さようなら、ゴリル
ドアを叩く、低くて大きな音が夢の膜を破るように響いた。
眠りの底からゆっくり浮かび上がりながら、孝太は片目だけを開く。車内はまだ薄暗く、フロントガラス越しに白んだ空がじんわり広がっている。
「おーい、コウタ。起きろ!」
すぐ近くでゴリルの野太い声がした。
寝起きの頭では、あれが人間の声ではなく、森で出くわす動物か何かに思えてしまう。
「ん……なんだゴリラか」
「ゴリルだ!」
反射的に返すと、外から不満げな声が飛んできた。名前に敏感なあたり、やはりちょっと可愛いところがある。
「それより、ちょっと村へ来てくれるか?」
声色は軽いが、どこか急いているようにも聞こえる。
孝太はようやく身体を起こし、背もたれに頭を預けながら大きく欠伸した。ルミは後部座席で丸まったまま、すやすやと寝息を立てている。
「あー……わかった。行くよ」
靴を履き、外に出ると、朝の空気がひんやりと頬に触れた。
陽が地平線の向こうから顔を出してしばらく。体感では午前六時前後、こちらの世界でも同じ周期なのか、鳥の声や家畜の鳴き声があたりに満ちていた。
ゴリルに連れられて村の中心へ向かうと、広場にはすでに多くの村人が集まっている。老若男女、ざっと見て数十人。まだ朝早いというのに、誰もが緊迫した表情で、ざわついたざわめきが空気を震わせていた。
「えーと、なにごとでしょうか?」
孝太は、田舎の自治会でもこんな空気には滅多に遭遇しないと思いながら、頬をひきつらせた。
視線を向けられるだけで背中に汗がにじむ。得体の知れない世界での“集団”は、単純に怖い。
中央に立つ老人が孝太へ視線を向け、ゆっくり歩み寄ってきた。腰は曲がっているが、声には不思議な張りがある。
「おぬし、どこからきた?」
直球すぎる質問だった。
隠しようがないので、孝太は正直に答える。
「どこって……日本だけど」
「ニホン……知らぬな」
老人は眉間に皺を寄せ、村人たちも「聞いたことがない」というように顔を見合わせている。
「とにかく、怪しい人間じゃない。ただの親子連れだ」
ゴリルが庇おうと口を挟むが、それはすぐさま別の声に遮られた。
「長老! こいつは……!」
「ゴリル、お前は下がっていなさい」
老人──おそらくこの村の長老と呼ばれる人物──はぴしゃりと言い放つ。
ゴリルは悔しそうに歯を食いしばったが、逆らえないらしい。
「……はい」
孝太は心の中でため息をつく。
思えば、この村の人たちから見れば自分はかなり怪しい存在だ。
夜の闇の中、奇妙な形の鉄の箱──車──に乗って現れ、見慣れぬ服を着て、妙に丁寧な言葉を話す。
昨夜はみんな眠りにつき、細かく話題にならなかったのだろうが、朝になれば当然こうなる。
長老は孝太をじっと見つめ、軽く頷いた。
「詳しい話はワシの家で聞こう」
「わかった。けど、その前に娘を連れてきていいか? ひとりにしておけない」
「かまわん。ゴリル、付き添え」
「はい。行くぞ。コウタ」
ゴリルに促され、孝太は村の視線を背中に浴びながら車へ戻った。
広場を離れた途端、ゴリルが低い声で言う。
「コウタ。このまま逃げろ」
孝太は思わず足を止めた。
ゴリルの声は、さっきまでとは別物だった。掠れた、押し殺した声。軽口を叩く余裕の欠片もない。
「やっぱ、ヤバい感じ?」
「このままいけば……しばらくは身動きとれないだろうな」
そう言って、ゴリルは村の方角を一度だけ振り返った。その横顔は、いつもの豪快さとはまるで違い、どこか影を落としていた。
孝太は苦笑した。
「そっかー……けっこう気に入ってたのに、残念だなぁ」
「また落ち着いたら来るといい。それまでに、長老は俺が説得しておこう」
「お前、いいやつだよなぁ」
ゴリルは鼻を鳴らす。
「お前のためじゃない。そこのお嬢ちゃんが可哀想だろ」
「ロリコンだったか」
「処刑されとくか?」
「ははっ。冗談だよ」
こういう軽口を叩けるあたり、やはりゴリルはいいやつだ。
孝太は少しだけ安心して、車に乗り込んだ。
エンジンをかけると、村の静けさに機械音がひときわ響く。
運転席の窓をゆっくり開けて、
「じゃあ、行くわ」
「おう。気をつけてな」
「またな」
短いやり取りのあと、孝太はアクセルを踏んだ。
村の入口へ向かって車を進める。バックミラーに映るゴリルの姿は、すぐに遠ざかり、やがて小さくなって見えなくなった。
村の広場から、エンジン音を聞きつけて、何人もの村人が慌てて飛び出してきた。
「ゴリル! 逃したのか!」
息を荒げた若者が食ってかかる。
ゴリルは悔しげに拳を握りしめ、首を横に振った。
「油断した。すまねえ!」
「待てーーっ!!」
怒号とともに、若者を中心とした十数人が道へと走り出す。
朝日を浴びて土埃が舞い上がり、足音が村中に響きわたった。
だが、孝太の車に追いつけるはずもない。
しばらく必死に走っていた村人たちは、徐々に歩みを落とし、やがて立ち止まった。
「……もう見えねえ……」
「くそっ、何者だったんだあいつら……」
肩で息をしながら呟く村人たち。
その背中には苛立ちだけでなく、理解できないものへの戸惑いが滲んでいた。
そんな彼らをしりめに、ゴリルだけが道の先をじっと見つめ続けていた。
風が吹き、草原を波のように揺らしていく。
ゴリルは空を仰ぎ、ゆっくりと目を閉じた。
「神よ。あの者たちに良い旅を」
その祈りに呼応するように、ひときわ強い風が吹き抜ける。
旗が揺れ、木々がざわめき、空気が澄んでいく。
まるで──
孝太たちの背中をそっと押したかのように。




