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三角

 休日の朝。少しゆとりがあったので、エスプレッソマシンで濃い目のコーヒーを淹れてみた。優雅な日だ。

「うげえええ…苦い…。」

 洗面所に歯を磨きに行った優太が、優雅でない声を出している。どうした。

「お、お母さん…!」

 昨日、八重に石鹸での手洗いについて指導をしたところだ。つまり…。

「優太の歯磨きも、綺麗にしようと思ったんかなあ…。」

 八重氏、まだあれこれと区別がついていない印象がある。


 昼下がり。久々に腕によりをかけて、シフォンケーキなど焼いてみた。無心で泡だて器をかしゃかしゃ言わせるのも、案外ストレス発散になって良いな。

「お母さん…!」

わしゃわしゃと洗い物をしていると、優太がとたとたと駆け寄ってくる。

「八重ちゃんが僕の分を食べてもうたの。でも、ぬいぐるみのくまさんが食べたって、嘘つくの!」

 八重は今、3歳2か月。ということは、自覚的な嘘をつけるかどうか微妙な年齢だ。普段の様子から、どちらかというと、現実と空想の世界がごっちゃになってしまっているのだろう。むしろ自覚的に嘘をつくようになったら、それはそれで成長として喜ばしいものだが。

 話題の八重様は、うさぎさんのぬいぐるみに浮気をしていらっしゃる。くまさんは、横倒しのまま哀愁を漂わせている。


「ねえ、何でえ!」

 夕食後、末梢性めまいの鑑別方法に関して調べようとコーヒーを淹れていると、おもちゃ部屋兼書庫から、八重の叫び声が聞こえてきた。八重様の『何で』攻撃がはじまったな。

それにしても、『何で』と『これ何』は、昔、小児科の講義で教わった発達段階の上では、2歳ぐらいで始まるはず。3歳児健診では特に何も指摘は無かったが…うーむ、これが個人差というやつなのか…?

「八重ちゃーん、どうしたん?」

「おかたん。おにたん、つかえたの。何で?」

「『つかえた』?ああ、疲れた、ね。」

 舌足らずなのもかわいいけれど、普通の子はもう少しはっきり発音出来るのか?

「そのご本、読んであげるから、もうおやすみやで。」

 引っ掛かり始めると、色々と気になってくるな。けれど。

「はあ…。」

 背後の暗がりから聞こえるため息の方が、よほど気に掛かる。


 絵本を読んで八重を寝かしつけたあと、少しぬるくなったコーヒーを持って、今の我が家で最も暗い部屋に侵入する。

「優太…あれ、寝ているんか。」

 抱えた膝の中に頭を沈めながら、すうすうという寝息を立てている。起こさないように気を付けながら豆電球をつけ、肩に毛布を掛けてやる。悩める小さき『おにたん』が起きるまで、コーヒーを飲みながら末梢性めまいの鑑別方法について調べることにする。


 10分で飽きて、そのあとずっと解剖書をパラパラしていたところ。

「ん…んう?」

 暗がりの中で、悩める少年は眠たそうにきょろきょろと周囲を見回している。

「あら、起きたね。ベッドまで行ける?」

「うん…今、何時?」

「11時よー。何か飲んでからにする?」

 たまには夜更かしして、ホットミルクでも飲みながら語り合うのも良いね。あ、しもた。牛乳の残りはシフォンケーキにつぎ込んでしまった!


「僕が小さいときも、八重ちゃんみたいやったんかな。」

 

 ぽつり、と、部屋の隅っこの三角から、声が聞こえる。悩める小さき『おにたん』は、いつの間にか大きくなっていたようだ。

「お母さんが優太と初めて会ったのは5歳の時やから、今の八重ちゃんぐらい小さいときのことは、わからへんなあ…。」

 知らないことは、知らないとしか言えない。嘘をついても、適当を言ってごまかしても、この子の悩みは解決しないだろう。

「でもまあ、少なくとも5歳の頃ののゆう太はかわいかったな。」

 私にとっては、今でも小さくてかわいいけどな。


 彼は、優しすぎるのだ。赤子の嘘や疑問に、真正面から向き合ってしまうぐらいに。

「子供って、最初はずっと『お母さんお母さん』って言うていたのが、いつの間にか友だちなんか作っちゃってさ。ちょっとよそ見していたら、あっという間にランドセル背負って、お兄ちゃんぶっちゃって。」

 それでも、私にとっては、今でも、小さくて、かわいいけどな。

「困らされる時期は一生のうちほんの短い間だけやからさ、『今はそんな時期なのね』って思いながら上の空で相手するぐらいが、お母さんはちょうどええ塩梅やし。優太は、ちゃんと向き合ってあげてくれているんやね。偉いね。」

 部屋の隅っこの三角から、んふふ、と声が漏れてくる。ホットミルクは作れないけれど、今日はよく眠れそうだ。

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