妄想にお付き合い下さい 2 都市伝説
都市伝説。言わずと知れた、全国、いや、世界中で語られる現代の妖怪譚だ。逢魔が時から深夜、時には昼日中にまで出現する様々な怪異は、恐怖と少々の好奇心に因って、今も新たに生み出されて続けている。
恐怖と言う感情は、生物が生き抜く為の知恵だ。遠い我等の祖先は、暗闇を恐れた。恐らく、現代とは比べ物にならない切実な感覚だった筈だ。夜目の利かない貧弱な身体は、炎という武器を手に入れるまで、身を縮めて闇をやり過ごすより無かった。やがて、闇への恐怖は畏敬の念へと昇華し、様々な物語を生み出した。
だが、現代では、闇は居所を無くしつつある。我々の身体に刻まれた恐怖は行き場を失い、形を変えて発露することになった。肝試しや廃墟探索、文学や映像等のホラー。恐怖は日常を侵食し始める。実しやかに囁かれる都市伝説達もまた、その一翼を担っている。
連日の残業に、男は草臥れきっていた。繁忙期の忙しさに加え、半年前に人事異動でやってきた上司とは反りが合わない。よくある話だ。男は最終電車を待ちながら、ベンチに腰掛け、ぼんやりと時計を眺めた。余りにも疲れているからか、明日は久しぶりの休みだというのに、何かしようという気力がわいてこない。会社への不満すらも浮かばない。
男の虚ろな視線が線路に吸い寄せられる。
(危ないな)
心の奥で警鐘が鳴る。だが、その音は余りにも遠く、何重にも綿で包まれているようだ。立ち上がる気力もないことは、寧ろ男にとって幸いと言えた。
男は無意識に枕木の数を数え始めた。
(一、二、三……)
視線だけを動かし、ゆっくりと数えていると、視界の端に白く蠢く何かに気付く。男の心臓がドクンと跳ねた。横目だった為はっきりとは分らなかったが、それは人の脚のように思え、咄嗟に顔を伏せた。
線路に人が居るなんて見間違いだ、男は自分に言い聞かせる。コンビニの袋とか、不届きな誰かが捨てたビニール傘とか、多分そういうものだ。きちんと確認すれば、何てことない物の筈だ。そう思おうとする程、男の呼吸が乱れる。どれ位の時間が経っただろうか、男は、先程とは違う違和感を抱き始めた。そして、違和感の正体に気付いた時、男の心臓は再び跳ねた。
平日の深夜とは言え、ホームに何の気配も無いのは何故だろう? 駅の職員も、酔っ払いも、自分と同じ様に疲れ切ったサラリーマンも居ないどころか、風の音すら聞こえない。待てども来ない最終電車。まるで、目に見えない膜で、世界から隔絶されたようなホーム。
先程までと比べ物にならない、魂の奥底から染み出す恐怖に、男の口中に酸っぱいものが込みあげる。
ここは本当に俺の知っている駅か?
どうして時計の針は、十二時五分から動かないんだ?
俺は、本当に、生きてるのか……?
男の目線の先では、腰から下だけの脚がレールの上を飛び跳ねている。やはり、見間違いでは無い。男は叫びそうになるのを必死で堪えた。冷汗が額を伝う。
男に気付いていないのか、脚はリズミカルに飛び跳ねるだけで、近付いてくる気配は無い。男は脚に気付かれない様にゆっくりと顔を上げ、脚を観察した。
(幽霊? いや、都市伝説で聞いたことがある……テケテケ、だっけ? 待てよ、あれは上半身だけの怪異だったか? それに、女だって聞いた気もするぞ)
見た処、脚は若い男のものだ。ハーフパンツから伸びた膝下は長く、しっかりと筋肉が付いている。履いているスニーカーも洒落ていて、如何にも今時の若者といった感じだ。
(あれが履いてるの、もしかしてナイキのエアジョーダン1、しかも復刻版じゃないやつ! ハーフパンツもナイキか。ストリートでブイブイ系か?)
脚は、時折とんぼ返りをしたり、ステップを踏んだりと、運動神経の良さを窺わせ乍ら、線路を飛び跳ね続けている。
男から先程までの恐怖は薄れ、代わりにどす黒い感情が頭を擡げ始めた。
(どうせ、公園でスケボーとか乗り回したりして、女の子にキャーキャー言われてたんだろ? パルクールとか言って、通行の邪魔したりとかさ。ああ、はいはい、かっこいいかっこいい)
最早、下半身だけの存在を持て囃す女性が居るかどうかは、男にとって重要ではない。
(お前等みたいなのが屯してると、深夜のコンビニとか寄り辛いんだよ)
仕事あけ、疲れた体を引き摺る様に帰宅する途中、夜食の調達に立ち寄るコンビニ、そんな細やかな楽しみを奪う憎き輩。男の偏見は、恐怖を忘れさせた。
突然、脚の動きが止まった。
(しまった、気付かれたか!)
男は焦ったが、脚の爪先は、男の居るホームでは無く、線路の先を向いている。男が線路の先に目を向けると、ぼんやりとした何かが、脚に近づいて来ているようだった。
男の目がそれの形をはっきりと捉えた。それは、制服と思われるスカートを履いた、腰から下だけのほっそりとした少女のシルエットだった。
(え? 待ち合わせ? まさか……デート?)
人を散々ビビらせておいて、自分達はデートか、リア充で結構な事で、と、男の苛立ちが増す。だが、駆け寄るかと思われた少女の脚は、男の脚の1m程手前で動きを止めた。
(なんだ? 様子がおかしいな)
下半身達の間には、奇妙な空気――緊張感――が流れているように感じられた。
「あの、すいません」
「ひっ!」
突然、足元から聞こえてきた声に、男は引き攣った声を漏らした。恐る恐る視線を落とした男は、再び引き攣った声を漏らすことになった。男の視線の先に、セーラー服を着た上半身だけの少女と、もう一人、Tシャツを着た上半身だけの若い男が這っている。血と泥に塗れ、腹部から臓物を引き摺っている彼等の姿は、明らかにこの世の者では無いと判る。男は、足元から視線を逸らすことも出来ず、震え続けよりなかった。
少女の口元が動いた。
「驚かせてすいません」
少女は、乱れたロングヘアの隙間から充血した眼で男を見上げ、頭を下げた。その弾みで、額をコンクリートの地面に強かに打ち付けてしまい、「ゴン」と鈍い音がホームに響く。
思わず、男は少女に声を掛けた。
「ああああ、あの、凄い音、したけど、だだ、大丈夫ですか?」
「心配してくれて、ありがとう。優しいのね」
少女は頭を上げ、血塗れの顔に微笑みを浮かべた。ちらりとのぞいた前歯にも、血が絡んでいる。
(ひぃ、笑っても怖い……)
それでも、意思疎通が可能と判明したお陰か、男の心臓は落ち着いてきた。すると、それを察した若い男の上半身も男に話し掛けてきた。
「あのさ、突然で悪いんだけど、あんたに頼みがあるんだよね」
青年の顔も、少女と同様血と泥で汚れ、おまけに左目も潰れていて、かなり恐ろしい見た目だ。男が黙り込んでいると、青年は男の顔を覗き込んできた。
「なあ、おっさん、聞いてる?」
「あ、はい、聞いて……ます。あの、頼みって、なんでしょう?」
おっさん呼ばわりされた男は、内心ムッとしながら、丁寧に答えた。
「おっさんに、審判やって欲しいんだよね」
「は?」
男がきょとんとしていると、少女が話の続きを引き取った。
「私、最近この辺に越して来たんだけど、この人と縄張りが被っちゃってるんです。それで、どっちがより優秀なテケテケか勝負するから、おじさんにジャッジして欲しいの。で、敗者は縄張りから出て行く。そういうルールなの」
「一つの縄張りに、二体のテケテケは要らない……おっと、逃げようとしても無駄だぜ。線路にいる下半身達、あれは俺等の相棒なんだ。おっさんが逃げたら、何処までも追いかけてくぜ。まあ、結界を張ってあるから、逃げられないだろうけどな」
少女が頷いた。
「この中では時間の流れが違うから、外の世界ではほんの一瞬のことだし、おじさんに危害を加えたりもしません。勝負が終われば結界を解くって、約束します」
男の脳が、人生最速で情報処理を行う。
(おじさん……女子高生からすると、三十歳って、おじさんなのか……ていうか、こいつらは本当にテケテケなのか。テケテケの数え方って、『人』じゃなくて『体』なんだな。それに、テケテケの優劣って、どうやって決めるんだ? 縄張りとかあるの? それより……)
男は、最も肝心な事を口にした。
「もし、審判をお断りしたら……」
テケテケ達は、ニタッと笑い
「一生、この駅から出られないね……」
シンクロした返答に、男は頷かざるを得なかった。
「……わかりました。で、勝負の方法は?」
「まずは、怪異らしく恐怖対決からだ」
「いやあの、『まずは』って、君達、何本勝負する気なの?」
何方がより男に恐怖を与えるかを競うということらしく、危害を加えないって言ったのに……という男の呟きは無視される。じゃんけんの結果、先攻は青年に決まった。
ホームの照明が薄暗くなる。蛍光灯の一つがちかちかと明滅しだし、生ぬるい空気に、鉄臭さと呻きが混じる。男が呻きの聞える方、ホームの端に顔を向けると、青年が血の跡を残しながら、ずるずると音を立て這い回っている。青年が徐に顔を上げ、彼の潰れていない方の目が、男の目と合う。青年は這い寄るスピードをあげ、男の足元まで辿り着くと、げらげらと嗤いながら、血塗れの手で男の足首を掴んだ……。
男が、重々しく口を開いた。
「七十三点」
「嘘だろ、点数低くね?」
ホームの照明が元に戻る。青年は男の足首から手を離し、不満そうに唇を尖らせ溜息を吐いた。
「いや、悪くは無いよ? 最後の笑い方も、狂気を感じさせて中々怖かった。ただ、全体的に、君自身のオリジナリティが感じられないって言うか……」
「オリジナリティて」
青年が腕組みをする。その弾みで、青年の腹部から更に血が漏れた。
「君、かなりガタイが良いし、オラオラ系っぽいっていうの? そもそも、ピアスやらTシャツやらタトゥーやら、おしゃれ過ぎなんだよ。そのスマートウォッチ必要? 歩数でも計るの? 近距離だとさ、そう言う処に目が行っちゃうんだよ。ホラーの怖さより、カツアゲされそうな怖さっていうかさ。恐怖がぶれるんだよね」
青年が顰め面になる。
「えぇ……テケテケだからって、好きな服着たらいけねーの?」
何だか気の毒に感じた男は、少し考えた。
「いや、ルックスを生かした表現を考えた方が良いと思うんだ。ある程度相手と距離を取って、ガタイを生かした小道具を使ってみるとか。キャラクターとしての背景を感じさせた方がいいんじゃないかな? バスケとかしてそうだから、ボールを周りで跳ねさせるとかさ」
男のアドバイスに、青年は首を振り溜息を吐いた。
「ボール使うと、透明ドリブラーとネタ被りになるから……」
「そうよ、それこそオリジナリティに欠けるじゃない。それに、都市伝説が学校の怪談をパクるなんて、プライドが許さないんだから」
少女が、何て酷いことを言うの、とばかりに男に非難の目を向ける。
「学校の怪談も都市伝説も、似たような……すいません、何でもないです……」
テケテケ達に睨まれ、男はそれ以上言葉を重ねることを止めた。
「まあいいわ。今度は私の番ね」
ブツブツと、スケボーに乗って登場てっのはどうだろう、と呟く青年を無視するように、再びホームの照明が薄暗くなる。
ズル……ズル……ペタ……水っぽいものを引き摺る音が、男の座るベンチの目の前の線路から聞こえて来る。男の視線の先で、芋虫の様なものが、一本、また一本とホームに這い上る。所々赤黒く汚れたそれは、人間の指だった。指は止まること無く蠢き、手の甲、右肘、左肘と、ゆっくりとその全貌を露にしていく。やがて頭部から肩、そして制服姿の千切れた胴がホームに姿を現す。乱れた髪の隙間から覗く、血走った少女の眼と男の眼が合う。少女が肘を使い、男ににじり寄る。その姿が、引き摺った臓物が残す夥しい血の跡ごと、忽然と消えた。驚愕し、きょろきょろと左右を確認する男の動きが止まる。男の肩越しに聞こえる、荒い息遣い。唐突に男の肩が掴まれる。男は掴まれた左肩を横目で確かめると、そこには男の顔を覗き込む血走った眼が……。
「九十五点」
少女はガッツポーズを決めると、そのままベンチから転げ落ちた。
「おっさん、女子高生相手だからって、点数甘くないか? 脅かしのド定番しかやってないじゃん。オリジナリティはどうしたよ?」
青年が文句をつける。
「ド定番ってことは、多数の人が恐怖を感じるってことだろ? 敢えての定番なら、オリジナリティを凌駕することもあるさ。ああいうゆっくり姿を現す演出は、驚かされるって知ってても怖いよ。特に、ロングヘアから覗く恨みがましい眼が秀逸だった。乱れた長い黒髪、それだけで恐怖度が上がるね。難点は、動きがゆっくりだから、時間が掛かり過ぎるってことかな。人によっては失神したり心臓発作を起こしたりで、最後まで見られないかもしれない」
「ジャッジがそう言うんじゃ、しょうがない。取り敢えず、俺の一敗だ。チッ、俺も髪伸ばそうかな……どうしたんだ? いつまで転がってるんだよ?」
青年は苦虫を噛んだような顔で、隣に転がる少女を見た。
「ゼー、ゼー……瞬、間移動、も、ゆっくり、動くのも、疲れ、る、のよ……腕、だけで、ホーム、上るとか、超辛い……瞬間移動なんか……しなきゃ、よか……オエッ」
「もっと体力つけた方がいいよ……」
「しゃあねぇな、一寸休憩すっか」
次の勝負は、少女の回復を待って行われることになった。
呼吸が整うと、少女が青年と男に頭を下げた。
「待たせてごめん。もう大丈夫、勝負を続けましょ。次は、ガチバトルよ」
「よし、受けて立つ」
テケテケ達の遣り取りに、男が慌てて口を挿む。
「一寸待ちなさいって、『よし』じゃないよ、相手は女の子だぞ。君も何言ってんの、さっきあんなに息を乱してたのに、男相手に勝てる訳ないだろう」
少女はニタッと笑った。
「ご心配ありがとう。でも大丈夫。戦うのは私達じゃなく相棒達、下半身よ。私、足技にはちょっと自信があるの。体力だけが戦いの全てじゃないって、見せてあげるわ」
「面白い。なら、手加減は無しだ」
「急に、バトルものの漫画みたいなこと言い出したね……」
線路に佇んでいた下半身達が、軽やかな動作でホームに飛び乗り、それぞれ屈伸やジャンプで、男にやる気とコンディションをアピールする。
合図と共に、バトルが始まった。先に仕掛けたのは少女の下半身だ。青年の下半身との距離を一気に詰め、右脚を高く上げると、青年の腰目掛けて振り下ろす。捲れ上がった少女のスカートから、ショートスパッツが覗く。反射的に舌打ちした男と青年を、少女が睨みつけた。
青年の下半身は落ち着いた様子で、後ろに飛んで少女の踵下ろしを躱し、着地の勢いを殺さず身体を捻り、少女の脚に地面すれすれの足払いを繰り出す。少女は膝を撓め垂直に飛び上がると、真下を通過する青年に向かい、勢いよく膝を伸ばす。横に転がり少女を躱した青年は飛び起き、少女の腰の辺りに左からのミドルキックを放つ。瞬時に開脚して沈み込んだ少女の腰の直ぐ上の空間を、青年の脚が薙ぎ払った。
二体の下半身は一旦距離を取り、互いの隙を伺う。体格と力で有利な青年と、柔軟なバネを生かす少女は、今の処互角と言えた。
「そんな細い脚で、中々やるな」
「貴方こそ、思ったより身軽ね」
上半身達が不敵に笑う。だが、生のストリートファイトなど見る機会の無かった男だけは、テケテケ達の手に汗握る熱い展開について行けない。
「あの、思った以上に本格的なんだけど?」
「ガチバトルって言ったでしょ。安心して、金的蹴りだけは勘弁してあげるわ」
「女子が『金的』とか言うな!」
男と青年が叫ぶ。
今度は青年の下半身が仕掛けた。右脚を軸に、少女の膝の横に鋭い蹴りを放つ。少女は一歩下がり、身体を沈め左脚に力を込めると、右脚を前方に思い切り伸ばした。少女は開脚しながら青年の股下を潜り、青年の背後に回り込む形で蹴りを躱すと、開脚したまま重心を移動させ、青年の右脚に己の左脚を巻き付けた。バランスを崩し、ぐらついた青年が倒れ込む。その機を見逃さず、少女は両足で青年の右脚の関節を固めた。
(決まったか!)
少女の上半身と男が勝ちを確信したその時、
「まだだ」
相棒達の戦いから目を離さず、青年の上半身が呟いた。
青年の下半身が、自由が利く左脚の膝を曲げ、立てた膝を横に寝かせ始めた。ゆっくりと青年の下半身が左に捻られ、じわじわと少女を絡みつかせた右脚が持ち上がる。やがて、青年の右脚は、少女を絡みつかせたまま完全に宙に浮いた。青年は己の右脚を思い切り地面へ振り下ろす。地面に激突すると思われた時、危ういタイミングで少女は青年から離れた。両者は互いに地面を転がる。先に飛び起きたのは青年の下半身だった。
飛び起きたばかりの少女に、青年が足払いを掛けた。辛うじて避けた少女が、バランスを崩す。青年はその隙を見逃さず、少女の左足の甲を己の右足で踏みつけ、身動きが取れなくなった少女の腰に左脚を撓らせる。空気を焦がすような鋭い蹴りに、少女の上半身と男が、思わず顔を伏せた。
何時まで経っても聞こえない衝撃音に、男と少女が恐る恐る頭を上げると、少女の腰のすぐ脇で、青年の膝が動きを止めている。男と少女が、青年に目を向けた。
「ふん」
青年が鼻を鳴らす。男が慌てて「勝者、オラオラ君」と宣言し、下半身達が離れる。オラオラじゃなくてテケテケだよ、と憤慨する青年に、少女が小さな声で尋ねた。
「どうして……?」
「縄張りが欲しいだけで、お前が嫌いな訳じゃないし。体格が不利でも、ガチンコ対決を選ぶ度胸は悪くねーよ」
「…………」
少女は青年を見詰めた。二体の遣り取りを見ている男の視線に気付いた少女が、慌てて青年から目を逸らせた。
「これで一勝一敗だな。次の勝負は……」
「あのさ」
青年の言葉を、男が遮った。
「二体で協力って、したらマズいの?」
テケテケが男に反論した。
「だから、一つの縄張りに二体は要らないんだよ」
「そうよ。そういうルールなんだってば」
男は、君等の業界の基準は分んないけど、と前置きし、腕組みをした。
「もっと柔軟に対処できないもんなのかねえ。世の中には、沢山のカップルがいるじゃない。君達、年も近そうだし、カップルって設定でテケテケやったら駄目なの? ルールは大事だけど、縛られ過ぎてたら何にも出来ないでしょ。うちの会社の上司もそうなんだよ。今日もさぁ……」
延々と続く男の愚痴など耳に入らない様子で、テケテケ達は互いを振り向き、目が合うと、慌ててそっぽを向いた。
「何……何言ってるの? そんなこと、その、無理に決まってるでしょ」
「そうだそうだ。俺達付き合ってる訳じゃないんだからな。仮面夫婦とかそういうのは、何か、多分、良くないぜ」
(いや、どっちも顔真っ赤……真っ赤? 真っ黒?)
動揺するテケテケ達に、男があっさりと言った。
「じゃあ、付き合っちゃえばいいじゃない。まあ、嫌ならしょうがないけど。余計な口出しして悪かったね、次は何の……」
「別に、嫌じゃないっていうか……」
青年がもごもごと呟いた。
「え?」
「別に、嫌なんて言ってないっての」
青年は、男に向かってぶっきらぼうにそう言うと、少女を振り返った。
「俺は、おっさんの案、良いと思う。テケテケ同士、協力するのはアリっていうか。お前、センスと根性あるし、体力無い分は俺がカバーするとか、そういうのも悪くないかなって」
少女は無言で青年を見詰めた。
「さっきも言ったけど、お前が嫌いって訳じゃないし、寧ろ、今回のことで知らなかった一面を見れたって言うか、体張ってて、応援したくなるって言うか。それに、お前、何気にずっと俺の右側にいるだろ? 俺の左目が潰れてるから、気を使ってくれてるんだろうなって思ったんだ。いい子だなってさ。つまり……」
「……つまり?」
青年が勢いよく頭を下げた。ごん、と、地面に額を打ち付けた鈍い音がホームに響く。
「俺と付き合って下さい!」
少女が、おろおろと周囲を見回す。やがて、消え入りそうな声で
「お友達から、なら……よろしくお願いします」
顔を赤黒くした少女の答えに、青年は顔を上げ、照れくさそうに笑った。彼等の下半身達が、互いに右上段蹴りの姿勢で一度脛を合わせ、華麗にステップを踏む。
(えっ、何、急に? カポエラ? あ、ハイタッチ的な?)
充満する青春の甘酸っぱい空気に、男の呟きが混じる。
「あの、俺、もう帰っても良いかな」
「ごめんなさい、すぐに結界解くわ」
少女の言葉通り、男は途端に空気が軽くなるのを感じた。ホームに設置されている時計の針は、十二時六分を指している。
「巻き込んで悪かったな、おっさん。それと、ありがとう」
「いつか、おじさんの耳にも私達の噂が届く様に、頑張るわ。おじさんも、お仕事頑張ってね」
「いや、君等はあんまり頑張らないでいいからね」
男の足元で、二体のテケテケが満面の笑みを浮かべていた。
(やっぱり、笑ってても怖いな……)
テケテケ達の姿がゆっくりと空気に溶けた。
遠くから、電車の近付く音が聞こえて来る。誰も居ないホームに、間延びしたアナウンスが流れた。
(やけに音割れしてるな、壊れてるのか? あ、まさか、あいつ等のせいか? テケテケだろうが、物を壊すのはやり過ぎだろう)
もしもまた会うことがあったら、あいつ等に言って聞かせるか、と男は考え、首を振る。悪いやつらでは無かったが、再び会うのはもう御免だ。男は苦笑いした。
雑音混じりの不快なアナウンスに被るように、電車がホームに滑り込む。
男が乗り込むと、間もなくドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出した。平日の最終電車ということもあってか、男以外に乗客の姿は無い。
男は椅子に腰かけた。天気が良くないのか、窓の外は真っ暗闇だ。車窓に映る男の疲れ切った顔が、奇妙に歪んでいる。だが、男の心は、どこか晴れ晴れとしていた。
(帰ったらビール……いや、まずは風呂だ。シャワーじゃなくて、偶には熱いお湯でも張ろう。それから、冷凍の枝豆でも食いながらビールだ。明日は休みだし、こんなおかしな目に遭ったんだ、偶には自分を労ってもいいだろう)
男は眼を閉じた。うとうとしかけた男の耳に、雑音混じりの車内アナウンスが流れ込む。
「ご乗車ありがとうございまぁす。この電車は最終便んん、あっち行きでぇす。ご乗車の皆様は、ご愁傷さまでえぇええぇぇぇえす。
次の停車駅はぁ、きさらぎ駅~、きさらぎ駅ぃ~」
男は目を開けた。そして、長い一日が、まだ終わらないことを悟った。
闇を畏れる心を、我々の祖先は文明という灯で克服した筈だった。だが、本当にそうだろうか。
越えた筈の闇は文明を嘲笑うように、手を変え品を変え、文化の一部としてじわじわと根を張り、目の前に立ち塞がり続ける。恐怖を忘れるという事は、生きる事の放棄と同義だ。逃れることは難しい。我々は、せいぜい片隅で身を縮め、こっそりと夜をやり過ごすのが精一杯なのだ。気を付けないと呑み込まれてしまう。自分の中に、或いは、名も知らぬ誰かの中から漏れ出す、真黒な生への欲望に。