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 自宅に着いたのは、お昼過ぎだった。当然、まだ両親は仕事から帰ってきていない。二階の部屋へと上がる途中、階段の壁にはっつけてある「ありがとう」の紙が、右上だけ剥がれていた。部屋からマスキングテープを持ってきて、もう一度貼り付ける。

「よし」


 この紙がないと、毎日頑張ろうっていう気合が入らない。


「ありがとう。よろしくね」


 上山さんに、たった一言そう言いたかっただけなのに、私にはできなかった。

 自室へと入ると、私は『なないろ』を開く。


【一人では抱えきれないマイノリティな悩みを、掲示板につぶやこう。『なないろ』できっと、誰かが共感してくれる】


『なないろ』はそのキャッチコピーの通り、“マイノリティな悩みをもつ人たちが集い、お互いの悩みを共有し合う”のを目的としたアプリだ。

 友達や家族には言えないような悩みでも、顔や名前を知らない誰かになら聞いてもらうことができる。悩みを吐き出して、少しでもすっきりすることができればいい。そういうコンセプトで開発されたようだ。

『なないろ』に生息しているユーザーには本当にいろんなマイノリティな悩みを持っている人がいる。性的マイノリティの人や、難しい病気をもつ人、変わった性癖がある人、人とは違う趣味嗜好を持っている人など、様々だ。

 同じ悩みを持つ人がいればコメントをして励ますのもいいし、単に投稿を眺めるだけでも、「自分は一人じゃないんだ」と安心することができる。中には同じ性的マイノリティの人たちが恋愛する相手を探していることもある。それはそれで、利用規定には違反しないらしい。出会いを求める投稿については、スルーするようにしていた。

 私は、今日大学で起きた出来事を思い出しながら、深呼吸を繰り返す。『なないろ』を使い始めてまだ一ヶ月しか経っていない。ここに、自分について一番核心的な事実を書き込もうと思ったのは初めてだ。

 スマホの文字盤の上に指を滑らせて、お腹の底から湧き出てくる悲鳴を、一文字ずつ打ち込んでいく。


【私は、場面緘黙症という病気を患っています。精神的な病気で、直接的な治療法はありません。家の中で、家族と会話をする分には普通に話せるのですが、外で——特に、人が多く集まる学校や街の中で、話すことができなくなります。『話したい』という気持ちはあるんですけれど、どうしてもできなくて……。今日も、大学生活一日目で話しかけてくれる人がいたのに、私は何も返事をすることができませんでした。このまま、一生家族以外と話せなくて、友達ができないまま、なのかなぁ……。】


『なないろ』に吐き出す投稿は、解決策を求めるものではなく、悩みを打ち明ける内容であることが多い。私も、この病気に対して、治療法を教えてほしいという気持ちはなかった。治療法なんて、もうとっくに病院でいくつも試してきたから。カウンセラーに話を聞いてもらったり、抗うつ剤を処方してもらったり。全部効かなかった。


 私が場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)を患ったのは、小学校に入ってからだった。両親の意向で、いわゆるエスカレーター式の、私立のお嬢様学校に入学した。小学校から高校まで通える学校で、附属大学まで存在しているから、小学校受験さえ乗り切れば、そのあとは悠々と大学まで進学することができる。

 うちは別に、お金持ちだったわけではない。両親が、「あとで苦労をさせたくないから」という気持ちで多少無理して私をそのお嬢様学校へ入れた。けれどその判断を下されたことが、私の運の尽きだった。

 お嬢様学校では、小学校の時からスパルタ教育が施された。ほとんど缶詰状態で勉強を強いられ、公立の小学校のような楽しいレクリエーションは一切なし。グループ発表ではプライドの高いクラスメイトと、競争のように発言の時間を奪い合う。学校での一挙手一投足がすべて成績に繋がった。成績が悪ければ、クラスでの立場も低くなる。陰口を言われ、友達の親からは「もうあの成績の悪い子とは関わらないようにね」と間接的に告げられた。

 そんな環境に、クラスメイトたちは必死に食らいついていた。私一人を除いて。


「本間、お前こんな問題も分からないなんて、我が校の生徒として恥ずかしいぞ」


 心が限界まですり減っていた時、担任の先生が私に放った一言が、決定打となった。

 今までぎりぎり保っていたプライドや頑張ろうという気持ちが決壊して、その場で涙が溢れて止まらなくなった。そんな私を見ても、クラスの誰一人として、「大丈夫?」なんて優しい言葉はかけてくれない。

 私だけが落ちこぼれなんだ……。

 羞恥心が全身を炎で炙っていくように駆け巡る。「ごめんなさい」と口から吐き出そうと思った言葉が、喉の奥でぐっと止まってしまった。

 え……?

 自分の中で何が起こっているのか、分からなかった。


「どうした。何か言うことはないのか?」


 火を吹くような先生の強い言葉が、私の全身に降りかかる。はやく。はやく何か言わなきゃ。


「……っ」


 そう思うのに、開きかけた口からは、やっぱり言葉が紡ぎ出されることはない。誰かの手で喉をぐっと絞められているみたいに苦しかった。先生はもう呆れ返っていて、私をこれ以上注意しようという気もなくなっているようだ。

 私はその日一日中、学校で声を出すことができなかった。次の日も、その次の日も、学校では声が出ないという不可思議な現象が続く。クラスメイトたちも、先生も、もともと控えめだった私が、単に誰かと喋ることを鬱陶しく思って口を開かなくなったのだと思っていたようだ。授業中に先生から当てられると、みんなが「ねえ、また喋らないよ」とコソコソ囁き合う声が残酷にこだまする。

 違う。違うのに。私は私の意思で声を出さないんじゃない。声が、出せないだけなのに——。

 そんな心の悲鳴さえも、誰にも届かない。

 学校で声が出なくなってから一ヶ月、私はようやく両親に「話せなくなった」ということを伝えた。


「え、でも家では普通じゃない」


「うん。でも本当なの。学校に行くと、声が出なくなるの」


 幼い私は必死に両親にこの苦しみを訴えた。両親は私を病院へと連れて行ってくれた。医者から下された診断は「場面緘黙症」という病気だった。


「学校や職場などの、特定の場面・状況になると、話すことができなくなってしまう病気です。原因ははっきりとは分かっていませんが、環境が要因であることが多いです。ほとんどは子供時代に発症して、大人になるにつれて改善することもあります」


 医者は、淡々と私の目を見ながら、「場面緘黙症」について教えてくれた。子供の私でも、なんとなくどんな病気であるか理解することができた。


「先生……美都の病気は、治るんでしょうか?」


 お母さんが不安げな声で医者に聞いた。医者は、「おそらく」と曖昧な返事をする。


「直接的な治療法はないので、カウンセリングや不安を抑える薬を処方しながら、様子を見ていくのが通常ですね。はっきと“いつ治る”と断言することはできませんが、成長して治る場合もあります。諦めずに、根気強く頑張りましょう」


「はあ。よろしくお願いします」


 あまり納得していない様子のお母さんが、医者に頭を下げる。私も、つられて小さくお辞儀した。


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