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短編作品

ベルトコンベア


夏のホラー2025 参加作品

「ほら、うだうだ言わずにさっさと乗って」


 母親の声を背中に浴びて、半ば押し込まれるように後部座席に乗り込んだあなたは、俯いた顔で運転席を覗いた途端、多大な違和感に襲われた。

 いつも帰り道を担当してくれていた、運転手がいない。遅れているだけかもしれないという考えは、エンジンのかかる音でかき消される。あなたは手元にぬいぐるみを抱えながら、母親の方を見た。


「うん? あの人はもういないわよ。この車には必要ないもの」


 あなたはそこで、車の内装がいつもと違っていることに気が付いた。フロントガラスから覗くボンネットはどことなくメタリックで、目に優しくない銀色をしている。


 いや、そんなことはどうでもよかった。重要なのは、誰も運転席に座っていないのにエンジンがかかってしまったことだ。あなたは車に詳しいわけではなかったが、うっかり何かの偶然で、車が独りでに動き出すようなことはないと思っていた。


「大丈夫。ちゃんと保証付きの自動運転よ」


 いまいち答えになっていない返答を最後に、車の窓が閉まってしまう。これもまた、誰もスイッチを押していないにもかかわらずだ。


 もしかすると母親は、窓から見えない左手の先で、リモコンかなにかを握っていたのかもしれないが、そんなことには気づけないまま、シートに膝をつくあなたの見る景色は、横向きに滑っていってしまった。


 外は雨模様。暗雲垂れ込める地上の景色は、至極緩やかに移り変わっていく。あなたにとって、下道の大通りだけを通るやり方は、随分非効率に思えてしまった。先日までの運転手は、信号のない細道を日課のランニングでもするように、スルスルと抜けていっていたからだろうか。


 今、誰もいない車のハンドルは、できるだけ広く、信号の多い道を選んで進んでいるように思える。普通に考えて、それだけ余裕のある道であれば、事故やトラブルに見舞われる可能性も低くなるからなのだろう。


 しかしながら、あなたはかえって恐ろしさを感じていた。不安と恐怖の入り混じったその感情の正体に気付いたのは、自分の中に詰まる気持ちを吐き出そうとした時だった。


 何気なく、声をかけられる相手がいないのだ。運転席には独りでに動くハンドルだけ。車内には、あなた以外誰もいない。手元のぬいぐるみに声をかけるのは、一年前の入学式限りで卒業させられてしまっている。


 車内にあなた以外の人間はいない。かつての運転手も、愛想のある方ではなかったが、ちょっとした受け答えくらいはこなしてくれていた。運転の腕は確かだったし、不安なことがあれば、ちょっとだけ頼ることができた。ひょっとしたらと今回もと考えたあなたは、運転席へ向けて身を乗り出し、か細く声をかけてみた。


 返事はない。二度三度、同じことを繰り返してみても、何も起こらない。そのうち、赤信号で止まっていた車体が動き出し、あなたは仕方なく後部座席に戻る。そして背もたれに残していたぬいぐるみを見て気づいた。あなたは今まで、シートベルトをしていなかったようだ。


 あなたは無言で席につくと、今度はしっかりとシートベルトを締めた。そして、何かあった時には少しでも衝撃を和らげられるように、自分のひざ元で、ぬいぐるみを強く抱きしめた。


 不信の標的となった車体は、あなたの気も知らずに坂道を登り始めた。少しして、その坂道がいわゆるインターチェンジというもので、自分たちは下道から高速道路に入ろうとしている、ということにあなたは気が付いた。


 だからといって、あなたにできるのは静かに息をのむことくらいだった。

 フロントガラスの、ワイパーが動き始めた。


 天井がぼとぼとと響く音を鳴らし続ける車内で、小雨というには無理のある景色を、あなたは眺めつづけている。


 もっとも今、あなたの視界に映っているのは、道路を囲う防音壁だけで、景色と言えるものは、たまにしか訪れてくれないのだが、それでも、右側の追い越し車線へ目を向けるよりは、余程マシだった。

 一定の速度でしか進まず、後続の車へ追い抜かれ続ける光景は、あなたの不信感を増長するものであったからだ。


 相変わらず、誰の声も響かない車内には、ラジオすら付いていなかった。元から備え付けられていないのか、単に鳴らされていないだけなのか、あなたには判断がつかなかったが、母親がラジオ嫌いであることくらいは覚えていた。


 あなたはただ、ぼとぼとと天板が雨に打たれる音と、不規則な揺れに身を任せて、事が終わるのを待っている。そのうち、瞑想でもするように思考を薄れさせていくことができた。


 車への不信感を強め過ぎても、ぬいぐるみをくたびれさせてしまうだけだと、あなたはそんなことを考えながら、目を閉じる。意識を薄れさせていく。この鉄のゆりかごに、身を任せていく――



 突然、あなたの意識を爆音が切り裂いた。



 はっと目を覚まして、きょろきょろと辺りを見回しても、周囲の光景に異常はない。銀色の車体は、未だに高速道路を進み続けている。相変わらず窓の外は、防音壁で覆われている。少し変わったことといえば、すぐ隣の車線に、ブラウンカラーのワゴン車が並走していることくらいだろうか。


 あなたがシートベルトを伸ばしてワゴン車の方を見やると、助手席の男と目が合った。へらへらと軽薄そうな笑みを浮かべながら、あなたの方を見ている。あなたが怪訝な顔をすると、噴き出したように手をたたいて、向こう側の運転席に振り返っていた。


 明確な悪意を秘めた所作に、あなたは泣きそうになってしまう。ただでさえ弱っていた心に、明瞭なヒビが入ってしまう。男はそれを見てまた笑い声を上げるのだろう。そんな風に考えて、あなたが追い越し車線から目をそらそうとした、その時だった。


 助手席の男の目が見開かれ、口をパクパクと動かした。そう思ったのも束の間、ワゴン車は唐突にスピードを上げ、こちらの車体を追い抜かしていった。


 ひょっとして……と、あなたは一つだけ思い当たることがあった。目を見開く直前、男の目線は運転席の方を向いていたように思えた。


 つまり彼は、誰もいない運転席を見てあっけにとられたのではないか。


 誰もいない運転席が、自分の心を守ってくれた。そう思うと、あなたの不信感は少しだけ和らいだ。この冷たい鉄の車内にも、少しだけ温かみがあるように感じられた。


 だが同時に、あなたは何かカチカチという音が鳴っていることに気が付いた。

 咄嗟に前を向くと、赤白黄色の警戒色がフロントガラスの直前にまで迫っている。


 あなたは、つんざくような悲鳴を上げた。


 運転席のハンドルが右に切られる。間一髪ということもなく、車体はある程度の余裕を持って、道路整備中の車両を避ける。


 少しして、またカチカチという音と共に、車体は左側車線に戻っていく。事が済んでしまえば、あわや事故ということもない、余裕を持った車線変更だった。


 しかしながら、あなたの中に芽生えかけた、車体への淡い信頼感は、もはや霧散してしまっていた。泣きそうな顔ではなく、実際に涙のこぼれた顔で、あなたは手元のぬいぐるみを抱きしめた。


 どれだけ取り繕おうとしても、あなたはこの空間に独りだった。信じるも信じないもなく、あなたの感情を受け止める相手自体がいなかった。


 ピーッ、ピーッ、ピーッ。


 やがて、一度停止した車体が、後ろ向きに曲がりながら後退していく。


 いつもなら、俯いて風景を覚えようとしないあなたも、流石にこの周辺には見覚えがあった。それなりに広い敷地の中の、それなりに広い一軒家。屋根のない、雨ざらしの停車位置へと、車体が収められていく。


 突然、周囲が真っ暗になった。


 あなたはか細い悲鳴を上げるが、少しして、ただ車のエンジンが切れただけなのだと気が付いた。手元のぬいぐるみを掴みつつ、ドアの取っ手に手をかけてみる。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 前の車と同じように、自動でドアが開いていく。


 同時に、力強い雨が車内に入り込んでくる。手を空に向けて阻もうとしても止まらない。あなたの体はあっという間にびしょ濡れになっていく。車内の床にも、水が溜まっていく。


 このまま開きっぱなしだと、車をもっと汚してしまうだろう。だからあなたは、自分の身体を外へと運んだ。シートベルトを外して、片足ずつ車外に降りていく。少し背伸びして、外側の取っ手に手をかける。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。


 あなたはそのことを見届けた後、玄関へ向けて走り出した。


 ぬいぐるみを腹に抱え込んで、車の前面から回り込もうとしたら、足元のアスファルトで滑ってしまった。あなたが体勢を崩して左手をつくと、少しの砂利がこびりつく。


 ぬいぐるみに擦り付けるわけにもいかないので、あなたは手についてしまった砂利を、ズボンのすそでいくらか払った。払いきれなかった小さな砂利が、左手に異物感を残す。


 あなたは不快感に耐えながら、玄関へと歩を進めていく。踏み出した早足が玄関タイルの上で滑りそうになる。間一髪でバランスをとるが、ぬいぐるみが手からこぼれてしまう。差し込んだ雨水がぬいぐるみを襲う。びしょ濡れになったそれを、あなたは拾って抱え直す。


 あとはドアを開けて、中に入るだけ。そう思って上を向いたらびしょ濡れになった前髪が視界を遮ってくる。雨水が目に流れてくる。先のとがった前髪が、目を突き刺そうとする。


 あなたは仕方なく目をつむって、手探りでドアの取っ手を探り当てる。右手でしっかりと握った後、体重を乗せながら引いてみる。


 ガチャ。ドアが開いたような音。


 だがしかし、右腕に手ごたえはなかった。もう一度力強く引いてみる。ガチャ。また手ごたえがない。ドアを引き切れない。鍵がかかっている。


 そういえばいつもは、ポケットに鍵を入れていたはずだ。あなたは右手にぬいぐるみを持ち替えて、左のポケットを探ってみるが、手ごたえがない。


 なにもない。


 もしかして。そう思って先ほど来た道を戻ってみる。アスファルトの上に、光るもの。月明かりに照らされて、真鍮製の鍵が光っている。


 あなたはもう、涙を流しているのかもわからない顔で、鍵の方へ歩いて行く。右手に持つぬいぐるみを吊り下げ、鍵の元へと屈みこむ。


 直後。けたたましいエンジン音が鳴った。


 二つのハイビームに照らされて、あなたは尻餅をついてしまう。

 車の前面を回り込む際に落としたということは、そういうことであった。このまま車体が動き出せばどうなるか、あなたに想像できないわけがなかった。しかしながら、雨でぐずぐずになった足腰は、上手く動いてくれなかった。


 そうして、あなたは悲痛な表情で固まっていた。


 だが、しばらくしても、車が動き出すことはなかった。

 クラクションや、その他警告音を鳴らすこともない。

 ただ、必要以上の光量で、あなたを照らし続けているだけだ。


 しばらくして、あなたはフラフラと立ち上がり、玄関の方へ戻っていった。途中でくしゅんと鼻を鳴らしたり、庭の芝生にぬいぐるみを引きずったりしていたが、そんなことを気にしてはいられなかった。


 玄関まであと数歩というところで、風切り音が後ろから聞こえた。


 見れば、自宅前の道路を光が横切っている。

 例の自動運転車が、どこか遠くの方へ向けて、進んでいっている。


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