第4話:縫い留める手
月曜日の朝、教室の空気は妙にざわついていた。だが一ノ瀬結の耳には、そのざわめきはうっすらとしか届いてこなかった。
彼女は、鞄の中からノートを取り出し、そっと表紙をめくった。週末に自室で開いたはずのそのページに、なぜか見覚えのない文字列が記されていた。
──「責任 責任 責任 責 任任任任任任任 誠実責誠誠誠誠──」
文字が、崩れていた。繰り返され、つながり、壊れていた。まるで壊れた自動書記装置のように、意味のない反復が紙面を埋めていた。
……これ、私が書いた?
記憶にない。けれど、書かれた文字の筆圧は自分のものとよく似ていた。何かを思い詰めていた時のような、深く食い込むような線。なぞってみると、その手癖に覚えがある。
「なんで……こんなふうに」
声に出してみると、喉がかすれていた。彼女は週末、確かに何かを書いたはずだ。でも、その中身がこれだったとは。
〈それを書いたのは、お前だと思っているのか〉
また、〈声〉が来た。ノートの上から聞こえてくるような錯覚。
「違う……わからない」
答えると、心臓の奥がざわりと揺れた。
放課後、柚子とファミレスで並んで座っていた。窓の外では秋の雲が、低くゆっくりと流れていた。
「……これ、どう思う?」
結はノートを開いて、問題のページを見せた。
柚子は一目見て眉をひそめた。
「こわ。なんか、ホラー漫画みたい」
「書いた記憶、ないの。たぶん、夜中」
「寝ぼけてたんじゃない?」
「でも、これって……なんか、すごく必死に“何かを縫い止めようとしてる”みたいで」
「縫い止める?」
「うん。“誠実”とか“責任”とか、そういう“意味のある言葉”が、ばらばらにほつれていくのを、強引に縫いつけようとしてる感じ。……自分でも、よくわからないけど」
柚子はノートを閉じ、静かに言った。
「ねえ、結。あんた、最近さ、“考える”のと“書く”のが、ちょっとズレてきてない?」
「……ズレてる、って?」
「結って、いつも書くことで“思考を支えてた”でしょ。でも今は、書く方が暴走してる気がする。で、思考がそれに追いつけてない」
結はその言葉に、思わずペンを握った。
「暴走……うん。そうかもしれない。まるで……文字だけが先に走ってて、私があとから追いかけてる感じ」
ノートを開き直し、別のページにこう書いた。
「これはこれである。あれはあれである。」
そしてまた一行。
「“誠実”は、“誠実”。“責任”は、“責任”。」
意味を取り戻すために。自分の中で言葉を明確に分けるために。
「これ、なにしてるの?」
「言葉を、縫い止めてるの」
「……なんで?」
「放っておくと、全部ごちゃごちゃになっていくから。“誠実”が“責任”と入れ替わったり、“自由”が“義務”と混ざったり。わたしの中で、“言葉”と“意味”の関係がバラバラになっていく」
柚子は、しばらく沈黙したのち、小さくつぶやいた。
「……じゃあさ、それって、“結自身”もバラバラになってるってこと?」
その問いに、返事はできなかった。
夜。机の上で、結は新しいページを開いていた。
今度は、意味と文字を確かに結びつけるための「見取り図」を描いていく。
「誠実」──→ 本音を話す/嘘をつかない/相手を傷つけない
「責任」──→ 行動に対する応答/義務/意図の保持
言葉と意味、文字と概念。その間に線を引いて、結びつけていく作業。
それは、思考というよりも、裁縫に近い。バラバラになった布地の端を、ひと針ずつ留めていくような作業。
ペンが止まるたびに、彼女は自分に問いかける。
この言葉は、私のものか?
そして答える。
「はい」
「今は、まだ」
「けれど、そうなろうとしている」
〈では、それを“お前”が書いていると言えるのか〉
声はまた問いかけてくる。
結は、ペン先を紙に乗せたまま、少し考えてからこう書いた。
「わたしが、わたしであることを確かめるために、わたしが書く」
言葉が、自分を縫い止めるための糸になる。文字を結ぶたびに、ほどけた自己が、すこしだけ形を取り戻していく。
ページの余白に、彼女は最後にこう記した。
「これは、わたしが、わたしになるためのノートだ」