第一章:運ぶ者
灰殻街を抜けた直後のこの場面は、ミコトという人物の“基準値”を示すために置いた。 彼女にとって痛みは日常で、危険は空気のように当たり前で、感情は仕事の邪魔になるもの。 そんな彼女の世界に、こばとという異物が入り込む。 無邪気で、恐れを知らず、しかしどこか“知っている”。 この章は、二人の距離がまだ遠く、しかし確実に変化が始まっていることを描くための導入だ。 巻物の重さよりも、少年の存在の方が重く感じられる瞬間が、静かに芽生えていく。
灰殻街を抜けてから三時間。 ミコトはようやく、崩落した高架道路の下に身を潜めた。 ドローンの駆動音は遠ざかっている。 だが、静寂は安全を意味しない。ここでは沈黙そのものが罠だ。
「……はぁ」 息を吐いた瞬間、全身の痛みが一気に主張を始めた。 筋肉疲労、弾片による擦過傷、神経接続の過負荷。 どれも致命傷ではない。――いつも通りだ。
ミコトは背中の巻物に手を伸ばし、固定具を確認する。 異常なし。 それを確かめて、初めて肩の力を少しだけ抜いた。 どんな物であれ、依頼された「荷」を届ける。 感情は不要。判断は契約書にある。 ――それが、彼女の生き方だった。
「ねえ」 背後から、場違いなほど穏やかな声がした。 振り向くより早く、ミコトは拳銃を抜いていた。 照準の先にいるのは、あの少年――こばと。軍需産業の工作員時代に上司から排除を命令されたターゲットだ。 瓦礫の上に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしている。 緊張感というものを、生まれてから一度も知らない顔だ。あの時排除を躊躇させた表情だ。
「……勝手に動くな」 「だって、もう追ってきてないよ?」 少年は無邪気に空を指差した。 確かに、ドローンの反応はない。 だが――。
「静かにしろ。ここはまだ危険だ」 ミコトは銃を下ろさなかった。 この少年は、信用できない。 戦場で“無事な子供”ほど、危険な存在はない。
「ねえ」 こばとは首を傾げた。 「ねぇ、ミコト」 ミコトは少し驚いて振り返る。 しかし、国家から追われる女は自分しかいない。 そして、この少年の情報も自分は知っている。 この世界のシステムでは自己紹介はいらない。 ただし、それはそのシステムに守られている側に限るが。
「それ、重い?」 視線は、巻物に向けられている。 ミコトは一歩踏み出し、少年に銃口を向けた。 「見るな」 「……そっか」
こばとは素直に視線を逸らした。 怯えた様子はない。 ただ、少しだけ残念そうだ。 その反応が、ミコトの神経を逆撫でした。 どこからか子供たちの泣き声が聞こえる。 ――だが、この少年は違う。
「お前は何者だ」 問いは短く、鋭い。 こばとはしばらく考え込むように沈黙し、やがて楽しそうに答えた。 「ぼく? うーん……鍵、かな」
次の瞬間、ミコトは引き金に指をかけていた。 「ふざけるな」 「ふざけてないよ」 こばとは笑った。 その笑顔は、どこか“答えを知っている者”のものだった。
ミコトは舌打ちし、銃を下ろす。 撃たなかった理由は単純だ。 ――今、殺す必要がない。 それだけだ。 彼女は踵を返し、高架の影を出た。 先へ進む。ここに留まる理由はない。 「ついてくるな」 言い捨てる。
数秒後、足音が増えた。 「……」 ミコトは振り返らない。 連れて行くつもりはない。 ただ、追い払う理由も、今はなかった。 彼女の仕事は、巻物を運ぶことだ。 少年の処遇は、契約に含まれていない。 それだけ。
「ミコト」 また名前を呼ばれる。 「そのお仕事、いつ終わるの?」 一瞬、答えそうになった。 ――終わらない。 運ぶ者は、運び続ける。 そう言いかけて、ミコトは口を閉じた。 なぜか、その言葉が“嘘”になる気がした。
「……黙れ」 それ以上、何も言わなかった。 瓦礫の街を歩きながら、ミコトは気づかないふりをしていた。 水たまりを踏み抜き、水しぶきが跳ねる。 虫が、散るように逃げた。 「……虫さん、かわいそう」 その言葉に少し振り返るミコト。 眉間に少し、皺が寄る。 少し戸惑ったこばとが横に来て言った。 「あの虫さんにも神さまが宿っているんだよ、人間以外はね」
背中の巻物の重みより、隣を歩く少年の体温や小さな動きの方が、ずっしりと心にのしかかるように感じられた。
このシーンは、ミコトとこばとの関係が「任務と対象」から「運ぶ者と寄り添う者」へと揺れ始める最初の転換点だ。
ミコトはまだ自分の変化に気づかず、こばとはすでに何かを見通している。
二人の温度差が、物語全体の緊張感を支えている部分でもある。
また、巻物という“荷物”が、ただの任務ではなく、ミコト自身の生き方を揺さぶる存在になりつつあることを示す章でもある。
ここから先、彼女が何を守り、何を捨て、何を選ぶのか。
その始まりとして、この静かな逃走の一幕を書いた。
読んでくれてありがとう。




