棄児発見調書
「お母さん、行ってくるね。」
4月に入り小学二年生となった優太が、慣れた様子で靴を履き、家を出る。
「はあい、気ぃ付けて行ってらっしゃいね。」
こちらも慣れたもので、テーブルでねむねむしながら返事をする。行ってきまあす、の軽やかな返事と共に、ぱたん、と音がしてドアが閉まる。
今日は平日だが、仕事はシフトの都合上、お休みである。正々堂々とお休みである。
まずはコーヒーを淹れよう。やかんでお湯を沸かしつつ、コーヒー豆を冷凍庫から取り出し、一掴みをミルに入れてごりごりと砕く。香ばしい良い香りが周囲に拡がる。マグカップの上に、ペーパーフィルターを乗せたドリッパーを置き、そこにミルの中身を入れて整える。
やかんの湯が沸くまでの待ち時間、今日は何しようかな、このところ身長の伸びてきた優太の服でも新しく繕ってやろうか、とぼんやり換気扇を眺めていたら。
階下からどたどたという足音が聞こえたと思えば、がん、とドアを乱暴に開ける音がする。何かね、忘れ物かい。珍しく慌ただしいね。玄関を覗くと、大変困った顔をした我が子が居た。
「お母さん、あの、」
あの、えっと、と首をかしげて、言葉が出ない様子である。焦ってもええことあらへんで。
「まあ、落ち着きなさいな。どうしたん。」
苦笑しつつ、やかんのお湯も沸いたため火を消す。
「あのね、お母さん。」
「うん、なに?」
「赤ちゃんが、落ちとった。」
あとは、やかんから、のの字を書くようにお湯を注ぐだけで、美味しいコーヒーの出来上がりだ。
「はあ?」
剣呑な態度を取った私に驚いたのか、かつてのように凍りつく我が子。しまった、やらかした。
「ごめん、今のお母さん、こわかったな。ごめんごめん。」
抱きしめながら頭を撫でる。こわばった肩が、緩んだ。
「でも、赤ちゃんが落ちとったって、どういうこと?」
腰をかがめ、目を合わせながら尋ねる。フリーズは解除されたものの、混乱した表情は変わらない。
「どういうことって…うーん、そのままなんやけど…。」
まあとにかく、見に来てよ。という息子について、マンションの階段を下りる。オートロックの扉を開くと、その脇に『よろしくお願いします』と書かれた段ボールが置いてある。誰に、何を、どうお願いするのか。まったくもって不親切な書置きやな、と思いつつも中を覗くと、
「ありゃあ…ほんまやね。」
「言うたでしょ?」
へその緒がついたままの赤子が、もそもそ動いている。性別は女の子。Apgarスコアは、皮膚色2点。心拍数は…120bpmくらいか、2点。筋緊張も2点。啼泣と呼吸は…足底をぺしぺしと叩く。
「お母さん、何してるん?」
「ふぎゃあああ」
「あわわわわあ…。」
初めて目の当たりにする赤子の鳴き声に、圧倒される我が子。録画したかったな。
まあいい、啼泣も呼吸も2点。Apgarスコアは10点満点。素晴らしい。
「お母さん、この子、どうするん?」
「どうしようねえ。いや、ほんまにどうしたらええんやろう。」
「こういうときは、ひとまず警察に届け出る形になりますね。」
餅は餅屋、ということで、せっかくの休日にもかかわらず職場に赴き、NICUの入り口で見知った顔を見つけたので、声を掛けた。
「この子はへその緒もついたままやし、状況的には置き去り…法的には棄児という扱いですね。たぶん出生届なんて出してもらってへんやろうから、代わりに棄児発見調書というのを作って、それでこの子だけの戸籍を作る、という手筈になります。数日は医療で面倒を看て、その後は乳児院に行くことになるかな。」
助産師さんと一緒になっててきぱきと赤子の診察をしながら、丁寧に教えてくれたのは、新生児科のエース、森山先生。赤子たちのヒーロー。今の私にとっても、メシアである。
「ありがとうございます、助かりました。どうしてええかわからんもんで…。」
へこへこと頭を下げながら、お礼を言う。
「今日は暖かかったから、段ボールの中でもそんなに体温下がってへんみたいですね。元気元気。
他にも色々と検査とかしておきますし、警察の方の対応は、お願いしても良いですか?」
その後は、警察署へ行って、スマホで撮った写真を見せたり、赤子が放置されていた現場に行ったり、病院で改めて聴取を受けたりした。疲れた…。すべてを終えて家に着いた頃には、やかんのお湯はとうに冷めきっていた。
「お母さん、ただいま。」
慣れない一日にぐったりしていたら、もうご帰宅のお時間でしたか。改めてコーヒー淹れよう。やかんに火をかけながら返事をする。
「おかえり、優太。」
「赤ちゃん、どうなった?」
眉をへの字にしながら、愛息が尋ねてくる。
「今は病院に居てはるよ。これから、乳児院っていうところで里親さん…お父さんお母さんになってくれる人を探すことになるかな。」
我が愛息、しゅんとしている。
「赤ちゃんのお母さん、何で赤ちゃん捨てていかはったんやろうね。」
自分も“親”という存在に不安定さを抱えている優太は、あの赤ちゃんに感情移入してしまっているのだろうか。また、腹側迷走神経が弱ってしまうかもしれない。せめてこの子は守らねば。
沸かしたお湯で、自分のコーヒーと、可愛い我が子のためのホットココアを入れる。ホットココアには冷たい牛乳を入れて、人肌ぐらいの温度にしてから、可愛い顔の前に突き出す。自分はその脇でコーヒーをすする。
「優太は、今、どんなこと考えてる?」
ずずず、とミルクココアをすすっていた息子は、ぽかんとした顔でこちらを見つめる。そして、不思議そうな顔をして、
「うーん…なんかね、わからへん。頭の中、なんも無い感じ。時間が止まって、ぼーっとしてるっていうか。」
思考停止、というやつか。背側迷走神経のスイッチが入っているんだろう。赤子置き去り事件で、少なからずダメージを食らっているようだ。この後は2人でゆっくりする時間を取って、一緒に本でも読もうか。
その日から、私の可愛い6歳児は、朝の登校前になるとトイレにこもるようになり、夜は毎晩うなされるようになった。時には、はっと目を覚まし、
「お母さん、こわい夢、見た。」
と冷や汗びっしょりの状態でしがみついて来る。
「どんな夢、見たん?」
「ん…覚えてへん。けど、こわい夢。」
これは重症だなあ。時間が解決、してくれるだろうか。ちゃんとカウンセリング受けさせるべきか、ううむ…。
「ねえ、お母さん。」
常夜灯だけがぼんやりと灯る中、優太が呟く。
「お母さんは、どうしてぼくのお母さんになったの?」
ふむ。いつかは来ると思っていた質問。上司の圧で断りきれなくて、なんて言えるはずもないので、ちゃんと答えは用意していました。
「最初は、優太が、お母さんと一緒が良いって言ってくれたから。今は、優太と一緒にいると幸せな気持ちになるから。」
どんな思いで、こんなことを聞いてきたんだろう。どうしてこの子に、こんなことを言わせないといけないんだろう。最初はどうあれ、少なくとも今の私は、君を守るために生きているよ。
汗だくの小さな身体を抱き寄せながら、祈るように囁く。
「優太も、お母さんと一緒にいて幸せやったら、嬉しいな。」
「うん。」
必死にしがみついて来る小さな腕を、優しく撫でる。そんなに一生懸命にすがろうとしなくても、私もしっかり君を捕まえておくから、大丈夫。
「ねえ、お母さん。」
「はあい。」
随分と時間が経って、少しずつ落ち着いてきているようだ。汗は引き、冷たくなっていた四肢にも温かさが戻ってきている。
「お母さん、あのね。赤ちゃんも一緒やったら、あかんかな?」
やはり、そう来たか。しかし。
「お母さんは優太のことで一生懸命やから、それに加えて赤ちゃんを育てるのは、難しいかな。」
優太の表情は、暗くて読めない。
「赤ちゃんは、うちやなくても、大事に育ててくれるお父さんお母さんが、きっと見つかるよ。」
返事の無いまま、夜の帳は下りていく。
「おーい、山下。」
午後の患者さんの波が一段落したところで、待機室でまったりしていた部長に呼び止められる。
「例の赤ん坊のことやけどなあ。乳児院に空きが無くて、まだしばらく入院継続になりそうってことらしい。」
「そう、ですか…。」
出退勤や昼食の買い出しついでに、ちょくちょく新生児科の病棟に覗きに行っているが、新生児科や助産師さんたちの献身的な愛のもとで、すくすくと大きくなってきている。こんなに愛くるしいのに、どうしてこの子は置き去りにされたんだろう。可愛い我が子が呟いた答えの無い問いが、ぐるぐると頭の中を埋めつくしていく。
「…お前な。」
「はい?」
一人でぐるぐるしていたところを、部長に引き戻される。
「お前、そんな調子やと、患者殺すぞ。」
「…すみません。」
赤子の件があってから親子ともども疲弊しているのは、どうやらお見通しのようだ。仕事に集中せねば。よし。
そこに、転倒して額がぱっくり割れてしまったおじいちゃんの処置を終えた中岡先生が、待機室に入ってきた。私の方を見るなり、呆れながら肩を叩いて来る。
「山下、とりあえず30分でええから現場から離れろ。そのしみったれたツラ、何とかしてき。」
「…はい、すみません…。」
入れた気合は、フルスイングで空振って、どこか遠くに飛んで行ってしまった。
とぼとぼと救急外来から離れると、足が向かってしまう先は、新生児科病棟。
「ああ、山下先生。また来たんやねえ。ご苦労さん。」
からからと笑いながら、助産師さんが件の赤子を連れてきてくれる。
「毎日毎日、ありがとうございます。この子、先生が来てくれはると、ご機嫌さんなんですよ。」
森山先生が、くすくすと笑いながら横に並んでくれる。
「…お疲れみたいですね。おたくの上の先生たちが、心配してはりました。」
「乳児院、いっぱいなんですってね。」
赤子の頬を指でつつきながら、呟く。
「…そうですね、満員御礼。しゃあないです。そんな時期もある。」
森山先生は、明るく笑みながら言う。
「あの、先生。うちの息子がね…いや、息子って言っても、その子もわけあって引き取った養子なんですけど…。」
「ええ。」
「その子が、『赤ちゃんのお母さん、何で赤ちゃん置いていかはったんやろうね』って、たぶん、自分の境遇もあって感情移入してしもうてるんやと思うんですけど、」
毎晩毎晩、うなされて、朝はトイレにこもってなかなか出てけえへんし…。
「山下先生。」
言葉の止まらなくなった私を、アルカイックスマイルの森山先生が遮る。
「ね、山下先生。先生は、どうしたいですか。」
「え…。」
何を、聞かれているのだろう。
「大方、息子さんに『赤ちゃんを引き取ったら』とか、言われているんちゃいますか。」
「え、あ…そう、なんです!でも、息子は感情移入してもうてるんやと思うんですけど、私にはそんな自信無くて!」
寝不足の頭、こりゃあ、まともに思考が働いていないな。頭の片隅ではそんなことを考えられるのに。勢いは止まらない。
「どうしたらええのか、わからへんのです、頭もぐちゃぐちゃで…今は優太の安心すら守ってやれていないのに、赤ちゃんも面倒看るなんて、自信ありません…。」
「…ね、山下先生。」
ひとしきり喚き散らした私に、森山先生は静かに語りかけてくれる。そのテンポが、知らず知らずのうちに緊張しきっていた私を、少しずつほぐしていく。
「あのね、自信があらへんってことは…いや、うん。質問の仕方を変えましょうか。
もし、自信があれば、どうしたいですか。」
「…え?」
ぽかんとしていたら、私たちの脇にあるクベースの中から、ふにゃあ、という声が聞こえた。
「たぶん、先生の中では、もう答えは決まってもうてるんやと思いますよ。」
ほぎゃあ。いつものペースなら、そろそろミルクの時間だ。そう思った時、助産師さんが赤子を抱き上げようとし、森山先生が、それを止めた。
「ねえ、山下先生。その子、抱っこしたげて下さいな。」
森山先生は、助産師さんから受け取ったミルクを私に差し出す。西日が当たって、森山先生、眩しそうだ。
恐る恐る、首の座らない赤子を抱き上げ、片手でミルクを受け取り、口元へ差し出す。赤子は、両手でそれを抱えながら、勢いよく飲みだす。
何故だかわからないけれど、涙が溢れて、止まらなくなった。この子は生きようと頑張っているのに。こんな、小さな、手のひらで。
「山下先生。自信なんて、どんな親御さんも、はなから持ってる人はいません。10か月、胎児を育ててきはったお母さんやお父さんでも、そうなんです。
突然、目の前に降って湧いたように子供や赤ん坊が現れたら、そんなもん、言わずもがなですよ。」
それでも、自信が無いっていう、ただそれだけの理由で、先生は、その子の手、放せますか?
優しく語りかけてくれる森山先生が、そっと肩を抱いてくれる助産師さんが、必死にミルクを飲み続けている、この子が。みんなが、私の中にすでにあった答えを、知っていたかのようだ。
「あ…名前…。名前ね、八重にしようと思います。」
涙と鼻水が溢れた顔を、にこにこしながら拭いてくれる助産師さん。ありがとうございます。
「ええ名前やねえ。八重ちゃん。」
君は、何重にも愛されて、何重にも守られて、今、ここに居るんだよ。
「森山先生、お母さん泣かせるの上手やねえ。」
「あれはまあ、もう決壊するって、ほぼわかりきってたしなあ。」
「日に日にすごい顔色になってはったもんねえ。今日はトドメやったね。」
「なんていうか、“まじめな新米ママさん”って感じ。」
「確かにー。」
「すっきりした顔で帰ってきたやん、山下。」
「中岡先生。遅くなってすみません。」
「赤ん坊、引き受けたんやろ?」
「あれ、わかりますか。」
「うちに置いてあるベビーグッズ、あげよか。4人分のよだれがしみこんでるけど。」
「あ、すみません。ベッドはもうアマズンでぽちってしまいました。」
「やると決めたら早いなあ。あんたのそういうとこ、好きやで。」




