フェラーリ
優太・八重もついに、それぞれピカピカの中学生、小学生となりました。
そんなある年の、小学校の保護者面談。今日は、午後半休を頂いて臨みます。
優太の3,4年生の時の担任だった浜田先生が、八重の担任になったようで、
「この前、優太が卒業したと思ったら、またお世話になるなんて。奇遇ですねえ。」
なんて、のほほんと切り出したのだが。ベージュ色のスーツに身を包んだ、一目見ただけでも優しさオーラが全開の先生は、曖昧に返事をしながら、笑っているような笑っていないような顔で、こう続けた。
「八重さんなんですけれど、元気が良くて、いつもお母さんやお兄ちゃんのお話をしてくれて、私もいつも笑顔にしてもらえるんです。…ただ、その…少し…。」
私を見るような見ないような目線のまま、濁すようにしばらく言い淀んだあと、思い切ったように表情を固めた。
「授業中にお友達の席に行ってしまったり、少しお友達との距離が近かったり、ほかのお友達や親御さんから、困っていると、ですね。それに、忘れ物も続いていて。」
なるほど。確かにこれまでも、元気が過ぎる気がするけれど、少し発達が遅い気がするけれど、こんなもんかな、ということはあったのだが…。
「今までの健診で発達に関して指摘はありませんでしたけど、ADHD的な雰囲気ということですね。わかりました、後ほど診断基準を調べて、必要があれば内服トライを…。」
DSM、今は5やったっけ、6になったんやったっけ…。
「お母さん、話が早いのは助かるんですけれど、いきなり薬まで到達してしまうのは早すぎます。」
え、コンサータやストラータ、薬物療法については比較的エビデンスが高いはずなんやけどな。
「育ってきた環境や、入学後の環境変化で、ADHDのような特徴が出てしまう子は、少なからず居はるんです。今は、お薬以外の方法で対応しながら、様子を見てみませんか?」
確かに、焦り過ぎたようだ。鑑別疾患は洗い出して、否定しておかねば。やっぱり、DSMは最新版をポチっておくべきやな。
帰宅後、母の帰宅が早いことにご機嫌の八重がごろごろ床を転がっている横で、まずは診断から、とパソコンに向かい情報収集を開始した。
なるほど、先生は愛着障害やVASTなどのことを言っていたのね。ポチポチと、関連書籍をカートに入れていく。
でも、小さいときからのことを思い返してみるに、
「いやこれ、どう考えてもADHDですね。」
「えーでぃー…何て?」
「なんでもないよー。」
診断基準には、ほぼ全て当てはまってくる。我が子のことになると目が曇るとは、こういうことか。
ADHD。日本語にすると注意欠陥多動性障害。簡単に言えば、注意のコントロールが上手くいかない、様々な衝動を自力で抑えられない、などの症候。その業界でも先駆者のとある人は、「フェラーリのエンジンに自転車のブレーキがついている状態」と例える。
欠陥とか障害とか言うと、言葉がきつい、言い過ぎだろう、とは思う。一方で、“育て方の問題”と誤解されがちだった昔とは異なり、脳の一部の機能不全が明確に証明されつつある。グラデーションのように症状の軽重も様々で、“発達の特性”、言ってしまえば“個性”とも言えるが、そう軽く濁すには、有意に精神疾患にかかりやすい、自殺率が高いなど、それを抱え持った人々の発達・社会適応における苦労が大き過ぎる、生来的な“症候群”だ。
文献によっても異なるが、診断基準を満たすのは、おおむね人口の2~5%程度と見積もられている。っていうか、医者の中にはそれっぽい人多いよな。自分も含めて、それらしき人々の顔を思い浮かべて、少し顔をしかめる。
診断ができれば、あとは治療方針を組み立てていくだけだ。ごろごろを終えて『お母さんダンス』なる踊りを舞っている娘を横目に、少し暗めの未来の中に光を導いていく。
昔ながらのやり方でPubMedを漁ってしまうのは、ご愛敬かな。まずは、やっぱり薬物療法の情報が多い。二重盲検できるから、試験組み立てやすいもんねえ。それでも、そのほかにセルフコンパッションやマインドフルネスというワードも飛び込んできて、ふむふむなるほど。マインドフルネスってあれよね、瞑想というか。あ、ちょっと違うのか。へえ、面白そう。いわゆる“健常者”がやっても、集中力が上がったりとか、色々効果があるのね。
「ただいまあ。お腹空いたなあ。今日の晩ごはん、何?」
あれ、優太の声?中学校ってこんなに帰り早いの?部活は?ん?6時半…?
「え、もうこんな時間!」
食べ盛りのお子さんが、先に宿題やってくる、と苦笑しながら気を使ってくれたので、ごめんごめんと言いながら慌ててありもので肉野菜炒めを作る。
その間にも、さっき調べたマインドフルネスのことが、頭の中を飛び交っている。まあ、ものは試しということで。
「八重さん、八重さん。」
「なにー?」
入浴後のひと時。いつもはテレビを見たり本を読んだりしているが、
「今日は、実験をしましょう。」
「実験?」
「静かに座って目を閉じてみたら、どんな感じ?」
全くわけがわかっていない表情ながら素直な我が娘は、椅子に座って目を閉じる。
しばらくすると、
「なんかね、ざわざわする。」
「どんなざわざわ?」
「うーん、ニンジン美味しかったとか、ピーマン苦かったとか、お絵かきしたいなとか、色々。」
「そっか。そのざわざわ、『ざわざわしているなー』って思いながら放っておいたら、どうなるんかな?」
「うーん…なんかね、小さくなってきたよ。」
「そっかそっか。じゃあ今度は、吸って、吐いて、ってしている息は、どんな感じ?」
「え?えっとね…あ、吸うと冷たくて、吐くとあったかいよ!」
「じゃあ、そのまま息の冷たいのとあったかいの、味わってみようか。」
そんな感じで、今日のところは5分。2人で吸ったり吐いたりしてみた。
「今日は終わりね。今、どんな感じ?」
目を開けた八重が、返事をする。
「何かねえ、すっきり。良い夢見られそう。」
どこでそんな言い回しを覚えたんや。でもまあ、気に入ってくれたようで、よしよし。
「山下家の母って、ええ人なんですけれど、ちょっと変わってはりますよね…。」
「あ、浜田先生。お疲れー。山下家って、あの山下家?」
「そうそう。」
「そっか、浜田先生、今年入ってきた妹ちゃんの担任やったっけ。」
「そうなんです。今、面談やったんですけれど…。」
「あの妹ちゃん、授業中に立ち歩いたりしているんでしょ?発達さんっぽいよね。優太くんは、入学から卒業まで、どこに出しても恥ずかしくない優等生やったけど。」
「そうなんですよねー…。今日の面談で母に発達さんっぽいことを匂わせてみたんですけれど、『ADHD的な雰囲気ということですね。わかりました、後ほど診断基準を調べて、必要があれば内服トライを』とか言い出さはって…。」
「わお。他の子の親御さんやと、まず自分の育て方がー、とかって悩んでしまわはって、私らが『違うんですよお母さん、これは発達の特性の可能性が』って説明せなあかんもんね。」
「その辺、さすがお医者さんって感じなんですけど、理解が早いというか、早過ぎて飛躍していますよー、みたいな。賢い人って、皆あんなんなんかな…。」
「まあ、赤の他人の子供を2人も育てようっていうくらいやから、そんじょそこらの普通の人やないとは思っていたけど。」
「ですよね。でもまあ、自分が産んだ子でもないのにあれだけ可愛がれるって、無償の愛の塊ですよね。」
「それは間違いない。大型バイクをブイブイ言わせている聖人君子って感じ。」
「木島先生も、例え方とか、ちょっと変わってはりますよね。」




