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ずっと続くと思っていた『今』は儚く、雲に遮られてしまった。

作者: 天乃紡木

 ー ー月の光はレモンの香り




 夜が訪れると、窓辺に静かな気配が満ちる。

 月の光が揺らぐように床へ落ちる。その筋の中に、淡く輪郭を持つ影が現れる。風がわずかに動き、レモンの香りがゆっくりと広がる。

 

 毎晩、その気配は同じだった。いつも変わらぬ優雅な佇まいと、穏やかな微笑み。言葉は少ないが、その存在があるだけで、部屋の空気はやわらかくなる。

 

 月が高く昇るほど、その姿はよりはっきりと映し出される。手を伸ばせば届くかもしれない、それでも触れることは決してできない——まるで、光そのもののように。


 「今日の月もきれいね」

 

 彼女はふと呟く。

 外を見れば、夜空に淡い光の輪郭が浮かんでいる。窓際に座る彼女の髪は、月光を浴びて、金の糸のように輝いていた。

 

 毎晩彼女が来るたびに時間が止まったかのように感じる。彼女は、まるで遥か昔からここにいるかのような気配を持っている。ただの人間では想像もできないような時を過ごしているのだろうか?

「この時間がずっと続けばいいのにね」

 彼女がそっと囁く。その周りにはレモンの香りが微かに漂い、それがまるで彼女の言葉の余韻のようだった。

 月の光がある限り、彼女はここにいる。


 月の光がある限り......

 

 ある夜、窓の向こうに影が落ちた。

 見上げれば、昨日までなかった巨大な壁がそこに立っていた。無機質なガラスと鉄の塊が夜空を断ち切り、月の光を遮る。

 

 床に伸びていた光の筋は、消えていた。

 

 その夜、部屋には何の気配もなかった。レモンの香りは微塵も感じられず、ただ静寂だけが満ちていた。


 窓辺に座る理由がなくなった夜、静寂はただ重くのしかかった。

 月の光が届かなければ、彼女は現れない。わかっていたはずなのに、窓を見つめる癖は消えなかった。

 あの柔らかな気配をもう一度感じたくて、レモンの香りがふっと漂うことを期待してしまう。それでも、部屋は暗いままだった。

 

 月の光を探さなければ。

 

 街を歩いても、空はビルの光に押し込められ、本物の月はどこか遠くに霞んでいる。大きな 公園も、ネオンが侵食する。月の道しるべを探して、辿り着いたのは街から離れた静かな山の中だった。

 

 そこに光があった。

 

 月の光が澄み渡り、夜の森を包み込む。ゆっくりと歩み寄ると、風がレモンの香りを運んできた。

 

 ――そして、彼女がいた。

 

 変わらぬ優雅な姿、微笑み。ただ少しだけ、目が揺れていた。

「ずいぶん探してくれたのね」

 その声は、どこか遠くのもののようだった。

 

「やっと見つけたんだ。ここなら……」

 懇願交じりの声が出る。嫌な予感がした。

 

「いいえ、もう終わりにしましょう」

 言葉が冷たいわけではなかった。ただ、静かで穏やかで、それでいて、拒絶のない別れだった。

 

「どうして……?」

 

 彼女はゆっくりと目を伏せる。

「毎晩ここに来ることはできないでしょう? あなたは探してくれるけれど、それが続けば、あなたの生活に支障がでるわ」

 

 言われなくとも、わかっていた。ここまで来るのは簡単ではない。毎夜、月光を求めることは、日々のすべてをそのために費やすということ。

 それでも、終わりにするなんて——

 

「今夜だけは、一緒にいてくれる?」

 彼女は微笑んだ。いつも通り、言葉は少なく。落ち着いた時を過ごした。そして、最後の月の光の中で、一言もなく穏やかに消えていった。

 風がふわりと動き、レモンの香りが残る。

 

 翌夜、山へ向かう道は昨日と何ひとつ変わらなかった。

 木々が静かに揺れ、夜の空気が頬を撫でる。月は昨日と同じように高く昇り、森を黒に染めていた。

 

 昨日と何も変わらないのなら、彼女もそこにいるはずだった。

 足を進める。月光の届く場所へ。

 けれど、そこに彼女の姿はなかった。

 

 風がそっと吹き抜ける。昨日と変わらない夜が広がっているはずなのに、ただひとつ、彼女だけが欠けていた。

 レモンの香りは、もうどこにもなかった。

 

 月の光のある場所なら、彼女はそこにいるはずだった。そう信じていたのに、今はただ月の 輝きが地面に降り注ぐだけだった。

 立ち尽くしたまま、夜の深さを感じる。

 昨夜まで続いていた時間は、もう途切れてしまったのか——。

 

 それとも、ただ「彼女がいない」という事実を、受け入れられないだけなのか。


 遠くから、街の光がぼんやりと滲んで見える。

 あの場所へ戻っても、窓辺に彼女の気配はないだろう。月の光が届かない部屋には、もう何もない。

 静かに目を閉じる。

 

 夜の冷たさが、少しだけ肌に染みた。


 それから、月の光を見るたびに、レモンの匂いを思い出すようになった。

 街の明かりに紛れながらも、夜空にぽつりと浮かぶ月を見つけると、ふと胸の奥が締めつけられる。もう彼女の姿はない。それでも、月の輝きは確かにあの夜と同じだった。

 

 ある日、喧騒の中でふとレモンの香りを感じた。

 カフェの前を通り過ぎた瞬間、ガラス越しに漂う柑橘の爽やかな香りが微かに鼻をかすめた。足を止める。あの夜、風に乗って届いた彼女の気配と、同じ香りがした。

 けれど、振り向いてもそこに彼女はいない。

 

 月の光の届かない場所では、彼女は現れない。それでも、この香りだけは、まるで彼女の存在の証のように、どこか遠くから届いてくる。

 

 月の光はレモンの香りを思い出させ、レモンの香りは彼女を思い出させる。

 どこかで誰かがレモンティーを飲んでいるだけかもしれない。あるいは、果実を切る手がどこかにあるのかもしれない。

 

 それでも、レモンの香りが漂うたびに、彼女を思い出す。

 月の光を見るたびに、あの夜を思い出す。

 触れられなくても、目に映らなくても、記憶の中に彼女はまだいる。

 

 

 そしてまた、夜が訪れる。

カクヨムの自主企画「月の光はレモンの香り」をタイトルにして1500〜3500字以内という条件のものに参加させて頂いた時の内容です。

ここまで読んでくださりありがとうございます!

もしよろしければ、これからも読んでいって下さい!

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