せっけん
朝、歯をみがこうとして、歯みがきを口に入れたしゅんかん。
「うげえええ…。」
に、苦い!
はみがきこをつけていないのに、口があわだらけになった。
「お、お母さん…!」
助けて!
「うーん、八重ちゃんやねえ。手をせっけんであらうように教えたから、ゆう太のはみがきもきれいにしようと思ったんかなあ…。」
昼、食べようとしたおやつが無くなっていて。
「八重、食べてないよ。くまさん、食べたの。」
「お母さん…!」
八重ちゃんが、うそついてる!
「3才ぐらいまでの子って、現実と空想の世界が、ごっちゃになってしまうのよ。うそをついている自覚は無いんよね…。それに、むしろ自覚的に嘘をつくようになったら、それはそれで成長っていうことになるわけで…。」
最近、お母さんはぼくの味方をしてくれない。八重ちゃんの味方ばっかり。
「おにたん。」
きょとんとした目の八重ちゃんが絵本をにぎりしめて、暗い部屋のすみっこでかくれるように三角座りしているぼくをのぞきこんでくる。返事をする元気も無い。
「おにたん、これ読んで。」
「八重ちゃん、ごめん。後でね。」
「何で?」
八重ちゃんの中では今、これ何?と何で?がブームみたいで、ずっとぼくとお母さんに聞いてくる。
「つかれたから…。」
「つかえたの、何で?」
これもなやみの種だ。今日みたいな気分のときには、付き合っていられない。
「ねえ、何でえ!」
「あやー、始まったね、八重様の『何で』攻げき。」
「おかたん。おにたん、つかえたの。何で?」
「『つかえた』?ああ、つかれたね。お兄ちゃん、つかれたって?何でやろうねえ。」
そのご本、読んであげるから、もうおやすみやで、と言いながら、お母さんは八重ちゃんを連れて部屋から出て行った。
「はあ…。」
頭をかかえこんで、ため息をつく。
「あら、起きたね。ベッドまで行ける?」
三角座りに頭をしずめたまま、眠ってしまっていたみたいだ。いつの間にか豆電球がつけられていたうす暗い部屋の中で、お母さんは仕事の本(たぶん。内臓の写真がのっているから)を読んでいる。
「うん…今、何時?」
「11時よー。何か飲んでからにする?」
お母さん。
「ぼくが小さいときも、八重ちゃんみたいやったんかな…。」
お母さん。
「うーん、お母さんがゆう太と初めて会ったのは5才の時やから、今の八重ちゃんぐらい小さいときのことは、わからへんなあ…。でもまあ、少なくとも5才のころのゆう太はかわいかったな。」
お母さんは、ぼくじゃないどこかを見て、首をかしげながらうなずいている。豆電球では、どんな顔をしているかまでは、わからない。…ぼくのことは、わからへん、か…。
「ゆう太は、名前の通り、やさしいね。」
へ?
「子どもって、最初はずっと『お母さんお母さん』って言うていたのが、いつの間にか友だちなんか作っちゃってさ。ちょっとよそ見していたら、あっという間にランドセルしょって、お兄ちゃんぶっちゃって。」
表情の見えないお母さんが、今度はぼくのほうを見ている。
「困らされる時期は一生のうちほんの短い間だけやからさ、『今はそんな時期なのね』って思いながら上の空で相手するぐらいが、お母さんはちょうどええあんばいやし。ゆう太は、ちゃんと向き合ってあげてくれているんやね。えらいね。」
何だかわからないけど、ほめられた。
それよりも、お母さんはやっぱりぼくのことを見てくれていた。




