P-2 [魔王軍 襲來]
[ガチャン——]
「これで6つ目か、短期間でこれほど多くの兵士が命を落とすとは⋯⋯」
ポトト駐屯の騎士大隊 大隊長 ヘンデサス(Hendersus) は、眼前に積まれた兵士たちが拾い集めた騎士の鎧を見つめ、白い髭を撫でながら、ため息混じりに焼け焦げた胸甲の一つを手に取った。片目を閉じて、溶けかけた穴の縁越しに、複雑な表情を浮かべる兵士たちを一人一人見渡した。
「⋯⋯そして我々は何も気づかなかった。敵がこんなに近くまで迫っていたとは。」
ポトト駐屯の騎士大隊は城門脇の指揮テントの前に集まり、ヘンデサス 大隊長は深く眉をひそめ、事件の順序を整理しようとしていた。
(魔王軍が領土を離れ、大砂漠に進軍してからまだ一週間ほどしか経っていないというのに、情報を受け取った翌朝、すぐに派遣した騎士団が、出発から二日後には音信不通になったとは⋯⋯)
(しかし、調査に向かったところ、城外の北西90キロ地点でいくつかの鎧と血痕が見つかったが、馬さえも見当たらなかった。いったい何が起こったのか⋯⋯)
(そしてこの鋭利な痕跡、この大きさのものが⋯⋯まさか⋯⋯)
(いや、一切の不可能を排除した後に残るのは、どんなに信じがたいとしても、事実でしかないのだ。)
「ヘンデサス 様、その表情だと、何が起こったかお分かりのようですね。」
隣で槍を構えている兵士がそう言った。
ヘンデサス は答えが得られたように立ち上がった。 顔の表情は大いに緩んだ。いや、むしろ覚悟を決めた表情だった。 逃げるわけにもいかず、敵はすでに『ここ』にいるのだから。
彼は前方の大きな木を真っ直ぐに見据え、大声で叫んだ。
「そうだ!だからもう隠れる必要はない!」
「「!」」
全員が同じ場所に目を向けた。
「ゴホン—」
ヘンデサス は咳払いしながら言った。
「皆に伝えたいことがあるんだが⋯⋯?!」
注視していた枝葉の間で、突然何かが動いた。
(⋯⋯敵は近くに隠れている可能性がある⋯⋯え?)
ヘンデサス は最後の一言を口にする暇もなかった。
枝葉の色が徐々に変わり、【迷彩(Camouflage)】魔法が解け、黒衣の人物が静かに木の梢から地面に降り立った。夕陽の輝きがその人物の長い影を映し出した。
「やれやれだぜ⋯⋯まさか人族の騎士団にこれほどの実力者がいるとはな。」
黒衣の人物は頭を垂れ、淡々と語りかけた。
目の前の兵士たちは武器を握りしめ、互いを見渡した。緊張しつつも心の中には一縷の希望が残っていた。
(...気配を感じ取れなかったが、大隊長がスパイの偽装を見破ったのなら、みんなで一斉にかかれば、勝てるかもしれない⋯⋯)
一人の兵士はゴクリと唾を飲み込み、素早く懐から小さな魔杖を取り出した。杖の先端に赤い魔法陣が現れた。
「【火球(Fire Ball)】!」
(そうだ、この距離なら、まず魔法で相手にダメージを与えるべきだ。)
そう考えた兵士は思わず笑みを浮かべ、我慢できずに魔法を発動させた。
バスケットボール大の炎が空気を切り裂いて黒衣の人物に向かって飛んだが、その人物は一切動じなかった。
直撃する瞬間、黒衣の人物は突然顔を上げ、火球よりも明るい、真っ赤な目を見せた。
「何をしているんだ!それは——」
【火球(Fire Ball)】は完全に命中した。
「—魔王デニュシウス・リンナエウス (Denysius Linnaeus)だぁ!」
ヘンデサス は叫び、紳士的で沈着な大隊長が、今では鎧が互いに打ち合う音を立てていた。
「あのさぁ」
魔王は武器を構えて突進してくる兵士たちを無視し、ヘンデサス に視線を向けて話しかけた。まるで周囲の兵士たちが存在しないかのように、彼に向かってまっすぐ歩み寄った。そして、魔王の身に纏っていた炎は徐々に消えていき、まるである有名なロックバンドの《 あなたがここにいてほしい》のジャケットのように。
「君の名を知る栄誉にあずかることはできるだろうか?教えてくれないか?」
微笑みながらそう言った瞬間、魔王に近づいていた兵士たちは同時に燃え上がり、火の塊となって倒れていった。
(魔法陣も見えなければ、呪文も聞こえない。目も合わせずに、複数の対象に対して同時に強力な魔法を発動できるなんて。くそ!これが我々人類が立ち向かわなければならない相手なのか?)
ヘンデサス の右頬を冷たい汗が一滴流れ落ち、彼は唾を飲み込んで言った。
「私は王国 聖護騎士団 ポトト駐屯の騎士大隊 大隊長、ヘンリー.ヘンデサスだ!」
「そして私は、ああ、君はすでに知っているようだね。」
魔王は恐ろしいほど冷静な微笑みを浮かべながら、ゆっくりと話し続けた。 その間、周りの炎に包まれた兵士たちは苦しそうに悲鳴を上げ、地面を転げ回って火を消そうとしていたが、火が消えてもすぐに再び燃え上がっていた。
部下たちの苦しむ姿に耐えかねたヘンデサスは、頭をフル回転させた。
「魔王様、もし私があなたの偽装を見破ったのなら、私にあなたの技をいくつか教えていただけませんでしょうか?」
「ん?」
「もし私が勝ったなら、私の部下とこの城下町を見逃していただけますか?」
「面白い提案だが、少し欲張りではないか?この数日で結論は出たと思うが、この城下町を攻め落とすのは避けられない結果だ。」 魔王の微笑みは消え、冷酷な表情が炎に包まれた兵士たちを冷やすように現れた。
ヘンデサスは眉をひそめ、心の中で思った。
(やはり無理なのか⋯⋯)
「まぁ〜しかし、これは確かに少し騒がしいな。」
魔王は苛立った様子でそう言うと、兵士たちを包んでいた炎は即座に消え去った。
「ご配慮いただき、ありがとうございます。それでは始めましょう!」
ヘンデサス は気を取り直し、そばにあった大きな盾を持ち上げ、剣を前に突き出して盾に構えた。一方の膝を少し曲げ、もう片方の足を後ろに引きながら、力強く唱えた。
「万能なる神よ、どうか我に暗闇を打ち砕く力を与えたまえ!【神聖な突撃 (Holy Charge)】!」
ヘンデサスの全身が金色の光に包まれ、まるで手持ち花火が大きくなったような輝きを放ちながら、疾風のごとく駆け出した。
魔王は冷静に腕を振り、掌の前に 紫色の魔法陣 を出現させ、魔法陣から剣を生成した。 剣を正面に構え、ヘンデサス が最も接近する瞬間を静かに待っていた。
(今だ!)
風圧を感じた瞬間、魔王は剣を持っていない方の腕で風の力を受け流し、バスケットボールのスピンムーブのように素早く ヘンデサス の背後に回り込んだ。そして、冷酷にその背中の鎧に深い傷を刻み、鮮血が溢れ出た。その瞬間、魔王の手に握られた剣はガラスのように砕けて消え去った。
二人は最後の姿勢のまま数秒間立ち続け、ヘンデサスは糸が切れた人形のように崩れ落ちた。しかし、彼は剣と盾、そして意志の力でかろうじて体を支えた。 重傷を負ったにもかかわらず、ヘンデサスはそのまま鎧の山に向かって這い進もうとした。
その時、一筋の光がヘンデサスの周りに射し、魔王は水晶の槍を取り出し、ゆっくりと彼に歩み寄った。
「最後に何か言い残すことはあるか?ヘンデサス。」
「⋯⋯ローセン、マート、セレブン⋯⋯この子たちの名前を覚えていてほしい⋯⋯」
「あぁ、その名前は覚えているよ。でも⋯⋯あの鎧の中には私が殺したわけではない者もいるんだ。実はずっと見ていたんだが、あの子たちが全て善良な者ではなかったんだ。」
魔王は言葉を止め、ヘンデサスは手に握った穴の開いた胸甲を見つめながら、つぶやいた。 「違う⋯⋯人間の感情は非常に強烈なものだが、君たちには理解できないだろう⋯⋯」
地面が震え始め、城門の方から叫び声や剣のぶつかる音、そして悲鳴が徐々に聞こえてきた。
「⋯⋯そうか。だが我々魔族の感情も、君たちに劣らず強いのだ。」
魔王はうつむきながら言った。同時に、ヘンデサスの反応が完全に途絶えたことに気づいた。
「だから、我々は前進し続ける。」
それはまるで自分自身に語りかけるように小さな声で、魔王は城門の上に飛び上がった。 倒れていた兵士たちの身体から焼け跡が消え、隣の盛り上がった土手には黄色いバラが一輪咲いていた。
城壁の上にいた弓兵や魔法使い、そして騎士たちは、誰かが飛び上がってきたことに気づいたが、驚く間もなく、目の前の様々な怪物たちに対処することに必死だった。
血が止まらない傷を与えるヴァンパイア、
目が合えば即座に魅了されるサキュバス、
闇から奇襲を仕掛けるデーモン、
空から岩を落とすガーゴイル⋯⋯
魔王は長槍を高く掲げ、その水晶が赤く輝いた。 一筋の火光が素早く上空に飛び、巨大な【火球(Fire Ball)】が雲を炸裂させ、夜空を照らした。
城門前でゴブリンやミノタウロスなどの怪物たちと戦っていた騎士たちは、その手を次第に止め、振り返った。彼らの顔には絶望の表情が浮かび上がっていた。
絶望⋯⋯
それは目の前の怪物が次々と押し寄せてくる恐怖ではなく、このことは最初から分かっていたことだ。
戦力の差や崩壊しつつある戦線に対する覚悟はすでにできていた。
だが、最初に夜空を見上げたときから、大隊長の姿が見当たらなかったことに対する絶望だった。
今や、空高く舞い上がった「希望」は、『援軍』という名の細い糸で皆の重い心を引き留めているように思えた。
そして、彼らが背後にある城下町、城門、指揮テントの方を見た時、そこに現れたのは遅れてやってくる英雄ではなく、死を告げる鐘の音だった。
その瞬間、『希望』は飛び去った。
........
「魔王様!魔王様!素晴らしいです!また完璧な勝利を収められました~」
高級なメイド服を身にまとい、淡い碧色の長髪を持つ少女が嬉しそうに歓声を上げ、紅茶を差し出した。
「おう、うむ。計画とは少し違ったが、結果は順調だったな。」
魔王デニュシウス・リンナエウスは、返事をしながら、机の上に積み上げられた地図や様々な書類に目を通していた。
「箱音、少し静かにしなさい。魔王様はお忙しいのです。」
暗緑色の短髪を持ち、少し異なるデザインのメイド服を着た少女が、そっと注意を促した。
「気にするな、エメラルド。これぐらいなら気分も少しは楽になる。」
「それより、マモリアの様子はどうだ?まだ参戦の兆しはないか?」
魔王デニュシウス は話を続けた。
「はい!ダニエルス(Daniellus)様とコトゴウ(Kotogle)様が引き続き監視しておりますが、時々無謀な者たちが単独で攻撃を仕掛けてまいります。しかし、あの動物たちはまだ共同戦線を張る決断をされていないようです。なだって犬や豚の集まりですからね~」
名前を 箱音 と呼ばれるサキュバスのメイドが、依然として楽しそうに答えた。
「しかし、北方戦線はもう少し厳しい状況です。シルフ(風精霊)の猛攻と、サラマンダー(火精霊)の奇襲を受けております。守勢を取っているため、イェロキ(Yeloki)様とポプルス(Populus)様からの報告では現在問題ないとのことです。」
エメラルド という名の吸血鬼のメイドが、真剣な顔で報告した。
「そして、お二人の女王様方から伝言を託されました。『今ならまだ引き返せる』とおっしゃっております。」
「いや、最初から引き返すことなどできない。だが、戦争もあと数日で終わるだろう。トミーからの情報によれば、今夜には人類国王率いる主力軍が隣の聖ギョクイリア山に到着するはずだ。今夜から明朝にかけてが決戦の時だ。」
そう言うと、魔王デニュシウスは黒いマントを払い、空中に消えた。
体には赤と黒の炎が燃え上がった。しかし、炎は何も燃やすことなく、代わりに一式の鎧を生成した。もともと身につけていた軽い全身龍鱗甲冑の上に、赤い宝石をちりばめ、黒い鋭い角が縁取られた硬い鎧が重ねられた。肩からは縦に紋様の入った二本の長い布が垂れていた。 このとき、魔王デニュシウスの手には、すでに西洋ドラゴンの頭をかたどった黒い兜が握られていた。兜の後方の両端には一本ずつのドラゴンの角があり、それも鎧と同じ紋様と宝石が施されていた。
魔王デニュシウスは片手に兜を、もう片方の手で同じ紋様が刻まれた長剣を握り締めた。長剣の中央には宝石が一列に並んでいた。
兜をかぶると、淡い赤い光が全身の紋様と宝石を走り抜け、兜の頂部には三本の触手のような炎が後方に伸びた。そのうち、中央のものは少し短かった。目の部分には、赤い光が灯っていた。
魔王デニュシウスは軽くテントのカーテンをめくり、言った。
「ちょっと外の空気を吸ってくる。みんなに伝えてくれ、休息が済んだら、戦闘再開の準備をするようにな。」
(魔王様……)
エメラルドは言葉を飲み込んだ。真面目な性格の彼女は、心の中の重苦しさは新鮮な空気を吸うだけでは解消できないことを知っていた。彼女には、魔王デニュシウスが何をしようとしているか、よく分かっていた。
(この場面では「いや、新鮮な空気を吸いたいならヘルメットを外せよ」とツッコむべきではない。でも、手を差し伸べて、何も言わなければ…)
魔王デニュシウスは歩みを止め、振り返ることなく、問いかけた。
「そういえば、あの小さな女の子、家族を見つけたか?」
「はい、魔王様!彼女たちは今、他の人たちと一緒に森にいます~」
箱音が笑顔で応じた。
..........
魔王デニュシウスは水晶の槍を持ち、町の空中に飛び上がった。町にはひどく損傷した家々が一周しており、その中には瓦礫や破片が散らばっていた。
その場所はかつて【聖約和平サミット】が行われる予定だった会場だった。和平の象徴が崩壊し、戦争が始まったのだ。それは、この地下に……。
(魔王様は変わらない。常に他人を気遣う……それが、私たちが彼に従う理由だ。)
厳格なメイドも、陽気なメイドも、心の中では同じ信念を持っていた。
『Lasciate ogne speranza, voi ch’intrate(汝等ここに入るもの一切の望みを棄てよ)』
全身の宝石と紋様はより輝かしい赤い光を放ち、槍の水晶が全身を巡るエネルギーを集め、眩しい光を放った。槍の先端の水晶は槍の柄から離れ、空中に浮かび、多芒星形へと変形した。
『Nessun maggior dolore. Che ricordarsi del tempo felice. Ne la miseria(悲惨な時にあって、 幸福の時を思い起こすことほど辛いことはない)』
(父上、母上、ルカパネラ師匠、そして災難の中で犠牲になった皆さん、私の大切な人々よ。数日間、人間たちを観察しました。私はもう……決断を下す覚悟ができたようです。)
『Per me si va ne la città dolente, per me si va ne l’etterno dolore, per me si va tra la perduta gente. (我を潜りて嘆きの都に行かん、我を潜りて永遠の苦悩の中に行かん、我を潜りて破滅の人々の中に行かん)』
(私はこの手で全てを終わらせる……『復讐』、それが私の答えだ。)
『La via per il Paradiso comincia dall’Inferno(天国への道は地獄より始まる)』
多芒星形の水晶の周囲に、土星の環のように幾重にも赤い魔法陣が現れた。廃墟となった会場の上にも赤い魔法陣の印が現れた。
「【地獄・昇華(Inferno)】!」
廃墟の上にある魔法陣が強烈な光を放つと、巨大な柱状の炎が地表から天に向かって燃え上がり、その炎は赤から青へと変わった。最後に、魔王デニュシウスがその柱に軽く触れると、炎は一瞬で黒に変わり、そのまま全てが消え去った。廃墟と共に、地面には魔法陣の紋様が焦げ跡として残された。
全てが燃え尽きた後に残るもの、それは虚無。復讐の道は地獄へと続くが、必ずしも天国へ通じるわけではない。
「一体、地獄はどこにあるのか……」
魔王デニュシウスはつぶやき、突然——
(視線!!)
聖ギョクイリア山を鋭く見据えた。背後には、まるで巨大な深い藍色の双眼が自分を見つめているかのような感覚があった。
「来たか、勇者。」
その藍色の視線を打ち消したのは——
「我々の心からの怒りを受け取れ!」
右目から放たれる紫色の光だった。