第3話:言葉が先か、思考が先か
翌日の倫理の授業。教室の空気は湿り気を含み、どこか重かった。
吉原透先生は、黒板の前に立ち、いつも通りゆっくりと口を開いた。
「さて、今日のテーマは“言葉と思考”について、です」
教室が少しざわついた。抽象的なテーマが嫌いな生徒もいれば、無関心な者もいる。けれど、結の背筋には静かな緊張が走っていた。
吉原はチョークを握りながら、問いかける。
「“考える”という行為は、言葉の助けを借りて行われるものです。ですが、逆に言えば、言葉がなければ、私たちは“考える”ことができるでしょうか?」
黒板には大きく書かれた。
「言葉が先か、思考が先か」
その瞬間、結の中で、何かがぴたりと噛み合った気がした。
それはここ数日、彼女がひたすら考え、書き、問い続けていたことだった。まるで、この問いのために、昨日の自分がいたかのようにさえ思えた。
授業の後半。先生は教室を見回して、ひとりの生徒に指名した。
「白鳥さん、どう思いますか。“言葉がないと、人間は思考できない”という意見に、賛成ですか? 反対ですか?」
「え、わたし?」
柚子は目を見開いたまま、一瞬宙を見つめたが、やがて照れたように笑って言った。
「……うーん、なんか、言葉がなくても“感じる”ことはできると思います」
「ほう、つまり“感覚”や“直感”は、思考ではない?」
「うーん……でも、感じたことを“言葉にしようとすると”考えるような気がします」
吉原は満足げにうなずいた。
「なるほど。つまり、感覚は先にあるが、言葉にすることで“思考に変換される”という立場ですね」
その言葉に、結は胸がざわついた。彼女は、思わず手を挙げていた。
「はい、一ノ瀬さん」
「……わたしは、書いてるうちに“考えてしまう”ことが多いです。言葉にしようとしなくても、文字を書いているときに、思考が始まる、というか……」
「なるほど。“記述行為が思考を呼び起こす”立場ですね。それは非常に興味深い意見です」
吉原は黒板にまた一行、追加した。
「記述と思考の相互作用」
結は自分の声が少し震えていたことに気づいた。それでも、伝えたかった。
自分が書いているとき、頭の中は必ずしも整理されていない。むしろ、書くことで初めて思考が整理され、意味が現れはじめる。まるで、白紙のノートが思考の先導者になっているかのように。
じゃあ、私は書くたびに、何を考えてるんだろう?
また、あの声が来た。
〈お前が“考えている”と思っていること、それはお前のものか〉
その問いは、いつにも増して鋭かった。
放課後。図書室。
結はノートを開き、授業で出た言葉をもう一度書き出していた。
言葉/思考/記述/感覚/概念
それらを、丸で囲み、線でつなぎ、矢印を引いた。まるで頭の中の迷路を、紙の上に引き写すように。
そこへ、柚子がやってきた。
「ねえ、あのとき、手挙げてたの、すごかったね」
「ううん……むしろ、怖かった」
「怖い?」
「自分の中に“何かを考えさせる装置”がある感じがして」
柚子は結のノートを覗き込み、面白そうに言った。
「これ、回路図みたいだね」
「……回路?」
「うん。言葉がスイッチで、そこに電流が通ると“考え”が生まれるみたいな。言葉がなければ、電流も流れない。けど、スイッチが壊れてても、電気が漏れたりするでしょ。そういう“うまくいかない考え”があるって感じ」
結は目を見開いた。柚子の言葉は、たまに鋭く思考の中心を突いてくる。
「言葉が先じゃない。言葉と考えは、途中で出会うのかもね」
「出会う……」
それは、まさに結が求めていた表現だった。
夜。部屋でひとり、結はノートの余白にこう書いた。
「言葉が考えを生むこともある。考えが言葉を探すこともある。だけど、どちらかが“先”とは限らない気がする」
そして、一行あけてもうひとつ。
「書くという行為は、私の思考そのものかもしれない」
その言葉を見つめながら、彼女は静かに目を閉じた。
〈では、お前は、誰のために書いている〉
また、声が来た。
結は、答えずに、ペンを走らせる。
「わたしは、わたしが何を考えているかを、知りたい」
言葉は、形から意味へ。
そして、意味は、また別の言葉を呼び寄せる。