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浦和探偵事務所帖 ぱぁとちゅ♡ 萬屋マイク  作者: 揚羽(ageha)


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4/12

TATTOO

 昔、俺が埼玉に来たばかりの頃、近所のおっちゃんたちに世話になった。その縁で、大学に通った時期がある。ある日、その頃のゼミの先生が事務所を訪ねてきた。景子先生だ。まだ定年じゃなかったんですか、と言いかけてやめた。俺もまた、丁寧に年を取っている最中だからな。ゼミ生のひとりが、消えかけているという相談だった。名前は果耶。水の仕事を経て、風俗に流れた。大学は休みがちで、ゼミにもほとんど顔を出していない。このままじゃ卒論も出せず、卒業もできないらしい。

「警察じゃなくて、あなたに頼むのは筋が違うって、分かってるわ」

分かっていて来る人間は、たいてい切れない。店の名前も、裏の人間も、想像どおりだった。

「先生、こいつ借りんぜ」

「頼みましたよ、マイク」

「果耶行こうか」

少し揉めそうにはなったが、例の弁護士の名前を出したら話は早い。風俗側にとっても、若い女を縛り続ける時代じゃない。ただ、それだけの話だ。果耶は自由になった、って顔はしなかった。現実が、まだ自分のものになっていない。そんな目だった。

「果耶。そのズボン、尻が半分出てる。腰のタトゥーもな」

「いま売ってるの、だいたいこうなんすよ」

「股上が深いのを履け」

「……はいっす」

安易な考えでキャバクラを始め、流されるままここまで来た話を、果耶はぽつぽつと語った。一件落着だろう。先生は果耶を抱きしめて、ひとまず帰っていった。


 数日後、景子先生がまた事務所を訪ねてきた。

「前回の件、後片付けは?」

「心配すんな。終わってるぜ」

果耶は壁際の椅子に座り、黙って床を見ている。もう現場には戻っていない。だが、次がまだ見えない顔だ。

「果耶」

俺は声をかけた。

「世界の不幸を全部背負ったみたいなツラはやめろ。お前の未来は、ここからだ」

果耶は小さくうなずいた。先生はコーヒーをひと口飲んで、俺を見た。

「ねえ、マイク。聞いてもいいかしら」

「説教は勘弁してくださいよ」

「教育って、まず何の話だと思う? ゼミ生の頃に戻って」

俺は煙草を消し、ひとつ咳払いをした。

「なんなんですか? 教育ですか。生き方の話だな。点数の話じゃ、腹は減らねぇ」

「成績じゃない?」

「それで人が立ち直ったのは、見たことがねぇ」

「規則でもない?」

「守れる人間だけを残す仕組みだ」

「じゃあ、何を一番に置くの?」

「生きてる本人だ」


 先生は少し間を置いた。

「それ、誰の考えに近い?」

「東井義雄」

「どういう意味で?」

「人間に、くずはないって言い切った。救う前に、見捨てなかった人だ」

果耶の指先が、わずかに動いた。

「じゃあ、毎日の現場は?」

「大村はま」

「実践の人ね」

「やっ。派手な理論はねぇ。でも、毎日逃げなかった」

「何をした人?」

「言葉だ。殴らずに、人を立たせる言葉」

「技術?」

「……やっ、ううん。半分だ。使うためじゃなく、立つための言葉だ」

先生は視線を外さず、続けた。

「最後に聞くわ。それを、どうやって判断にするの?」

俺はすぐには答えなかった。天井を一度だけ見上げてから言った。

「中村清」

「道徳教育論?」

「やっ。価値は教えられない、って前提に立った人だ」

「正解を与えない?」

「その代わり、選んだあとの責任から逃がさねぇ」

「厳しいわね」

「優しいだろうよ」

「どうして?」

「人間を、判断できる存在として扱ってるからだ」

果耶が、そこで初めて顔を上げた。

「中村の道徳はな、いい人間になれとは言わねぇ。自分で決めろ。その代わり、考え抜けって言う」

先生は静かにうなずいた。


 沈黙が落ちた。気まずさじゃない。考えるための時間だった。話が終わったあと、果耶は腰に手を当てた。そこにあるものを確かめる、というより、これから無くなるかもしれないものを想像する仕草だった。

「……タトゥー、消すの、正直怖いっす」

俺はすぐに答えた。

「怖くていい。怖くねぇ決断なんて、だいたい偽物だ」

果耶は、俺を見た。

「消すかどうかも、判断だ。選び直す権利は、誰にも奪えねぇ」

果耶は、はっきりとうなずいた。先生と果耶は、何度も頭を下げて帰っていった。果耶はその後、中村清で卒論を書くことにしたらしい。俺は景子先生に一杯食わされたんだろう。人は、簡単には救われねぇ。だが、見捨てられなかった記憶だけは、あとから効いてくる。今日も、正解は売っていない。問いだけが、ここに残っている。

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