第2話:意味が抜け落ちる
午後の空気は湿っていた。夏が終わりかけているのに、じっとりとした暑さだけが肌に張りついていた。
放課後の教室。生徒たちの笑い声がドアの外に遠ざかっていく中で、一ノ瀬結はひとり席に残っていた。
ノートを見つめる。そこに並んだ言葉は、整っていた。「自由」「責任」「自己決定」「社会契約」──倫理の授業で出てきた単語たち。意味のある語のはずだった。それなのに。
この言葉たちは、ちゃんと“中身”を持ってるのだろうか。
そう問いながら、ペン先で文字をなぞる。インクが紙の上に染みていく。それだけ。意味が、言葉に乗ってこない。知識はある。試験なら答えられる。でも、心に届いてこない。
そのとき、後ろから声がした。
「ねえ結、またひとりで反芻してる?」
白鳥柚子だった。結の親友にして、授業中は堂々と居眠りしては、なぜか重要なところだけ覚えている不思議な子だ。
「……考えてただけ」
「ノートの?」
「うん。……このあいだ、言ったでしょ。“ズレ”のこと」
「うん。言葉と意味の?」
柚子は横に座り、結のノートを覗き込んだ。
「たとえばさ、“自由”って書いてあるでしょ。でも、“自由”って、ほんとに自由の意味してるかな?」
「え?」
「わたしがこの字を見て“自由”を思い浮かべるときと、柚子が思い浮かべるとき、同じ“自由”を見てると思う?」
柚子はしばらく黙って、それからゆっくり言った。
「思ってない」
「……やっぱり」
「でも、同じ字を見て、違う意味を思い浮かべるって、むしろ自然じゃない?」
「自然だけど……なんていうか、わたし、自分でも自分の“自由”がどんなものかわからないのに、“自由”って書いてるのが変な感じで」
「書けちゃうのが、怖いってこと?」
「うん。……意味が、乗ってないまま、どんどん書けるのが」
そのときまた、あの声が耳の奥で響いた。
〈それをお前は“自由”と呼んでいいのか〉
結は思わず、ノートを閉じた。
帰宅途中の電車の中でも、結の思考は止まらなかった。
“自由”は“自由”。“責任”は“責任”。
繰り返し、言葉を並べては、確かめようとする。まるで何かを縫い留めるように。でも、何を縫いとめようとしているのか、自分でもよくわからない。
ノートを開いて、ページをめくる。書かれた言葉の中に、なぜか目に刺さるように残っているものがあった。
──「誠実」
“誠実”。その二文字だけが、不思議なほどくっきりと脳に焼きついていた。書いたとき、何かが引っかかった気がする。でも、それが何だったのか思い出せない。
結は首をかしげ、ふとスマホの辞書アプリで「誠実」の定義を引いた。
《うそ偽りがなく、まじめで真心がこもっていること。》
読んで、余計にわからなくなった。
「……そんなに簡単なこと?」
定義は正しい。けれど、実感には結びつかない。たとえば、「誰かに対して誠実である」ってどういう状態だ? 本心を話すこと? 嘘をつかないこと? だとしたら、今日、柚子に言えなかった“ほんとうに感じてる違和感”は、誠実じゃなかったってことになるの?
でも、言おうとしても、言葉にならなかった。
言葉にできないのは、誠実じゃないから? それとも、言葉が足りないから?
思考がぐるぐると渦を巻く中、電車は最寄り駅に着いた。
その夜、結は机に向かい、ノートの余白に一行書き込んだ。
「“誠実”が、怖い。」
そしてもう一行。
「“意味がある”って、どういうこと?」
言葉は、彼女の中で、少しずつ形を変えていく。知識としての言葉から、問いとしての言葉へ。だが、その問いに答えられる気配はまだなかった。
そのとき、また〈声〉がした。
〈お前が書いているのは、意味か、形か〉
結は小さく息を吐いた。
「……意味を、書きたいんだと思う。でも、形ばかりになってしまう」
返事はなかった。だが、声はそこにいた。沈黙の中、確かに感じられた。
彼女はペンをとり、ゆっくりと書き始める。
「“誠実”は、怖い。でも、それがどういうことかを言葉にしてみたい。」
意味はまだ、手に届かない場所にある。けれど今の彼女は、ただ写すだけの手から、少しずつ「意味を問い直す手」になろうとしていた。