび、

 胸の奥が、少しだけ軽くなる。


 そうだ。

 自分は、間違っていない。


 証拠はある。


 机の上のパソコン。

 自分で作ったアプリ。


 あれは、確かに売れた。

 ランキングに名前が載った日、

 通知音が何度も鳴った。


 あのときの高揚。

 身体の奥が、久しぶりに熱を持った。


「ほら、やっぱり」


 誰にも言わず、画面に向かって呟いた。


 才能はある。

 ただ、理解されていないだけだ。


 だが、流行は早かった。


 数ヶ月後、

 ダウンロード数は静かに減っていった。


 新作も出した。

 コードは綺麗だった。

 機能も悪くない。


 それでも、結果は出ない。


 入ってくる金額は、

 かつての勢いを思わせない数字だった。


 それでも、思った。


 これは過程だ。

 成功する前の、準備期間だ。


 世の中が、追いついていないだけ。


 自分は正しい。

 自分は、間違っていない。


 間違っているのは、世界の方だ。


 そう考えることで、

 今日も、部屋に居続ける理由ができた。


 親は、最初は心配していた。


 ドア越しに、声をかけてきた。


「少し、外に出てみたら?」


「体、大丈夫?」


 その声に、苛立ちを覚えた。


 分かっていない。

 何も。


 だから、返事をしなくなった。


 すると、声も減った。


 代わりに、

 食事だけが置かれるようになった。


 朝。

 昼。

 夜。


 皿が来て、

 皿が消える。


 それだけ。


 会話はない。

 視線もない。


 それが、楽だった。


 誰にも、期待されない。

 誰にも、評価されない。


 失敗することもない。


 時間は、溶けていった。


 気づけば、

 自分の存在は、

 この部屋の中だけに収まっていた。


 それでも、心のどこかで思っている。


 いつか、成功する。

 必ず、見返す。


 その「いつか」が、

 何年先なのか、

 もう考えなくなっていた。


 ドアの向こうで、

 食器が触れ合う音がする。


 今日も、同じ。


 世界は動いているらしい。

 ニュースの向こうでは。


 だが、この部屋の中では、

 何も変わらない。


 それが、正しい状態だと、

 この頃の自分は、本気で信じていた。



 ある日、ドアの前に音がしなかった。


 いつもの時間。

 いつものはずの、あの控えめな気配がない。


 最初は、気づかないふりをした。

 たまたまだろう、と。


 数時間が過ぎても、

 夜になっても、

 何も置かれなかった。


 空腹より先に、違和感が広がる。


「……は?」


 喉が、かすれた音を出す。


 冗談だろ。

 そう思った。


 仕方なく、ドアを開けた。

 廊下の空気は、少し冷たい。


 階段を降りる。

 一段ずつ、足音が響く。


 久しぶりに踏む居間の床は、

 記憶よりも固かった。


 テレビが点いている。

 画面だけが、淡々と光っている。


「……飯は?」


 自分でも驚くほど、

 荒い声が出た。


 親は、こちらを見ない。

 視線は、テーブルの上。


 箸を揃え、

 コップを置き、

 ただ、それだけの動作。


「……今日は、自分で」


 それだけだった。


 声に抑揚はない。

 怒りも、呆れも、疲れもない。


「おい、冗談だろ?」


 一歩、近づく。


「ずっと置いてただろ。

 急に、なんなんだよ」


 返事は、少し遅れて返ってきた。


「もう、大丈夫だから」


 意味が分からない。


「大丈夫って、何が?」


 問いかけても、

 親は淡々と皿を洗う。


 水の音。

 一定のリズム。


 まるで、機械みたいだ。


「……俺が、どうなっても?」


 声が震えた。


「このまま、何も食わなくて、のたれ死んでも?」


 一瞬、手が止まった。


 だが、それだけ。


「それも、選択だから」


 正確な言葉。

 感情の無い音。


 胸の奥が、ひゅっと冷える。


 怒鳴る気力も、

 泣く衝動も、

 どこにも湧いてこない。


 ただ、分かった。


 ここには、もう感情がない。


 テレビから、音声が流れる。


《感情変動値のさらなる平滑化が進み、本日も正しい社会へ》


 機械音声。

 抑揚の無い声。


 画面の中の街は、整然としている。

 誰も叫ばない。

 誰も取り乱さない。


 正しい社会。


 それを、親は見つめている。


 自分も、見つめる。


 不思議と、腹は立たなかった。


 悲しみも、

 怒りも、

 失望も。


 どれも、輪郭が薄い。


 ああ、そうか。


 この人も、

 この世界も、同じ場所に来ただけなんだ。


 部屋に戻る。


 階段を上る足音が、やけに軽い。


 ドアを閉めると、部屋は静かだった。


 パソコンの画面が、淡く光る。


 成功。

 失敗。

 正しさ。

 間違い。


 どれも、同じ色に見える。


 親の顔を思い出そうとして、

 やめた。


 胸が、何も反応しない。


 世の中に向けてだけじゃない。

 自分自身に向けても。


 頼っていたはずの存在に対しても。


 感情は、薄く、平らになっていく。


 それが、楽だった。


 痛まない。

 苦しまない。


 正しい。


 正しい状態だ。


 ニュースの音が、壁越しに聞こえる。


《今日も、正しい社会へ》


 自分も、その一部だ。


 そう思ったとき、

 胸の奥で、

 最後の何かが、静かに消えた。

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