第5話:無意識の記述者
眠りの底で、何かが書かれていた。
白い紙の上に、黒いインクがゆっくりとしみていく。文字でも模様でもない、ただのしみのようなそれが、やがて意味を持ち始める。だが、結にはその意味がわからなかった。
手は動いていた。自分の手だ。ペンを握っているのも、自分。けれど、動かしているのは「わたし」ではない気がする。
誰が書いてるの?
紙の上で、インクの滲みが広がった。
そこに、声があった。
〈意味のないものを、なぜ人は正確に書けるのか〉
あの〈声〉だった。無表情で、冷たくて、そしてどこか親密な。
「……書ける、ってことは、どこかで知ってるってことじゃないの?」
〈知っているのは、誰だ〉
「わたし……の中の、“知らないわたし”?」
〈では、“知らないわたし”が書いた言葉は、お前のものか?〉
夢の中で、結は机の前に座っていた。小学校のころに使っていた学習机。角の剥げた木製の天板。白くにじんだ鉛筆の跡。そこに広げられたノートに、見覚えのある言葉があった。
──「自由 責任 誠実 正義 規範」
それらの語が、まるで勝手に踊るように、並び変わっていく。
──「正義責任 誠実自由 規範誠誠誠……」
意味が崩れていく。構文が解けていく。にもかかわらず、手は動き続けていた。
「わたしは、ちゃんと“意味”を書きたいのに……」
結はペンを握る自分の手を見つめながら、言った。
「意味を、ちゃんと、言葉にしたいのに。なんで、書けるのに、わからないの?」
〈お前は、“意味”を感じることと、“意味”を知ることを、同じだと思っている〉
「違うの?」
〈感じるのは身体。知るのは意識。そして書くのは、どちらでもない〉
結はふと気づいた。自分の手が動くとき、それは意識よりも早かった。まるで、手の方が先に意味を知っていて、意識があとから解釈しているような。
それってつまり──
「“書くこと”は、無意識が顕れる場所なの……?」
〈お前は“書いている”のではない。お前は“書かれている”のだ〉
その言葉に、胸がざわついた。
書かれている──。
自分の手を動かしているものが、自分自身ではない。そうだとすれば、自分は何なのか。ノートに現れる言葉たちは、誰のものなのか。
結はノートのページを開いた。そこには昨日、自分が書いた言葉があった。
──「これは、わたしが、わたしになるためのノートだ」
夢の中でも、その文字は黒々と焼きついていた。
「じゃあ……わたしは、“わたしになる”ために、無意識に書いてるってこと?」
〈その問いが、すでに“わたし”を形成している〉
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に小さな光が走った。
思考は、書かれたあとにやってくる。意味は、問いかけることで生まれる。
そのとき──ノートのページが風にめくられた。次のページに、真新しい一文が現れていた。
──「わたしは、わたしのなかに、もう一人のわたしを見つけた。」
それは、夢の中で初めて見たはずの言葉だったのに、まるでずっと前から知っていたような気がした。
朝。
目を覚ました結は、起き上がってすぐに机に向かった。昨夜のノートを開き、眠る前のページをめくる。
そこに──あの夢で見た一文が、確かに書かれていた。
──「わたしは、わたしのなかに、もう一人のわたしを見つけた。」
背筋が凍った。
「……夢じゃなかった?」
でも、書いた記憶はない。ペンの跡も、自分のもののようで、少し違う気がする。
〈それもお前だ〉
声は、夢の中とまったく同じ調子で響いた。
けれど今の結は、それに抗おうとは思わなかった。
自分の中には、言葉を写す“手”がある。意味を感じる“身体”がある。言葉の意味を求める“思考”がある。そして、それらをすべて眺めている、“何か”がいる。
その“何か”こそが、今の自分を動かしているのかもしれない。
だから、結はそっとノートを開き、書いた。
「わたしは、無意識の記述者でもある」
そして、一行空けて──
「でも、それを意識して読むわたしも、またわたしだ」
書くことで、自分が何者かに少しだけ近づいた気がした。