第1話:書くという行為
倫理のノートを写した。ただ、それだけのことのはずだった。
教室の窓際に座る一ノ瀬結は、二限目の倫理の時間、机の上のノートに鉛筆を走らせていた。先生が黒板に書く言葉を、一語一句、もらさず書き写す。それは毎週の習慣であり、訓練でもあった。
「“自由”とは、自己の意志に基づいて行動を選択し……」
チョークが黒板をこすりながら響くその音と、先生の声。そのすべてを、結は一つの機械のように右手に受け渡し、ペン先に変換していった。ひとつ、ふたつ、言葉が並び、文が構築されていく。
けれど──ある瞬間、不意に「なぜこれを書いているのか」が、結にはわからなくなった。
写している言葉。それ自体は間違っていないし、漢字も文法も正しい。それなのに、それらの言葉が何を意味していたかが、急に遠のいたように思えた。
「……“責任”とは何か」
黒板にそう書かれた文字を見ながら、結は自分のノートに同じ言葉を移した。しかし「責任」という言葉の意味が、頭の中で曖昧にぼやけていく。
責任って、なんだったっけ。
誰もが知っているはずの言葉なのに、それが自分の中から消えていく。書くことと、理解することのあいだに、裂け目ができている感覚だった。
──書けても、意味がないことってあるの?
結はふと、そう思った。誰に問うでもなく、ただ頭の内側に浮かんだ声が、ノートの罫線のすきまに染み込むようだった。
その瞬間、かすかに聞こえた。
〈それはお前が書いたのか?〉
空耳だったのか、内なる声だったのか、わからない。でも確かに、何かが問いかけてきた気がした。
手は止まらなかった。書くという行為は、その問いに抗うように、いやむしろ応えるように、なおも続いた。
「“責任”とは、自己の行動に対して……」
先生の声が続く。その言葉を、結の手はただ、忠実にトレースしていく。だが、頭はその「内容」を理解していない。「責任」という概念がどこかで引っかかり、身体と言語が解離していく感覚。
授業が終わるころ、結のノートは他の誰よりもきれいに整っていた。けれどその中身は、彼女自身にはどこか「空虚」に感じられた。外から見ると完璧。だが、中に宿るはずの「意味」が、自分から抜け落ちているようだった。
休み時間。柚子が隣の席から顔を覗き込んできた。
「またノート、綺麗すぎない? あたしなんて半分落書きだよ、ほら」
にこにこと笑いながら、柚子は自分のノートを見せた。イラストや矢印、強調線が散らばるそれは、情報の構造よりも印象や感覚を大事にしているようだった。
「結のは……機械みたい」
そう言われて、結は苦笑した。否定はしなかった。なぜなら、まさにそういう風に、自分自身が感じていたから。
「でも、写してるだけでもトレーニングにはなるんだって」
「ふーん、どんな?」
「書こうと思った字と、実際に書く字のつながり……を強めると、それを使ったときの“ズレ”が少なくなるって」
「ズレ?」
結は言葉に詰まった。説明しようとして、でもその「ズレ」が自分の中でも曖昧なままだと気づく。どう説明すればいいのかわからない。
「たとえばさ、書けるけど意味がわからないときとか、ない?」
「うーん……テストのときに漢字だけ書けるみたいな?」
「そう、それ。でも、書けてるってことは、どこかで意味は知ってるんだよ、無意識のうちに。たぶん。でも……意識すると、わからなくなるの」
柚子は目を丸くした。
「なにそれ、逆じゃん。意識した方が、ちゃんと理解できるんじゃないの?」
「わたしもそう思ってた。でも……意識って、時々邪魔をすることがある気がして」
自分でも言っていて不思議だった。でも、その不思議さこそが今の彼女の感覚の中心だった。
放課後、帰り道。駅までの道をひとり歩きながら、結は考えていた。
〈これはこんな感じのものとなんとなくやっていると、いつのまにかすごくずれていることがあるから、縫い留めるように──〉
自分の中で、断片的に浮かぶ言葉たち。「縫い留める」という表現が、なぜかしっくりくる。
書くことは、言葉と意味を縫い合わせる針と糸のようなものかもしれない。だからこそ、漫然と続けていると、糸がほつれてしまう。字は書けても、意味が抜けていく。
「……“自由”は“自由”。“責任”は“責任”。」
小さくつぶやきながら、結は自分の中の言葉と意味を、再び結びつけようとしていた。ノートの罫線の上で生まれた言葉たちに、もう一度、命を吹き込むように。
そのとき、背後で風が吹いた。夏の終わりの、少しだけ冷たい風だった。
〈それを、書いているのは、誰だ?〉
また、あの声が聞こえた気がした。