オアステペック幻想
「 オアステペック幻想 」(時代背景は1978年7月)
いつのまにか、雨はあがっていたらしい。
ベッドから身を起こし、辻は窓の外に目を向けた。
窓の外には綺麗な青空が広がっていた。外の雨上がりの蒸し暑さをぼんやりとした意識の中で思った。
部屋には辻ひとりしか居なかった。皆、プールかカフェテリアにでも行っているのだろうと思った。ベッドから這い出し、靴をはいた。
窓際の机にもたれて、先ほど見た夢を思い出そうとした。懐かしい夢を見たように思った。確かに、あの内藤香代子の夢を見たはずだった。手を差し伸べる彼に背を向け、彼女は闇の中に静かに歩き去っていってしまった。辻は必死に叫んだが、彼女には聞こえなかったらしく、そのまま闇の中に消えていった。俺は何を叫んでいたのか。辻はその叫びを思い出そうとしていた。
この部屋は日本のビジネスホテルより、ずっと簡素にできている。テレビも無ければ、ラジオも無い。殺風景な4人部屋で、まるで監獄のようだ。
自分は確かに昨夜ここに来た。今日は7月5日であり、まだ実感として湧いてこないが、ここは日本では無く、メキシコなのだ。辻は首を回し、肩の凝りを取ろうとした。それから、立ち上がり、ドアを開け人影の無い廊下に出ていった。
「兄さん、10ヶ月間のお別れだね。帰ってくる時は真っ黒になって帰っておいでよ」
「義二郎も、いつまでも五月病などと言って、ボーとしていちゃ駄目だよ。そろそろ期
末試験も始まるんだろう。頑張れよ。それでは、お父さん、お母さん、成田行きのリムジンバスが出ますから、みんなと一緒に行ってきます。来年の4月には元気で帰ってきますから、お元気でいて下さい」
「体には気をつけて、元気で行っておいで。向こうに着いたら、手紙をおくれよ」
「母さんの言う通りだよ。着いたら、葉書でいいから、すぐに便りをよこすんだよ」
父も母も、少し涙ぐんでいるように見えた。
「大丈夫です。アメリカの時のように、すぐ慣れますから。心配しないで」
辻は先ほどまでの雨ですっかり濡れた道を歩きながら、つい二日前に、東京シティエアターミナルの喫茶店で交わした家族との会話を思い出していた。歩道から立ち上る湯気であたりの湿度はほぼ飽和状態に達しており、辻の眼鏡はすぐ曇った。辻はズボンのポケットからハンカチを取り出し、眼鏡を丁寧に拭いた。その時、背後から自分を呼ぶ声がした。
辻は振り向いた。そこに、大学で同級生だった坂田信行の笑っている顔があった。
「辻君、元気かい。しかし、それにしても蒸し暑いな」
「今、少し昼寝をしてきたんだ。昨日はあまり眠れなかったんで」
「僕なんか、時差ボケで昨夜は二時間毎に目を覚ましたよ。今もやっぱり眠いよ」
「君の省からは二名来たんだろう。太田君はどうしている?」
「知らない。プールで泳いでいるかも知れないな。確か、昼食の時、海水パンツがどうのこうのという話をしていたから」
「そうか。この蒸し暑さなら、プールでひと泳ぎも悪くないな。君も泳ぐつもりかい?」
「からかうなよ。僕が泳げないことを知っているくせに」
坂田が笑いながら言った。
「僕も泳ぐのはあまり自信がないんだ。それじゃ、あそこの喫茶店で何か飲もうか」
二人はプールサイドにあるカフェテリアに入った。店はメキシコ人の家族で賑わっていた。二人は片隅のテーブルに席を占めた。ウエイターが注文を取りに来た。坂田が片言のスペイン語でカフェ・コン・レチェ(ミルク・コーヒー)を注文した。
「カフェ・コン・レチェ、ポール・ファボール(ミルク・コーヒーをお願いします)、か。なかなか上手じゃないか」
「よく言うよ。冷や汗もんだよ。とにかく、スペイン語なんて勉強してまだ二ヶ月だものね。辻君は小さい頃、アメリカに居たということで、英語はお手のものだろうけど、スペイン語はどうなの?」
「全然駄目なんだ。僕も君同様、勉強して二ヶ月の口さ」
「そうなんか。実は安心したよ。英語同様、スペイン語もペラペラだったら、語学嫌いの僕なんか嫌になっちゃうよ」
「時に、坂田君、来年帰ったら、現在の省を退職して司法試験に再挑戦するという話は本当なの? 実は、太田君から飛行機の中で聞いたんだけれど」
「そうなるかも知れない。日本から持ってきた荷物の半分は司法試験関係の本なんだ」
「そうか、やっぱり本当だったんだね。僕も司法試験を落ちて、今の省に入ったんだけれど、もう司法試験を受け直す気にはなれないな。別に、仕事が面白いということはないんだけれど」
「君の省も同じかどうかは分からないが、入省して二、三年のキャリアは小間使いと一緒だよ。先輩から、坂田!、このコピーを十部作っておいてくれ、とか、この原稿を清書しておいてくれ、とかいった雑用ばかりさ。女子事務員が少ないから、そうした雑用は全てこちらにまわってくるんだ」
「それは、僕の省も同じだよ。でも、そうした小間使いの時代が過ぎると、ぼちぼち法案の作成とか大臣の国会答弁の下原稿の作成とかいった仕事がまわってくるようになり、それに慣れた頃、地方に飛ばされて中小都市の何とか長になる。それが大体28、29歳といった頃さ。いきなり数百人といった部下を持たせられる。そこで、二、三年の現場経験を積んで本省に帰り、課長代理クラスとなる。部下は数人という環境になり、入省したてのキャリアにコピーをさせることとなる。それが現実なんだ」
二人は顔を見合わせ、苦笑いした。辻も坂田同様、法学部四年の時、司法試験を受けた。
第一次は通ったが、第二次試験で落ちた。辻はその時初めて挫折感を味わった。合格したクラスメートもおり、暫くは学校に行くのも億劫になったほどであった。国家公務員の上級試験には合格したので、卒業して今の省に入った。司法試験に合格したかったことは坂田同様、熱烈なものだった。司法試験に合格していれば、と思って眠れなかった夜も幾晩かあった。しかし、坂田のように省を辞めても、という意欲は今は薄れていた。ある程度は、現在の本省勤務に満足を感じていたのかも知れない。
「団長の石田さんから聞いたんだが、今夜はコナスィット(CONACYT、メキシコ国家科学技術審議会)がメキシコシティからマリアッチの楽団を呼んで、我々のためにフィエスタ(パーティ)を開いてくれるという話だよ。いつから始まるのかは知らないが、マリアッチは楽しみだなぁ」
坂田がふと思い出したように言った。いよいよ、マリアッチが聴けるのか、と辻もメキシコ政府の配慮を嬉しく感じた。
二人は喫茶店を出て別れ、辻は宿舎に戻った。
ドアを開けると、同室の陸奥、豊田、垣田がベッドにあぐらをかいて座り、ビールを飲みながら陽気に談笑していた。
辻を見て、豊田が話しかけてきた。
「辻君、どこに行っていたんだ。今、プールで見たボニータ・セニョリータ(可愛い娘さん)の品定めをしていたんだ。良かったら、ここへ座れよ」
「陸奥さんたちはやはりプールだったんですか。僕を起こしてくれれば良かったのに。僕だって、そのボニータ・セニョリータを見たかったなぁ」
「時に、辻君、今夜はフィエスタが開催されるという話だよ。コナスィットがシティからマリアッチ楽団を呼んでいるらしいんだ。楽しい夜になるよ」
垣田がテカテという缶ビールを辻に差し出しながら言った。
「ええ、さっき坂田から聞きました。楽しみですね」
「僕はマリアッチはまだ聞いたことがないんだ。ベサメ・ムーチョとか、マラゲーニャというのとはまた違うんだろう?」
「違いますよ、陸奥さん。マリアッチで代表的な曲は、ほら、スィエリート・リンド(綺麗な空)とかいったような曲ですよ。アイ・ヤー、ヤーヤー・・・」
豊田がなかなかの美声で唄いだした。
陸奥が大きく頷きながら言った。
「ああ、その歌か。聞いたことがあるよ。分かったよ、ああした陽気な歌をいっているんだな。しかし、豊田君は顔に似合わず、美声だなぁ。ソンプレロを被って、口ヒゲを生やしたら、メヒカーノ(メキシコ人)で通用するぜ」
陸奥の冷やかしにみんな笑った。
陸奥のベッドには、ここオアステペックのスーペル・メルカード(スーパー・マーケット)で買ったテカテという名前の缶ビール、ケソ(チーズ)、クラッカー、ナランハ(オレンジ)の他、誰かが日本から持ってきたサキイカ、煎餅といったつまみが置かれ、みんなが車座に座り、他愛の無い話に興じた。
ビールを飲みながら、辻はこれから始まる、この仲間との新しい暮らしを思った。きっと、楽しいものになるはずだ、と思った。
今のメンバーと隣の部屋に居る辻内の5人がメリダという街に配属される社会人研修生であった。
陸奥優次郎が28歳で一番の年長者。彼は大手都市銀行に勤務する銀行マンである。垣田雄二は27歳のコンピュータ関連会社の技術者であり、豊田栄一は26歳で重電メーカーの技術者である。隣室の辻内正晴は27歳の洋酒メーカーの社員である。
辻は25歳で5人の中では一番の年少であった。この社会人研修生に学生が10人加わり、総勢15人が日墨交換留学生(日墨研修生・学生等交流計画に基づく)のメリダ配属のグループであった。
「昨夜はここに着いたのが夜中の一時半、寝たのが二時半頃だったよねぇ。さすがに今日は眠いよ。辻君は安らかに昼寝をしたから、大丈夫だろうけど」
陸奥があくびを噛みころしながら言った。
「ちょっと、まわりをぶらついてくるよ。まだ、夜までは時間があるし、夕食に備え、お腹を空かしておこう」
陸奥と垣田が連れ立って部屋を出て行った。
豊田が辻に話しかけてきた。
「ねえ、辻君。君の他に、省庁から派遣されてきたキャリアは何人いるんだい?」
「六人です。郵政省、文部省、通産省、科学技術庁からの派遣です」
「みんな、東大の法学部なんだろう」
「いえ、科学技術庁は工学部だったと思いますよ」
「それでも、皆東大なんだろう。とにかく、役人の世界では東大以外は人にあらず、といった感じを僕らは持つね。辻君、ところで、弟さんも東大とか、聞いたよ」
「今年、理科一類に入学しました」
「東京シティエアターミナルで見かけたんだけれど、やはり君同様、秀才の風貌をしていたよ。秀才一家なんだろうなぁ」
「そんなことはないですよ。ただ、父も東大でしたし、小さい頃からなんとなく東大に入るんだという雰囲気があったことは事実です」
豊田と話しながら、辻はぼんやりと父のことを思っていた。
父は会社から派遣されて宇宙工学センターの研究員をしていた。米国に七年間ほど居た。辻も五歳から十一歳になるまで父と一緒にアメリカで暮らした。米国に居た頃の父は毎日生き生きとしていた。しかし、会社から帰国辞令が出て、日本に帰らざるを得なくなった。帰国の準備で、書類とか荷物の整理をしていた父はなんとなく生彩を欠いていたように辻には思われた。
父はずっと残りたかったに違いない。机の前に座り、研究レポートを黙々と整理している父の後姿がとても寂しかったのが少年の真一郎の心にも印象深く刻み込まれている。名本に帰ってからの父には米国で研究生活を送っていた頃の精彩は失われていた。それまではおそらく宇宙工学の研究者として順風満帆の経歴を誇っていたであろう父の初めての挫折では無かったのか? 鬱々として過ごす父の姿は家庭を暗いものにしかねなかった。父は真一郎と義二郎の二人の子供に期待したが、自分は法学部に入り、工学関係の研究者にしたいという父の期待には沿えなかった。今、父の期待は今年理科一類に入った義二郎に注がれている。父は自分が果たせなかった研究者の道を全うすることを義二郎に求めるに違いない。全うすること? 但し、それを許容する組織があるのだろうか? また、全うすることで果たして人は幸福になりうるのか? 全うすることの危うさを懸念すると共に、将来の父と義二郎の葛藤を案じている自分に気づき、真一郎は少し憂鬱になった。義二郎には彼の人生があり、自分にはほぼ決まりかけている人生があるのだ。今更、坂田のように人生に流動性を求めることは自分には向いていないとも思った。
ふと気がつくと、窓の外は夕焼けに包まれ始めていた。ここ、オアステペックはメキシコの代表的な国民休暇村でメキシコシティからも車で一時間もかからない距離にあった。
大気汚染がひどいシティから逃れ、きれいな空気と自然にふれる最適の保養地であった。
辻たち日墨交換留学生は100人ほどで、企業、官庁、病院から派遣された社会人研修生と大学生の留学生がそれぞれ半数ずつで構成されていた。二日前の日本時間で7月4日の12時に東京シティエアターミナルに集合し、全員で渡航手続きをした。その後、旅行代理店のミヤコ・ツアーズから全員に出発案内がなされた。その後、30分ほど時間があったので、辻は家族とホテルの喫茶店に入り、暫しの別れを惜しんだのであった。午後2時に全員を乗せた何台かのリムジンバスが成田に向かって出発し、一時間ほどで成田に到着した。成田空港のノースウイングで搭乗手続きをした上で、午後5時発の日本航空62便で23番ゲートから発った。飛行機の窓から眺める空は明るいままであった。10時間後、辻たち一行はロス・アンジェルス空港に到着した。日本時間では7月5日の午前3時であり、現地時間では7月4日の午前11時であった。ロスでは、かなり待たされた。辻は空港の中の売店で雑誌を買ったり、ロビーに座り、仲間と談笑したりして時間を潰した。
ロスの空はみごとに晴れわたり、睡眠不足の眼には眩しすぎるほどであった。
午後5時半になって、ようやくメヒカーナ航空の飛行機に乗り込むことができた。
それから、3時間半のメキシコシティへの空の旅が始まった。飛行機の中では、陽気に談笑する者、雑誌を読む者、疲れて眠りこけている者など多種多彩な留学生の姿があった。
メキシコシティには午後9時に着いた。飛行機の窓から眺めるメキシコシティの夜景は圧巻だった。高層ビルの窓の灯り、シティの盆地を形作る丘陵地帯に密集する家々の灯りが織り成す夜景は観る者を感動させた。シティを旋回し、乗客を十分に堪能させることもパイロットの大切な役目であったのだろう。辻もこのシティの夜景を満喫した一人であった。心が少しときめいた。時差がまた有り、ロスの午後9時はシティでは午後10時であった。入国手続きではかなり時間がかかった。連絡の不備もあったようで、手続きが完了し、最初の目的地、オアステペック行きのバスに乗り込んだ時は午前0時を過ぎていた。
暗闇のハイウェイを、辻たちを乗せたオムニバスは疾走した。辻の横には豊田が座っていた。飛行機の中では終始快活そのものであった彼も、さすがに疲れたと見えて、軽い鼾をかいて眠りこけていた。辻は暗闇の中で時々見える民家の灯りを見詰めていた。青白い光を放つ蛍光灯の灯りとは異なる、裸電球の黄色い輝きは素朴で懐かしい暖かな光を放っていた。辻はやや感傷的になっている自分に気づいた。これから始まる、異郷での10ヶ月という時間の重さを測りかねていた。
旅。異郷での暮らしはそのまま旅であろう。その旅の重さはどんなものなのだろう。オアステペックが近づくにつれて、バスの中は徐々に静かになっていった。声高に話す者はいなくなり、眠っている者、ぼそぼそと傍らの仲間に語りかける者、或いは辻のように窓の外の風景をぼんやり眺めている者、皆、旅の重さを感じ始めていたのだろうか。
辻は豊田と連れ立って、部屋を出た。
オアステペックは夕焼けの中にあった。広いプールにはまだかなりの人がおり、水と戯れていた。プールサイドには椰子の木が高く繁り、芝生の縁にはブーゲンビリア、ハイビスカスの紅い花が夕焼けよりも赤く咲き誇っていた。いかにも南国らしい趣きがあり、行き交う男女の群れは生を享楽することこそ、生れ落ちた者に与えられる特権であり使命でもあると宣言し、確信しているかのように、辻には感じられた。人生は楽しむものです、という囁きが聞こえた。
マリアッチの演奏は夜の9時から始まった。辻たちは思い思いに広場の芝生に座り、シティから来たマリアッチ楽団の演奏に耳を傾けた。派手なソンブレロを被り、闘牛士を思わせるようなピチッとした黒の服で身を包んだ彼らの演奏は素晴らしかった。トランペット、ギター、バイオリンが織り成す艶やかな音色は心を浮き立たせる。陽気、賑やかさの中に一抹の哀愁を漂わせたこのマリアッチはメキシコ音楽を代表するものであり、地球の反対側からはるばる来た来訪者を喜ばせるのに十分だった。スィエリート・リンドを始め、10曲ほど演奏し、且つ唄って彼らは去っていった。辻は彼らが去った後も、暫く芝生に寝そべり、快い余韻を味わった。
夜空には星が瞬き、輝いていた。その青白く優しい煌めきを見詰めながら、辻は一年前に去っていった内藤香代子のことを想った。
小学5年の時に日本に帰ってきた。漢字が読めなかった。また、日本語の微妙な言い回しがよく理解できなかった。
彼はクラスメートにからかわれ、笑われた。算数とか理科といった科目では不自由は感じなかったが、国語、社会は全く駄目と言ってよいほど、理解できなかった。
そんな時、彼を庇い、あれこれ面倒をみてくれたのがクラスで学級副委員長を務めていた香代子だった。
中学まで彼女とクラスが一緒だった。高校は別な高校となったが、家が近所にあったため、彼女とは時々会った。
初恋だった。大学に入った頃、彼はひそかに或る決心をした。司法試験に合格したら、彼女に結婚を申し込もうという決心だった。司法試験合格が結婚の資格となる、と彼は決意し、司法試験に向けた勉強を始めた。しかし、司法試験には落ちてしまった。彼は香代子への求婚を断念した。彼女とは会わなくなった。もう会う資格がない、と思ったのである。
その後、彼女は医者と結婚した。辻は彼女から貰った手紙を全て焼いた。彼女との想い出もその時焼いたはずであった。
それから、一年が過ぎ、今はメキシコに居る。
二日前の東京シティエアターミナルの喫茶店で、母親から香代子に子供が生まれたことを知らされた。
辻は夜空の星を見詰めながら、時々胸の奥底からこみあげてくる、やるせなさとどうにもならない嗚咽と闘っていた。周りにはまだ、仲間の留学生の男女が楽しげに談笑している。その笑いさざめきの中に、一人嗚咽をこらえている辻がいた。鮮やかにきらめき輝いている星がうっすらと滲んで見えた。
翌日から、留学生全員を対象としたメキシコ政府主催の集中講義が宿舎から少し離れたところにある会議棟で行われた。
講義は100人の留学生のために大きな会議室で行われた。
講義を担当するのは、メキシコ国立自治大学(UNAM、ウナムと呼ばれている)の教授とか、先の内閣の副大統領、大臣といった斯界の錚々たる権威であった。辻たちは述べ8日間にわたって行われたこれらの講義の中で、マヤ、アステカといった古代文明、スペインからの独立戦争、パンチョ・ビリャ、エミリアーノ・サパータが活躍する革命戦争といったメキシコの歴史、アラモの砦で有名な米墨戦争の結果、テキサスなど領土の半分を奪われながらも米国に頼らざるを得ないメキシコ経済とメキシコが抱える課題といった内容で実に幅広い事前教育を受けた。講義は全てスペイン語で行われ、この言語に堪能な一部学生を除き、辻たちはイヤホンによる同時通訳サービスを聴き入った。辻はノートにメモを取りながら、講義を興味深く熱心に聴いた。まるで、夏季休暇を利用して聴いた予備校の講義の時のように俺は熱心に聴いている、どうも受験勉強をしていた時の習性がまだ抜け切れていない、と辻は苦笑した。
「辻君は講義を実に熱心に聴いているねぇ。さすが、エリート官僚だ。そうでなくちゃ、日本は滅びてしまうよ。辻君みたいな優秀な官僚がいればこそ、無能な政治家でもやっていけるんだよな」
陸奥がコーラを飲みながら話しかけてきた。講義の合間の休憩時間で、辻が会議棟の階段下のベンチに座り、ノートをめくっていた時のことである。
「また、そういうことを言う。陸奥さんの冗談には負けますよ。昨日なんか、天下りする官僚のために日本は滅亡するとおっしゃっていたくせに。僕がメモを取るのは、メモを取っていないと寝てしまうからですよ。睡魔と必死に闘っていることを、勘違いしないで下さい」
陸奥と辻は笑いあった。そこに豊田が来て、二人に声をかけた。
「ああ、丁度良かった、陸奥さん。今、他のグループから聞いたんですが、明日は当方日本側の主催でフィエスタ(パーティ)をいつもの食堂で開催するということだそうです。それで、費用負担ということで、一人50ペソ(当時で600円程度)ずつ集めるという話ですよ。聞いていますか?」
「いや、まだ聞いていないなぁ。その内、団長から話が来ると思うけど。明日かい?」
「と、いう話です。一応、メリダの方は僕が集めてもいいですよ。50ペソくらいならば、学生も払える金額ですね」
「そうかい、じゃあ、豊田君にお願いすることとするか。先ず、僕から払っておこう」
辻も50ペソ紙幣を取り出し、豊田に渡した。豊田はメリダ・グループのメンバーを捜して去っていった。
「今日も暑くなりそうだね。垣田さんの話では夕方頃、またスコールが来るとの話だよ。昨日もすごかったけど、日本の夕立とはスケールが違うね」
「ああ、そうだったんですか。昨日は寝ていて気づきませんでしたが。部屋の窓からセルベッサ(ビール)でも飲みながらスコール見物も悪くないですねぇ」
「聞くところによれば、我々の留学先のメリダは猛烈なスコールが降るので有名なところらしい。メリダは南部のユカタン半島にあるだろう。それで、スコールも熱帯特有の本格的なものらしいんだ。予定では、7月15日にメリダに行くことになるから、スコールの季節の真っ只中ということになる。どんなスコールか、楽しみで身震いがするよ」
陸奥の冗談とも真剣とも取れる表情に辻も思わず吹き出した。ここ、オアステペックも十分暑いところだが、メリダは暑い上に、蒸すということだった。どんな蒸し暑さなのか、日本より蒸し暑いのか、辻も興味を持った。
やがて、講義再開を知らせるチャイムが鳴った。二人は階段を昇って講義室に入っていった。
北東の空から雨雲と思われる黒い雲がこちらに来て空が暗くなったと思ったら、いきなりもの凄い雨が大量に降り注いできた。午後の講義も終了し、昨日入ったカフェテリアに入り、ぬるいカフェ・コン・レチェを飲みながら、陸奥たちと話していた辻は窓の外の音に気づき、窓に目を向けた。雨が猛烈な勢いで激しく窓ガラスを叩いていた。ガラスの外の風景は歪み、様々な文様を描いた。会話が途切れ、四人は窓ガラスを叩く、線となった雨を視た。
「まるで、雨の弾幕だなぁ。視界は完全に遮断されている。話には聞いていたけれど、百聞は一見に如かず、これほどのものとは思わなかった」
垣田が誰に語りかけるともなく呟いた。
「メリダのスコールはもっと凄いらしいですよ。道の水はけが悪く、道は洪水の川となり、車も止まってしまうという話です。そこで、止まらないのが、フォルクスワーゲンのかたつむりと我が日本のダットサンだけだそうです」
豊田もガラスを叩き、流れ落ちる雨を見詰めながら言った。
その内、稲光が遠くの空で閃き、雷鳴も数秒遅れて轟いてきた。
「凄い、稲光だ。あれほどはっきりと見える稲光は日本じゃ、お目にかかれないよ。この国はさすが原色の国と言われるだけのことはある。全てが極端で、輪郭が鮮やかなんだろう」
陸奥も感に堪えない口調で言った。
「原色の国、ですか。陽気さと陰鬱さ、光と影、富裕と貧困、勤勉と怠惰、情熱と諦観、至福と悲惨、愛と憎悪、・・・。全てが極端で明確な輪郭を持つ国。僕たちは、この原色の国に来年の4月まで暫くの間、暮らすことになるわけですね」
辻の言葉は実感として、他の三人の心に響いた。
「来年の春までの10ヶ月か! 僕にとっては、いいリフレッシュの期間になる」
陸奥がぽつりぽつりと話し出した。
「僕は銀行に勤めていて、・・・、今、融資業務を担当しているんだが、実にいろいろなことがあるよ。尊大さと卑屈さが入り混じった人間関係、融資額の大小に伴う種々の裏工作、清潔さと醜悪さ。なかなか疲れる業務なんだ。実はね、この研修後、日本に帰ったら、中南米関係の国際融資業務を担当することとなっているんだ。大使館の偉いところが僕のところに頭を下げてくることも十分ありうることなんだ。ところで、垣田さんは研修後はどういうことになるの?」
垣田はタバコに火をつけながら、陸奥の問いかけに応じた。
「陸奥さんと違って、僕なんか、しがないプログラマーだし、今は花形の職業のように見えるだろうけど、花の命は短くて・・・、といった感じで、プログラマーとしての寿命は極めて短いんだ。後、四、五年といったところなんですよ。その後は、管理職の試験を受けて管理者の一員として、今度はプログラマーを管理する立場に回ることになるわけです。この管理職の試験に失敗すると、合格するまで試験を受け続けることとなり、同期入社との差が開いていくという状況に陥ることになるんです。今はやりがいもあり、好きな仕事なんだけど、あと数年後の自分の置かれる立場を考えると、なんだか憂鬱になってしまうんです」
垣田はげんなりとした表情になっていた。辻は黙って聴いていた。ふと、窓を見ると、スコールは既に過ぎ去ったらしく、雨は小降りになっていた。少し、雲の切れ間から陽も差し始めていた。雨上がりの空は夕焼け空に変わりつつあった。四人の会話は再び途切れ、皆窓の外に広がっていく夕方の情景に心奪われたかのように、夕焼け空を見詰めていた。
四人はカフェテリアを出て、プールサイドの濡れた歩道に佇んだ。先ほどのスコールが嘘だったように静かな夕焼け空が前方に広がっていた。薄暮の空に鳥が数羽飛び交っていた。静かな夕暮れだった。
翌日の留学生主催のフィエスタは午後6時から大食堂で開かれた。
食堂のテーブルには、ビール、ウイスキー、ワイン、テキーラなどのアルコール類とコカ・コーラ、ジンジャエール、各種のジュースといったソフトドリンク類が並べられた。
そして、別なテーブルにはチーズ、ハム、野菜サラダ、ウインナー、サラミといったものがクラッカーの類いと一緒に並べられ、各自が自分の皿に適当に盛り付けて食べられるようになっていた。
簡単な主催者挨拶の後、各グループに分かれて自己紹介から始まったが、すぐにメンバーは分散し、グループ入り乱れての交歓会となった。
メキシコシティ、グアダラハラ、グアナフアト、プエブラ、メリダ、ベラクルスといったグループがあり、一週間後には皆それぞれの都市に分散することとなっていた。このオアステペックの10日間だけが全員が一緒に居られる期間だった。
辻も官庁から派遣されてきた研修生と語り合った。坂田はプエブラ組だった。酔いのまわった坂田は上気した顔で辻をつかまえ、司法試験の勉強を徹底的にやるぞ、と繰り返し語った。
フィエスタも終わりに近づき、辻はメリダグループのテーブルに戻った。辻がテキーラをプラスチックのコップに注ぎ、レモンジュースを加え、コップの縁に塩をまぶし、マルガリータ風のカクテルをこしらえていると、傍らから女性の声がした。
「辻さん! メリダではお世話になります。宜しくお願いします」
見ると、そこに山田ひとみが笑って立っていた。彼女もメリダグループの一員で、大学ではスペイン語を専攻する三年生だった。スペイン語をまる二年間専攻しているだけあって、辻たち社会人研修生はおよびもつかないほど、流暢なスペイン語を話した。
「確か、山田さんでしたよね。いや、こちらこそお世話になることと思います。なにしろ、スペイン語はからきし駄目ですから。メニューも読めず、レストランで立ち往生するくちですよ」
「辻さんはお父様のお仕事の関係でアメリカには長くいらっしゃって英語には堪能と伺っていますが、スペイン語の方はアメリカでは勉強されなかったのですか?」
「ええ、スペイン語といった外国語系は向こうでも地域にもよりますが、大体中学あたりからの選択科目で、僕は小学5年の時に帰ってきたものですから、陸奥さんたちと同じレベルなんです。大学ではドイツ語を第二外国語として取りましたので。その点、柾木さん、田中さんを始めとして学生の皆さんはスペイン語専攻の方が多く、僕たち社会人研修生はみんな心強く思っています」
「スペイン語を専攻しているということは、その通りですけれど、会話はともかく、今日みたいな講義となると、大体のところしか理解できません」
「大体理解できれば、いいですよ。僕なんか、イアホンを外せませんから。それに、講義は考古学、人類学、歴史、経済、文学といった、日本語で聞いてもなかなか理解しにくい用語が頻繁に出てきますから、パーフェクトな理解というのはむつかしいと思います」
「それはそうかも知れませんねぇ。でも、ヒアリングって、本当にむつかしい!」
山田ひとみは小首をかしげて、小さく溜息をついた。そこに、陸奥がコップを片手に現れた。彼にしてはかなり酩酊しているように思われた。
「辻君、山田さん、ご機嫌いかが! 辻君、山田さんを独り占めにしたらあかんぞ。山田さんはメリダで僕の通訳になる人なんだから。ねぇ、山田さん!」
山田ひとみは陸奥の言葉にクスッと笑った。
「陸奥さんは今夜は私に通訳になれ、なれとうるさいんですよ。陸奥さん! 大丈夫です。スペイン語は発音は簡単ですから。特に、この中南米のスペイン語は本場のスペイン語と比べ、発音としては簡単なんです」
「しかし、文法はやたら面倒だよなぁ。辻君、いいんだ!、我々はノソボソ・コンビでやっていくんだから」
「あらっ、そのノソボソ・コンビというのは何ですの?」
ひとみが好奇心を持って訊ねてきた。陸奥に代わって、辻が笑いながら答えた。
「我々社会人研修生の間の共通語です。つまり、ノソトロス(私たち)、ボソトロス(君たち)のノソとボソを取って、ノソボソ。そして、我々はあまりスペイン語を流暢には話せない、ボソボソと話すにひっかけて、ノソボソというわけです。コンビというよりは、5人組ですから、クインテットと言った方がいいかも知れません。つまり、ノソボソ・クインテットです」
ひとみは思わず声を上げて笑った。笑うとえくぼができ、ひとみの理知的な表情は崩れ、可愛い顔になった。
その笑い声を聞きつけて、早川緑も近づいてきた。
「山田先輩、どうかしたんですか? 大きな笑い声を出して」
早川緑は山田ひとみと同じ大学の一年後輩だった。
「早川さん、君の先輩はひどいよ! 僕の頼みを蹴って、辻君の通訳を承諾してしまったんだから。こうなったら、早川さん!、君が僕の通訳になってくれよ」
「まあ、陸奥さんったら、嘘ばっかりおっしゃって。緑! 陸奥さんの言葉、信じちゃ駄目よ! 辻さんの通訳がどうのこうのという話は全然ないんだから」
陸奥とひとみの掛け合いに辻も緑も笑った。やがて、メリダグループは全員戻ってきた。
全員が揃ったところで、皆に促され、陸奥がにこにこしながら乾杯の音頭を取った。
「一週間後、僕たちは全員揃ってメリダに出発します。それまでの一週間は僕たちに与えられた、これまでの仲間との親睦を図る自由な時間となります。暫しの別れを十分に惜しんで下さい。それでは、一週間後にまた会いましょう。メリダグループの健闘と全員の健康を祈念して、サルー(健康を)!」
フィエスタは終わり、三々五々それぞれの部屋に戻っていった。辻は暫くプールサイドのベンチに腰を下ろし、酔いに火照った頬を涼しい風にあてた。辻の前を同じメリダグループの田中浩一がシティグループの安田順子と一緒に通って行った。軽く挨拶を交わし、通り過ぎていったカップルの後姿を見送りながら、辻の脳裏に内藤香代子との追憶が甦ってきた。内藤香代子の父は辻の住んでいた街の郵便局長を長年している。辻は一時期、郵政省に入ろうと思ったことがある。香代子と結婚し、どこかの街に郵便局長として赴任する。香代子の父も大いに祝福してくれるに違いない。そんな淡いロマンティックなことも夢見た頃もあった。しかし、辻は司法試験の合格の方に、香代子との結婚を賭けてしまった。
香代子が辻との断絶を悲しがっていたことを後で共通の友人から聞いた。どうして、俺は司法試験の合格に香代子との結婚を賭けてしまったのだろうか。勿論、自信はあったし、それなりの勉強を大学入学以来、計画的にしてきたつもりだった。今から考えると理解に苦しむ「賭け」であり「決心」であった。香代子の夫たるにふさわしい箔をつける為だったのか、それとも、ともすれば単調で安易に流れがちな受験勉強に対する動機付けにしたというわけなのか。司法試験さえ合格していれば! これまで何十回も繰り返した煩悶がまた辻の心を襲った。合格していなくとも、香代子は俺との結婚を拒まなかったはずなのに。愚かな賭けを俺はしてしまった。取り返しのつかない馬鹿な賭けをしてしまったのだ。香代子を完全に失った今、俺の心は再び満たされることはないのか。どす黒い憂鬱がまた辻を襲ってきた。ゆらゆらときらめき漂う水面を見詰め、辻の心は深く重く沈んでいった。
翌日は土曜日であったが、講義は行われた。陸奥を始めとして、辻も午前中は二日酔いで頭が痛んだ。前日の飲みすぎを少し後悔した。
夕方になると、スコールがまた来た。辻は陸奥、垣田と部屋で寝そべりながら、雨を眺めた。豊田がずぶ濡れになりながら、ビールを買ってきた。また、飲むのか、しょうがないなぁ、と言いながら陸奥が一番先に手を伸ばした。
7月9日、日曜日。コナスィットの手配でシティにバスで行き、チャプルテペック公園の中にある国立人類学博物館の見学を行なった。博物館の中は広く、アステカ文明、マヤ文明などの古代文明が幾つかの展示室に分かれ、辻たちは隈なく見て廻った。特にメリダはマヤの都市国家の一つとして知られるところで、周辺にはマヤの遺跡が数限りなくあるとのことだった。中央集権国家であったアステカ帝国と比べ、マヤは都市国家的色彩の強い国家だった。辻はアステカにローマ的色彩を感じ、マヤにギリシャ的色彩を感じた。
ところどころで、仲間と写真を撮った。博物館入口のところにある、水のシャワーが流れ落ちている大きなモニュメントの前ではシティグループの看護婦グループとも写真を撮り合った。
「今週の土曜日には、テオティワカン遺跡を見学した後で、夜の便でメリダに発たれるのね。私たちはシティの病院で研修していますから、いつかシティに遊びに来られたら連絡して下さい。腕によりをかけて、日本食をご馳走しますから」
この見学で親しくなった斉藤和子が記念写真の後で、メリダグループに話しかけてきた。
「そうですね。シティには日本食の食材を売る専門店も幾つかあると聞いていますから、その時は宜しくお願いします。看護婦さんたちもメリダに遊びに来る時は、僕たちに連絡して下さい。メリダの隅から隅までご案内しますよ。特に、バル(酒場)とかナイトクラブ、喜んでお付き合いしますよ」
陸奥が真面目な顔で答えた。看護婦たちも大笑いして、その際は宜しく、と言って陸奥たちと握手をした。
4時間ほどの見学を終え、バスでオアステペックに戻った。
辻たちはその夜も部屋で酒を酌み交わした。隣の部屋から辻内正晴もやって来た。
途中で、学生の柾木義彦と田中浩一が連れ立って訪れてきた。早速、コップが渡され、ワインが注がれた。
「時に、田中君、昨夜レストラン・ヤウテペックで一緒にいた彼女は何ていう人だったかなぁ。ちょっと名前を忘れてしまった」
陸奥が少しずつワインを飲み始めた田中に訊ねた。
「陸奥さんに見られましたか。彼女、安田順子と言います。僕たちの大学の同級生です」
「すると、4年生か。なかなか綺麗なひとだね」
「陸奥さんの言葉、彼女に伝えておきます。綺麗なひと、と誉めていたよと。彼女、喜びますよ」
「彼女は確か、シティグループでUNAM組だよね。田中君とは暫しのお別れだね。淋しくなるよ」
陸奥が心配そうに言った。田中も少し眉を曇らせた。
「そうですね。我々学生は陸奥さんら企業研修生と違って、メキシコ政府からの奨学金で何とか暮らしていくしかないですから。そう頻繁にはシティには行けません。数ヶ月は彼女と会えないことになります」
辻も田中に同情した。同じシティグループだったら良かったのに、と思った。そして、別れ離れに暮らす恋人たちの愛の行方を懸念した。彼は柾木や田中と齢が近いということもあり、大学を一年間休学してここに来ている学生に好感を抱いていた。無理に恋人から遠ざかった自分の愚を繰り返させたくなかった。恋人たちは常に近くにいた方が良い。距離は障害となる。ワインが少しほろ苦かった。
7月10日、月曜日。日本を出てから一週間が過ぎ去った。オアステペックは高原の保養地であったが、日中は暑かった。講義は相変わらずスペイン語でなされ、日本語の同時通訳がイヤホンを通じて流された。辻も多くの社会人研修生と同様に、イヤホンを通じて講義を聴いた。講義が英語でなされていれば、辻のヒアリングは完璧であったろうが、あいにくスペイン語での講義であった為、イヤホンによる日本語サービスに頼らざるを得なかった。柾木とか田中、そして山田ひとみはほとんどイヤホンをせずに講義を聴いていた。
歴史の講義の教科書は幸い日本で買い求めておいたメキシコ大学院大学編の「メキシコの歴史」という本であった。この本は日本語訳で読んでもかなりの名著であった。「アメリカは、何度も発見された」という書き出しも好きだった。彼はこの本を数回メモを取りながら読んだ。そして、内容はほとんど頭の中に入れた。メモを取りながら、ふと辻は苦笑した。大学時代の司法試験の勉強と似ていたからである。どうも、昔の癖が抜けきれないらしい。辻は部屋の机の前に座り、陸奥たちに気づかれないように苦笑した。
司法試験の不合格は彼がこれまでの人生の中で経験した唯一の挫折であった。
しかも、その挫折感の中で、彼はとても大切なものも失ってしまった。
内藤香代子である。
砂を噛むような思いで、彼は香代子のことを想った。陸奥たちの明るい談笑と窓から差し込む明るい日差しの中で、辻だけがそれらとは無関係な無明の中に居た。
夜、辻は陸奥に誘われて、会議棟に近いレストラン・メセタで夕食を摂った。月がとても明るい晩で、陸奥と語りながら、メセタに入って行った。大食堂で摂る夕食は昼と違って簡素であり、夕食を正餐とする日本人には物足らないものであった。レストランには留学生仲間もかなり居た。
「どうも、昼飯を正餐とするメキシコの食事方式には馴染めないなぁ。考えてみれば、昼飯を重視して、晩飯は簡単に済ますといった食事方式の方が合理的なんだが、まだ僕には馴染めないんだよ」
ウエイターにほぼフルコースの注文をした後で、陸奥が照れくさそうに言った。
「そうですね。僕もまだこのメキシコの習慣には馴染めませんね。あの簡単な夕食では、夜お腹が空きそうで。お腹が空いて、眠れなくなるのもどうかと思うし」
辻の率直な言葉に陸奥は微笑んだ。
やがて、よく冷えたビールがテーブルの上に置かれた。陸奥はボエミア、辻はコロナという銘柄のビールを飲んだ。
「時に、辻君。君、何か悩んでいることがあるのかい? 差し支えなかったら、話してくれないか。相談に乗れることがあったら、僕のできる範囲で相談に乗るよ」
「悩んでいるように見えますか?」
「うーん、僕には悩んでいるように見えるんだ。うまく言えないんだが、何か今ひとつ、みんなの雰囲気に君が溶け込んでいないような・・・。別に無ければ、僕の取り越し苦労ということで、まあ、問題はないんだが」
海老と牡蠣のカクテルが運ばれてきた。トマト・ケチャップソースと香菜で味付けされたこのカクテルはアペタイザーとしては最高であった。陸奥と辻は暫くの間、黙って食べた。
やがて、辻が目を上げ、陸奥に話しかけた。
「陸奥さん、ご心配かけてすみません。でも、とりたてて悩みというほどのものではないんです。日本からこちらに来てまだ一週間ですし、環境の変化に皆のように上手に順応できていないだけなんです。メリダに行く時までには、環境に馴染み、もっとスムースにやっていけると思います。陸奥さんも気にかけないで下さい」
「うん、それならいいんだけど」
陸奥もそれ以上は訊ねてこなかった。カクテルの後は、レタスのサラダと、少し時間をおいてヒレ肉のステーキが運ばれてきた。レタスは少しパサパサとした感じで不味かったが、ヒレ肉のステーキは肉質も良く、柔らかくて美味しかった。
「このフィレ・ミニョンは美味しいね。昼飯のあのフリホールという豆には閉口したよ。チレをかけて食べたけど」
「味がないというのは困りますね。でも、チレをかけて食べるとなかなかですよ。・・・、ところで、陸奥さん。陸奥さんは日本にノビア(恋人)はいらっしゃるんですか?」
「うーん、率直に言うと、今はいないよ。アミーガ(ガールフレンド)なら居るけど、ノビアということになると、話は別だからね。僕の職場は銀行ということで、いっぱい女の子は居るんだ。今の僕が勤務しているところでも、50人ほどは居るよ。平均以上のレベルの女子行員だと思うけど、結婚を意識するような関係の女性はまだいないなぁ」
陸奥は少し照れて、タバコを取り出し、火をつけた。それから、辻を見て、微笑みながら言った。
「辻君の方はどうなんだい。確か、25歳になったということだし、素晴らしい経歴を持っているのだから、引く手あまたといった感じだろう」
「いえ、今のところ、全然あてなしといったところです」
「ふーん、そんなものかなぁ。それなら、このメキシコでお嫁さんを見つけてもいいわけだね。留学生の中からでも良いし、メキシコのセニョリータでも構わないしね」
「それは、陸奥さんも一緒です。山田さん、早川さん、奥村さん、越出さん、4人共皆それぞれ魅力があります」
「ふふ、なかなか辻君も言うじゃあないか。それじゃ、現地調達といくか!」
二人はお互いの顔を見合わせ、笑った。
デザートの注文を訊きにウエイターがやってきた。
陸奥はエラード(アイスクリーム)、辻はパステル(ケーキ)をそれぞれ注文した。
「陸奥さん、こんな食事を毎晩続けていたら、太ってしまいますねぇ」
「そうなんだ。この一週間足らずで2キロも太ってしまったよ。注意しないと、・・・。おや、あっちのテーブルに田中君と噂の安田さんのカップルが居るよ」
陸奥が眼で知らせた。さりげなく、視線を向けた。窓際のテーブルに田中浩一と安田順子が向き合って座り、語り合っていた。辻は視線を戻し、淋しげな微笑を浮かべた。彼は何年か前の自分と香代子の姿を彼らの親しげな様子に映し、過去の情景を思い出していた。
「真一郎さん、来年は大変ね。だって、司法試験があるんでしょう。倍率も凄いし、真一郎さんみたいな方が何千人も受験するんでしょう。一度で合格するなんてほとんど奇跡に近いんでしょう」
「うん、でも、一度でも合格する人は合格するんだ。僕も一度で合格したい方だし、そのために、入学した時から勉強もしているんだから」
「でも、無理はしないでね。健康第一、よ。不合格でも、別に私は気にしないわ」
「君の方も、来年は卒論で大変なんだろう」
「うーん、でも文学部だから、卒論は何とかなるわ。今、何を卒論のテーマに選ぶか、迷っているの。現代文学の誰を選んだら、と。安部公房はありふれているし、高橋和巳は面白いけれど、少し重たく疲れる感じだし」
「終りし道の標べに、か。確か、安部公房の処女作は。‘終った所から始めた旅に、終りはない’、という言葉が印象的だった。末尾は確か、・・・。‘さあ、地獄へ!’、だったか」
湘南の海が見える海岸通りの洒落た喫茶店には辻たちしか客は居なかった。冬の海は鉛色に鈍く輝き、人を寄せつけない厳しさを漂わせていた。時々、窓ガラスを震わせながら、木枯らしが通り過ぎていった。香代子の白いうなじに懸かっている黒髪が隙間風に微かに揺れていた。辻はその情景を懐かしく思い出していた。
陸奥と辻はレストランを出て、プールサイドの歩道を歩いた。涼しい風が吹いていたが、プールにはまだ何人かの人影がゆらゆらと揺らめいていた。
「あと5日ほどしたら、メリダだよ。どんな街なんだろう。蒸し暑いところとは聞いているけど、なんか楽しみだなぁ。大袈裟な言い方だけど、新しい自分の人生が始まるような気がするよ」
「新しい自分の人生、ですか。始まれば、・・・、いいですね」
辻が自分自身に言い聞かせるように呟いた。陸奥がちらりと辻の顔を見た。プールサイドの淡い照明に照らされた辻の顔はなんだか淋しげに見えた。
二日後、午後の講義が終了した後、メリダグループはそのまま講義室に残り、メリダのユカタン州立大学のアレホ教授を囲んで懇談会を持った。アレホ教授は人類学科の主任教授で40歳位の中肉中背のがっしりとした体格をしていた。頭髪は多少薄くなっていたが、苦みばしった精力的な容貌をしていた。彼は三日後に迫ったメリダ行きの引率として今日陸奥たちの前に現れたのであった。閑散とした講義室にアレホ教授を囲んで、陸奥、垣田、辻内、豊田、辻の5人の社会人研修生、柾木、田中、須藤、奈良、辻、斉藤の6人の男子学生、越出、山田、早川、奥村の4人の女子学生の計15人のメリダ・グループが座り、いろいろとメリダの街のこと、ユカタン大学に関すること、授業のことなどを質問した。
アレホ教授によると、メリダは今一年で一番最悪の季節を迎えているとのことであった。
スコールと暑さであった。スコールはほぼ毎日夕方になると降り、ひどい時は道路が冠水し、水がはけるまでエンジンに水が入った車が道路を埋め尽くすということだった。また、暑さもこのところ最高温度で毎日40度を越す暑さが続いているという話であった。
彼の話は柾木が通訳して皆に伝えていたのであるが、通訳している柾木もうんざりした表情で最後に付け加えた。
「スコールと暑さ、これが10月まで続くとのことです。毎日、すごい蒸し暑さが続くということで、いくら蒸し暑さには慣れているという我々でも嫌になってしまいますね」
但し、この蒸し暑さは10初旬までで、それ以降は3月末までメリダとしては秋か春かは知らないが、涼しい季節を迎えるということであった。涼しい季節といっても、セーターは不要で長袖のシャツで十分だという話であった。実感としては、メリダの一年は日本で言うと、5月から9月までの5ヶ月間に圧縮されるということなのだろう。辻も話を聴いて少しメリダの季節にはげんなりとした。しかし、アレホ教授が目を輝かせて語った、マヤの遺跡の素晴らしさ、メリダの街並みの美しさ、カリブ海の比類ない美しさには心がときめいた。マヤの遺跡には車で一、二時間程度で行けるし、カリブ海にも四、五時間程度で行けるというのだ。辻は米国に居た頃、メキシコ湾を臨む街で海を見て、綺麗な海だなと思ったことがあるが、カリブ海はアレホ教授によれば、メキシコ湾の海より100倍綺麗だと言うのだ。辻はどんな海なんだろうと思った。昼間はエメラルド・グリーンで、夕方になるとメキシカン・オパールを散り嵌めた海に変身するという。アレホ教授はごつい両手を広げて、ここに居るセニョリータの瞳のように美しい海だと言った。山田ひとみたちはクスクスと笑い、柾木義彦は少し照れながら通訳した。
夕食はアレホ教授を招待して、レストラン・ヤウテペックで摂った。アレホ教授と学生たちの分は陸奥たち社会人研修生が負担した。それがメリダグループとして初めて開いたフィエスタとなった。
翌日は講義が早く終わり、辻は陸奥たちと周りを散歩した。ここにはバスケットボールとかサッカーの競技場もあり、近郊の町からも試合に来ていた。競技場のベンチにも座り、サッカーを観戦したりして、のんびりとした時を過ごした。やがて、観戦にも飽きて、宿舎に繋がる山道を歩き始めた。前を一人の少女が歩いていた。長い髪の少女で、茶のコールテンのズボンと赤と黄の花柄模様を襟元に散らした白のブラウスを着ていた。オアステペックのこの保養所に家族と遊びに来ている女の子と思われた。豊田が声をかけ、少女が振り向いた。声をかけたのが東洋人と知り、彼女も好奇心を持ったようであった。可愛らしい眼鏡をかけていた。その女の子は早口で何か話した。陸奥たちは意味を解さず、返答に窮した。豊田に代わって、辻が英語で話しかけた。幸いなことに、彼女は英語が話せた。
「僕たちは日本人で、日墨交換留学生として一週間ほど前にこのメキシコに来て、今はここで合同研修を受けている。まだ、スペイン語は話せないので、英語で会話しよう」
「ええ、いいわ。いつまでここにいるの?」
「明後日までだよ。明後日、メキシコシティに行き、それからメリダに行くことになっているんだ」
「まあ、メリダに! 今はとても暑い季節なのに」
陸奥が訊ねた。
「どこに住んでいるの?」
「シティよ。でも、生まれはグアダラハラなの」
「グアダラハラは美人の産地と聞いているけど、君を見て、なるほどと思ったよ」
陸奥の言葉を聞いて、その少女は恥じらいながらも、嬉しそうに笑った。
「僕は優次郎。雄二、正晴、栄一、真一郎。真一郎が一番英語が得意。なぜならば、彼は少年の頃、米国に長く住んでいたから」
陸奥の英語は流暢とまではいかなかったが、彼女は良く理解した。
「私はマルシアよ。今、両親とバケーションに来ているの。貴方たちのお仲間をここでたくさん見かけるわ。全員で何名ほど来ていらっしゃるの?」
辻が答えた。
「100名ほどだよ。僕たちはメリダグループだけれど、他のメンバーはメキシコシティ、グアダラハラ、グアナフアト、プエブラそしてベラクルスといったところに分散していくんだ」
豊田が丁度カメラを持っていたので、彼女を中心にして写真を撮った。肩を組むような形で撮った。辻もマルシアの肩に手をかけた。マルシアの手が腰に触れた。マルシアの温かな感触は辻にはとても官能的だった。彼らは楽しげに談笑しながら、宿舎への道を辿った。途中、マルシアの両親に出会った。マルシアの母はマルシアとそう年齢が離れていないように思われた。多分、後妻なんだろうと辻は思った。綺麗だが官能的で危険な女という印象を受けた。辻はこのところ女性に過敏な反応を示す自分に気がついていた。マルシアは15歳だった。しかし、辻は女の子というよりは成熟した女性として意識した。メリダに行って、仲間と別れ、ホームステイ先で一人になったら、日本のように女性に無関心で居られるかどうか、自信が無くなっていた。辻の胸は妖しい予感と期待で震えた。それは香代子以外の女性を求め始めた辻の意識革命の始まりとも言えた。
7月15日、土曜日。バスに乗り、オアステペックを去り、テオティワカン遺跡に向かった。テオティワカン遺跡は「神々の遺跡」と呼ばれ、メキシコ随一の規模を誇る巨大遺跡である。メキシコシティの北方、約50kmの高原にある、この巨大遺跡には実に様々な謎があり、まだ十分には解明されておらず、神秘に満ちている。この遺跡の住人が誰でどこから来たのかすら実はまだ判っていないのだ。紀元前2世紀から紀元6世紀の半ばまで栄えたこの文明は紀元7世紀になって、急に衰退し、没落してしまった。なぜか? これも諸説があるが未だ定説となっているものは無い。最盛期には20万人以上の人口を擁していたと推定されている。当時、この人口に匹敵する都市としては唯一、ヨーロッパのコンスタンチノープルがあった程度であり、他には例を見ない。都市の面積としても、
20平方キロメートルの規模はあったものと推定されている。
辻はバスから降りて、砂利道を歩いた。辻の歩いている砂利道は「死者の道」と呼ばれる道で全長は4キロメートル、幅45メートルの大きな道である。傍らの階段状ピラミッドが「ケツァルコアトルのピラミッド」、はるかかなたの前方には「月のピラミッド」が見える。その「月のピラミッド」への道すがら、右手には高さ65メートル、一辺の長さが225メートルという巨大な「太陽のピラミッド」が雄大に聳え立っている。
この高原の高度は海抜2000メートル以上なので、急いで歩くとすぐに息がきれる。
辻は仲間と話しながらゆっくりと歩いた。前方に看護婦グループがいた。
陸奥が声をかけた。
「あらっ、陸奥さんたちよ」
斉藤和子たちが振り返り、急ぎ足で近づいてくる陸奥たちを見てニッコリと微笑んだ。
「ブエノス・ディアス、ボニータス・セニョリータス(今日は、別嬪さんたち)。元気ですか。こちらは、疲れていますよ」
陸奥が陽気に言った。
「あら、もう疲れていらっしゃるの。さっき、団長さんが元気に走っていかれましたよ。団長さんは30歳で、陸奥さんより年上ですのよ」
「ああ、それが彼の悪い癖なんです。女性の前では常に格好つけたがるのが。きっと、後で僕のところにサロンパスかトクホンチールを借りに来ますよ」
「そういうことは、陸奥さん。あなた、サロンパスとかトクホンチールといった年配者向けのものを愛用しているの?」
「あっ、ばれてしまった! アッハッハ」
陸奥と和子の掛け合いに一同大笑いした。
いつしか、「太陽のピラミッド」の前に着いた。豊田が腕まくりしながら皆を誘った。
「じゃあ、若い人だけ、このピラミッドに登りましょうか。ご老体はここで待つこととして」
すると、陸奥、辻内、垣田といった年長者組が我先に頂上目掛けて登りだした。彼らの姿に斉藤和子たち看護婦グループはまた大笑いした。結局、全員が元気良く頂上へ続く階段を登っていった。階段は全部で248段あり、かなり急勾配であった。ほとんどの留学生がこの登頂に挑んでいた。学生の中には階段を走って登っていく元気者も居た。陸奥たちは鎖の手すりを掴みながら登っていった。辻の前方には、山田ひとみと早川緑が登っていた。二人共、紺のジーンズを穿いていたが、辻が時々目を上げると、そこにピチッと張り詰めた二人のお尻があった。辻は目のやりどころを失った。暫くは目を上げないように、下ばかり向いて黙々と歩いた。俺は実は好色漢に過ぎないのではないかと軽い自己嫌悪に陥った。
遂に、ピラミッドの頂上に着いた。少し息はきれていたが、陸奥のように頂上に着いた途端、腰を下ろしてしまうということにはならなかった。陸奥さんより、三歳も若いという意識を辻は強く持った。
頂上には爽やかな気持ちのいい風が吹きわたっていた。
「辻君、やっぱり若いんだなぁ。僕なんか、これこの通り、息がきれてしまったよ。しかし、ここからの眺めはさすがに凄いや。向こうの「月のピラミッド」もはっきり見えるし、「死者の道」の長さもはっきり分かるよ」
「陸奥さんったら、へたりこんじゃって。辻内さん、辻さんはまだまだ元気ですよ。頑張って、頑張って!」
緑が陸奥の手を引っ張って起こそうとした。
「早川さん、少し休ませてよ。今、無理して立ったら、あのクアウテモックのようにここから落ちて、「落ちる鷲」になってしまうよ」
陸奥の情けない悲鳴に全員が声を上げて笑った。クアウテモックはアステカ帝国の最後を飾った王でその比類ない勇敢さはメキシコ人の敬愛の的となっている。クアウテモックはアステカ語で「落ちる鷲」を意味している。
「辻さん、まだまだ元気ですか」
山田ひとみが辻の傍に近づきながら話しかけてきた。彼女は少し汗をかいており、ほのかに香水の香りが漂ってきた。
「ゆっくり登りましたから。まだ大丈夫ですよ。しかし、陸奥さんは本当に愉快なひとですね。あのひとには、ムードメーカーというか、周囲を和やかにする雰囲気があります。これからのメリダ暮らしが楽しみですね」
「本当にそうですねぇ。陸奥さんを始めとして、社会人の研修生の皆さん、本当にユニークで。私、大学生活には少し飽きていたので、このメキシコ留学生活を楽しもうと思っているんです。辻さんも日本では得られないものを、このメキシコでは得られるんじゃないですか」
「ええ、そうかも知れません。そうであることを願っています。日本とは違った、いろいろな暮らし方も見たいし、いろいろな人間も見たいし、いろいろな考え方にも触れたい。今、僕はとても欲がふかくなっています。山田さんのように、スペイン語に習熟しておれば、もっともっと、この国のひとと話ができるんですけれど、・・・」
「辻さんならば、数ヶ月でスペイン語をマスターできますわ。日常生活が全てスペイン語の世界なんですから。日本で勉強するより10倍速く覚えますわ」
「じゃあ、山田さん、僕のスペイン語の先生になって下さい。メリダでは宜しくお願いします」
「私で良ければ、喜んで。その代わり、辻さんは私の英語の先生になって下さい。私、英語の発音が苦手でスペイン語を選択したんです。英語にはなんかコンプレックスがあるんです」
「いいですよ」
すると、ひとみは「げんまん」と言いながら、右手の小指を絡めてきた。辻は少し照れて応じた。
その内、休憩を十分取った陸奥、垣田が揃って階段を降り始めた。辻もひとみと連れ立って階段を降り始めた。登りより、むしろ下りの方が足とか膝には負担がかかった。着いたら、また陸奥さんはぼやくんだろうな、と辻は思い、思わず微笑んだ。
テオティワカン遺跡見学後、バスはシティの帰路、昼食のため、レストラン・ラ・グルータに寄った。洞窟の中にあるレストランで、真夏というのに少し肌寒さを覚えるくらいに涼しかった。広い洞窟にテーブルが置かれ、留学生全員が席を占めてもまだかなりのスペースがあった。辻は鞄から辞書を取り出し、何やら調べ始めた。辻内が目敏く見つけ、辻に話しかけた。
「辻君、何か調べているの」
「グルータ、という言葉の意味を調べているんです」
「洞窟、という意味だよ」
「あっ、本当だ。すごい、辻内さん!」
「いや、なに。これ、さ」
辻内は上着のポケットから、メキシコの旅行案内書を取り出した。
陸奥を始め、そのテーブルは爆笑の渦に巻き込まれた。
「グルータの辻内さん、どうぞ」
陸奥が辻内にビールを注いだ。また、一同が声を出して笑った。座は和気藹々といった雰囲気となり、普段は無口な奥村志保美も賑やかに話し出し、場はさらに盛り上がった。
そこに、留学生団長の石田がグラス片手にやって来た。
「おお、メリダグループは大いに盛り上がっているね。これなら、心配なし。陸奥さん、辻内さん、垣田さん、みんなを宜しく。いつか、シティに来る時は、連絡してよ。僕の住所とか電話番号は後で、陸奥さんに連絡しておくから」
石田はみんなと固く握手してまわった。今日で留学生は分散し、それぞれの研修地にグループ毎に分かれて出発していく。全員が再会するのは来年の4月なのだ。それまでの別離に、留学生は知らず知らず感傷的になっていた。田中はシティグループのテーブルを訪れて、安田順子と話していた。辻は留学生仲間が織り成す様々な光景を眺めていた。陸奥のところに、一人の女性がやって来た。吉川純子と言って、越出美加の大学の同級生とのことだった。オアステペックではいろいろとお世話になりました、メリダにも美加を訪ねて行きますのでその折は宜しくお願いします、と丁寧に挨拶していた。やがて、彼のところにも坂田信行がやって来て、別れの挨拶を交わした。
「じゃあ、辻君、暫しの別れだな。元気で。とにかく元気でいようよ。時々は便りをくれよ。僕も手紙を書くから」
「坂田君も元気で! 司法試験の勉強ばかりじゃなく、メキシコでの生活をエンジョイしよう。じゃあ!」
坂田が手を差し伸べ、辻も固く握り締めた。9ヶ月間の別れということで感傷的になっている自分が居た。
午後9時半、辻たちを乗せ、メヒカーナ航空901便はメリダに向け、飛び立った。
飛行機の窓から観たメキシコシティの夜のパノラマは感動的だった。陸奥も寡黙に窓の外に展開される光の氾濫と渦を陶然と見詰めていた。
午後11時にメリダ空港に着いた。タラップを降りかけた辻の眼鏡は完全に曇り、視界はゼロとなった。辻は眼鏡を外し、手探りでタラップの階段を降りる羽目となった。
空港全体が蒸し風呂のように思えた。陸奥たちは顔を見合わせ、暫くは言葉もなかった。
暑い、とにかく蒸し暑いのだ。
陸奥が、このままシティに帰ろうと言い出し、お調子者の豊田がタラップをもう一度駆け上るしぐさを見せ、皆が爆笑するという光景もあった。
昼は暑いが、夜になると涼風が吹いたオアステペックの気候と比べ、メリダのこの蒸し暑さは実に衝撃的だった。とても、午後11時という真夜中の気候とは思えなかったのだ。
空港の待合室には、各人のホームステイ先の家族が迎えに来てくれていた。
それぞれに挨拶を交わし、三々五々車に乗り込んでメリダの街に向かった。
辻はアントニオの運転する車でメリダに向かった。アントニオはホームステイ先の長男で、見たところは同じくらいの齢かなと思ったが、実は高校二年生であった。口髭も少し生やしており、妙に貫禄もあり、到底高校二年とは見えなかった。彼は車の中でタバコも吸った。車は日本のダットサンだった。訊けば、去年の留学生が彼に売っていった車とのことだった。もともと、中古で買ったもので型式は古いが、スピードも十分出せ、何と言っても水に強いというのがアントニオの自慢であった。スコールの中でも問題なく走ると彼は言っていた。このようなことを辻はアントニオと英語で話す中で聞き取った。
アントニオの家に着いて、辻を待ち受けていたロペス夫妻と娘のマルタと簡単な挨拶を交わした後、彼にあてがわれた部屋のベッドに潜り込んだのが午前1時だった。なかなか寝付かれず、窓の外からさしこんでくる月の光をぼんやりと眺めた。その内、いつのまにか眠ってしまった。
翌日は、暑くて目を覚ました。まだ7時だったが、部屋は光で満ちていた。窓の外には南国の太陽が燦燦と熱い日差しを地上にふりそそいでいた。遠くから音楽がかすかに聞こえてきた。辻は汗を十分吸った下着を脱ぎ捨て、シャワーを使った。お湯が使えたので、水温を調節して汗を流した。それから、昨夜からそのままにしておいた荷物を片付け始めた。
ドアが静かにノックされた。辻が答えると、セニョーラの声がした。朝食を告げる声らしかった。辻は着替えを済ませて、食堂に入った。家族全員が辻を待っていてくれた。朝の挨拶をして、辻がテーブルについた。簡単な朝のお祈りの後、食事となった。
ロペス夫妻が何か話しかけてきたが、辻には何を言っているのか判らなかった。
アントニオが内容を通訳してくれた。アントニオの英語はたどたどしかったが、辻のスペイン語よりはましであった。辻の仕事のことや、家族のことなどを訊かれた。辻は英語で答え、アントニオがスペイン語に翻訳して話してくれた。辻の英語は本格的だったので、アントニオとマルタは尊敬するような眼差しを向けた。ロペス夫妻には英語は通じなかったが、アントニオとマルタは学校で英語を勉強していた。セニョール・ロペスが何か言った。アントニオが目を輝かせて辻に通訳した。今日は日曜日なので教会でお祈りを済ませてから、プログレッソというところに遊びに行こうとの内容であった。プログレッソはメリダの北方の浜辺でメキシコ湾に面するリゾート地であった。そこに、小さな別荘があるとのことだった。辻はパンにバターを塗りながら、アントニオに自分は宗教が違うから教会には行かず、部屋で荷物を整理しながら帰りを待つ、と言った。10時には帰ってくるとアントニオが言った。
朝食の後、辻は自室に戻り、荷物の整理を始めた。古風な造りではあったが、箪笥もあったので、衣類を詰め込んだ。終わると汗をびっしょりかいていたので、またシャワーを浴びた。ふと、気づくと部屋の天井に天井扇が付いていた。スイッチを探し、天井扇を廻した。ベッドに寝そべって風を受けた。涼風とは言えず、ぬるい風となったが、少しは涼しくなった。横になったまま、辻はこれからのことを思った。明日、月曜日はソカロと呼ばれる中央広場で留学生仲間と落ち合うこととなっていた。陸奥の提案で、確か、時間は12時の待ち合わせだった。昼食を一緒に摂ってから、銀行に行き、メキシコ政府から振り込まれる奨学金の口座を各人が開くこととした。銀行との折衝は柾木とか田中といった語学に達者な学生が担当することになっていた。それから、ユカタン大学の人類学科の教室に行き、施設の見学を行う予定となっていた。火曜日は夕方の4時に教室に集合し、留学生に対する教育スケジュールの説明会が開かれるはずだった。そして、水曜日から授業が開始される。今、仲間はどうしているだろうと思った。自分は恵まれている方かと思った。ここは、ソカロも近いし、学校にも歩いて20分ほどで行けるとのことだった。また、ロペス夫妻も人柄がおっとりとしており、アントニオ、マルタもなかなか感じが良さそうだし、個室も清潔だ。まずまず恵まれた方なんだろうな、と思った。そんなことを思いながら、うとうととし始めた時、車の音がして、ロペス夫妻たちが帰ってきた。
それから、30分後、辻はロペスさんが運転するシボレーの中に居た。メリダからプログレッソまでの道はほぼ一直線で全て舗装されており、快適だった。途中でゴルフ場も見かけた。セイバという名前のゴルフ場だった。セイバというのは樹木の名前で、大きなセイバには妖怪が棲んでいて、近くを通りかかった若者を誘惑しては殺してしまうというマヤの妖怪の話をロペスさんは運転しながら辻に語ってくれた。その妖怪の名前はイシュタバイで絶世の美女の姿で現れるという話だった。誘惑されてみたい、と辻が言ったら、車の中は笑いに包まれた。車は快調に幾つかの集落を横目に見ながら走り抜けた。辻が何気なく速度計を見たら60以上は出ていた。マイル表示なので、キロに換算すると、軽く
100km/時は出ていた計算になる。車の前方には真夏の青い空が果てしなく広がっていた。遠くの空に入道雲が頭を覗かせていた。マルタがアントニオとお喋りを始めていた。
マルタは15歳でキュートな感じの女の子だった。何となく、感じがメリダ留学生仲間の奥村志保美と似ていた。辻は志保美のどこか小悪魔的な容貌を思い浮かべていた。
プログレッソの別荘に着いた。別荘というより、むしろ大きなバンガローといった感じの家だったが、炊事ができる台所もあり、浜辺に面した窓を大きく開け放し、のんびりと夏の一日を過ごすということでは快適な家と言えた。
綺麗な海が見えた。
浜辺には椰子の木が林立し、熱帯の情緒に満ち溢れていた。
早速、水着に着替え、海に入った。火照った体には快い刺激だった。アントニオとマルタが水の掛け合いを始めた。いつのまにか、辻もその戯れの中に居た。ロペス夫妻は別荘の前に安楽椅子を出して、三人の戯れる様子を微笑みながら眺めていた。水の掛け合いに飽きた三人は少し泳ぎだした。海は少し荒れており、泳ぎがあまり得意ではない辻には負担となった。やがて、辻は海から上がり、白い砂浜に長々と寝そべった。熱い太陽の日差しが冷えた体には快く、まどろみ始めた。ふと、誰かに呼びかけられている感じがして、目を覚ました。傍らに、マルタが居て辻の肩を軽く叩いていた。辻が半身を起こすと、マルタが海の彼方を指差して何か話した。辻もマルタが指差す方向に視線を向けた。状況がすぐ理解できた。スコールが来るらしい。空が黒い雲に覆われ始めていたのであった。
ロペス夫妻が別荘の戸締りをし始めた。その後、車に乗り込み、メリダへの帰途に着いた。走ってから、30分ほどでスコールが到来した。幸い、スコールが本格化する前に、辻たちはメリダに帰りつくことができた。辻がシャワーを浴びるために部屋に入った途端、窓の外でゴォーという音がした。驚いて窓を見ると、窓の視界はほとんどきかない状態になっていた。雨というより、滝の中にいるという感じだった。
暫く、窓の外を眺めて過ごした。
これがメリダのスコールか。プログレッソで見た、あの青く澄み透った空とのあまりの差異に辻は戸惑いを感じた。極端から極端への変移。その時、どういうわけか、マルタの身体が脳裏をよぎった。辻が目を覚ました時に見た、あのマルタの腕、肩、胸、腹、腰、そして太腿のなだらかさを想った。コバルトブルーの水着には覆われていたが、肉体的にはかなりの成熟度を示していた。ああ、俺はどうかしている。辻は吐き気にも似た苦い思いで、そんな自分を嫌悪した。しかし、その反面、いつまでそんなことでくよくよしているんだ、お前はもう25歳になっているんだ、もっと自由になっていいんだよ、変にモラリストぶるのはもうやめろ、と自分に言い続けるもう一人の自分の存在にも気づいていた。
滝のような音を立てて降り続ける雨を見ている内に、辻の内部で何かが弾けた。
辻は眼鏡を外し、ベッドに倒れ込んだ。ベッドに大の字になって寝ながら、辻は天井に向かって何事か呟いた。
堕ちてみるか。そうだ、俺は堕ちてみよう。
堕ちてみて、そこに何があるか、見てみよう。
今の自分を破壊して堕ちてみよう、と呟いていた。
翌日の12時、辻はソカロのベンチに座っていた。
栗鼠が樹に登ったり、降りたりするのをぼんやりと眺めていた。時々、辻の近くまで寄ってきては、愛嬌のある眼で辻を見詰めた。人を恐れる様子はなかった。
陸奥がのんびりと歩いて近寄って来た。
「辻君、元気かい。あれっ、眼鏡はどうしたの?」
「メリダの蒸し暑さで眼鏡が煩わしいので、コンタクトにしたんです」
「へぇー、そうか。で、コンタクトはハード、それともソフト?」
「ソフトレンズにしました。少し、慣れたらハードも買っておこうかな、と思っています」
「こうして見ると、辻君はなかなかのハンサムボーイだ。眼鏡をしていると、いかにも東大法学部卒という感じだけれど。何か、心境の変化でもあったのかい」
「いや、そんなことは無いです。眼鏡が煩わしくなっただけです」
「うん、そうか。・・・、それにしてもみんななかなか来ないねぇ。メキシコ時間に慣れてしまったのかなぁ。まあ、みんな揃うまで、先ずは待つしかないけれど、・・・。あっ、そうそう、実は昨日ね、街を歩いていたら、辻内さんに遇ったよ。家族への手紙を出しに、中央郵便局に行ったんだって。オアステペックでも出していたし、彼は結構筆まめなんだね。僕なんか、オアステペックで一通出しただけ。しかも、宛先は銀行の本店人事部さ。
時に、辻君、君の下宿はどんな感じだい? つまり、家族の雰囲気とか、下宿の場所とか、さ」
「下宿の感じですか。まあまあと思っています。このソカロにも学校にも歩いて通える距離ですし。また、家族も感じがいいですよ」
「フーン、それならいいね。僕のところはちょっと問題があるよ。先ず、場所が遠すぎるんだ。ソカロからバスに乗って、20分か25分もかかるんだ。街はずれもいいところだよ。それに、夫婦でソカロ近くで商店を経営しているという話なんだ。昨日も日曜というのに、棚卸しかなにかで、家を留守にしているんだ。昼食は自分で作ってくれ、ということで冷蔵庫の中を見せるしね。昨日はバスの乗り方を相当練習したよ」
陸奥はいつもの快活な陸奥らしくなく、少しぼやきながら話した。辻も同情して言った。
「そんな感じなんですか。面白くないですねぇ。今日、人類学科の見学があるから、その時にでも、アレホ教授に話されたらいかがですか」
「うーん、そうするかなぁ。あっ、山田さんと早川さんが来た。そうだ、山田さんにでも、その件の通訳を頼んでみようかな」
12時半近くになって、ようやく全員が揃った。いきなり現れた東洋人の集団にソカロにたむろしている人々は好奇の眼を向けた。その眼を避けて、陸奥たちは適当な銀行を探してソカロ周辺を歩いた。ユカタン半島銀行という銀行があったので、そこに入り、各人の口座を開いた。通訳は柾木が担当した。陸奥は銀行マンらしく、店の中のレイアウトとか窓口業務での対応の仕方とか、いろいろと観察しているようであった。
15人の口座を開くのに3時間近くかかった。悠長な仕事振りだな、と半ば呆れ、半ば感心した。陸奥は年率10%以上という普通預金の利率に目を剥いていた。この利率はペソ預金の不安定さ、とりわけインフレを予測した上での利率の設定に他ならず、この利率でも預金高は増えないだろうと垣田に話していた。安定していれば、こんな利率を設定する必要はさらさら無いのだ、とも言った。
ようやく15人目の通帳が出来上がり、陸奥たちは銀行を出て、遅い昼食を摂りに付近のレストランに入った。レストランの中で、留学生たちは賑やかに談笑した。下宿の話とか、昨日の出来事とか、緊張の糸が切れたかのように、各人がいつもより饒舌になった。
特に、女性にその傾向が顕著であった。辻は自分も含め、日本人の非国際性を感じた。
意識が高いはずの留学生ですら、こうなのだ。海外旅行に集団で行きたがる日本人を笑うことはできないな、と思った。
昼食を終え、陸奥たちは人類学科の見学に行った。
メリダの中心地の住所は全て、縦の通りの数字×横の通りの数字で表されており、且つ東西は奇数番号で、南北は偶数番号で表わすルールとなっており、そのルールさえ知っていれば、旅行者でも簡単に目的地に到達することができる。学校はソカロから歩いて15分程度の閑静なところにあった。二階建ての校舎を高い塀と鬱蒼と繁った巨木が取り囲んでいた。
入口から入ると正面に管理棟があり、一見した感じは旧式のホテル風の外観を備えていた。奥には古めかしいが重厚な革張りのソファーと椅子が置いてあり、少し薄暗く、ゆったりとした雰囲気を醸し出していた。
ここでは、時間もゆっくり流れるに違いない、と辻は思った。
管理棟の背後には、バスケット競技場と25メートルプールがあった。そして、管理棟を挟んで、講義棟が両脇に並んでいた。講義棟の中には、小さな図書館もあり、数人の学生が本を片手にメモを取る姿もあった。図書館を除いては、夏休みということで、教室に学生の姿は無く、ただ庭の落ち葉を掃き集めている白い服を着た掃除夫が辻たちに人懐っこい笑顔を見せているばかりであった。
「じゃあ、明日は午後4時からここでこれからの講義のガイダンスがありますので、全員定刻通りにお集まり下さい。今日みたいにメキシコ時間にならないようにお願いします。もっとも、指導される先生方が定刻通り現れるかどうかは保証の限りではありませんが」
暫定的にリーダーとなっている陸奥が言った。
辻は、陸奥、垣田と連れ立って、夕方の道をソカロに向かって歩いた。
「垣田さん、下宿の様子はどう?」
ひとしきり、今の下宿の不満をぼやいた後で、陸奥が垣田に訊いた。垣田は軽く頷きながら言った。
「僕のところも辻君と同じような感じです。つまり、家庭的な良い雰囲気ですよ。セニョーラがとても親切なひとで二階の眺めの良い部屋を僕の部屋にしてくれたし、食事も家庭的で美味しいものを食べさせてくれますから」
「そうか、それならいいですね。すると、留学生の中では、田中君と僕だけがアンラッキーな感じで、他はまずまずといった様子だねぇ」
ソカロに着き、陸奥はバスの停留所に向かい、辻もカテドラル(大聖堂)の前で垣田と別れ、下宿に帰った。
翌日は夕方から人類学科の校舎で留学生対象の特別教育のカリキュラム説明会が開かれた。学生グループ10人に対しては、スペイン語の語学教育は省かれ、歴史、経済、考古学という3教科の基礎教育が10月末まであり、11月以降は一般の学生に交じって、通常の講義を受けるというカリキュラムが提示された。一方、陸奥たち社会人グループ5名に対しては、来年の3月まで前期、後期に分けたスペイン語の語学教育を中心としたカリキュラムが組まれていた。スペイン語の基礎教育が必要であるとの配慮に基づいたカリキュラムであった。文法、ヒアリング、作文、会話といった語学教育がその中心に置かれた。土・日曜日を除く週5日間で、午前中は9時から12時までの3時間、午後は3時から5時までの2時間、合計5時間の教育が明日から行われることとなった。
翌日からの講義は単調であったが、辻たちは良く勉強した。とにかく、スペイン語に慣れること、それが辻たちにとっては何よりも優先すべきことであった。辻は、学校での講義で5時間、自室での勉強を3時間以上はした。その他に、努めて、下宿のセニョーラ、アントニオと話をするようにした。しかし、マルタとはあまり話をしなかった。マルタは15歳の少女に過ぎなかったが、辻には少し眩しい存在だった。意識過剰と言ってしまえば、それまでの話であったが、ぴちっとした水着に包まれた肉体がつきまとい、辻を胸苦しくさせたからであった。
語学の教師の一人に、レペットという先生が居た。陽気でざっくばらんな性格であり、講義は常に情熱的であった。
ある夜のことであった。陸奥たちは、セントロ(街の中心部)近くのサンタ・ルシア公園の前にある「エル・トロバドール・ボエミア」というバル(バーであるが、日本のバーとは違い、女性は居ない。居酒屋である)でレペット先生と酒を飲んだ。レペット先生はイタリア系の血をひく50歳前後の独身の男であった。本業は画家であり詩人、アルバイトで外国人に対してスペイン語を教えている、と彼は言っていた。目つきが鋭く、鷲のような顔立ちをしていたが、笑うと子供のような無邪気な顔になった。英語を含め、数ヶ国語を自由に操れるということで、辻たちとの会話はもっぱら英語でなされた。辻は堪能であり、陸奥、辻内、垣田そして豊田も英語ならば会話程度は問題無く、意思疎通には事欠かなかったのである。まして、メキシコ人の英語は日本人の耳には、より聞こえやすかったのも幸いし、酒を飲みながらの会話は楽しかった。難しい話になると、辻が通訳した。
「君たち日本人は俳句という文学様式を持っている。内容が凝縮され、少ない文字数という制限の中で、小宇宙が見事に表現されている。今、僕は俳句を勉強しているんだ。君たちの中で、俳句に関して造詣の深い人は居るかね」
「僕は少し齧っていますよ」
意外なことに、垣田が応じた。
「僕はコンピュータのプログラマーですが、会社で俳句サークルに入っているんです。俳句とプログラミングにはあい通じるところがあるんです。俳句はご承知のように、5・7・5という文字数の制限の中に、その瞬間に感じた詩的感想を盛り込まなくてはいけません。ある種の技巧というものも必要なんです。一方、プログラミングも同じで、無駄を省き、冗長に流れず、圧縮するところは可能な限り圧縮して意を伝える。それは、センスの問題であり、俳句の句作という生みの過程と通ずるところがあるんです」
レペット先生は大いに喜び、辻の通訳を介して、垣田と熱心に語り合った。陸奥と辻内、豊田はビールを飲みながら、三人の会話に耳を傾けた。
しかし、どのような経緯でそのような話題になったのか、話題はいつのまにか、俳句から転じてメキシコの女性の話に移った。メリダにはほとんど公認された売春宿があるらしい。レペット先生もイタリア系らしく、嫌いな話題ではなかったらしく、訊かれるままに答えていた。ちょっと崩れた感じがあり、おそらくその種の女性にはかなりもてるタイプだろうと辻は思った。
「レペット先生は独身主義を信条としているんですか?」
「僕もガールフレンドはいるけど、結婚しようとは思わない。彼女もそうなんだ。結婚という束縛を僕は好まないんだ。君たちもまだみんな独身なんだろう。このメリダにも自由に遊べるところがあるんだ。良ければ、安全なところ、紹介しようか」
レペット先生は手帳を取り出し、何やら書いて、一枚破って、辻に渡した。
「ここが間違いの無いところだよ。ここの他にも何箇所かあるけれど、あまり良くないし、危険なところなんだ。僕がメモしたところ以外は行っちゃ駄目だよ」
辻がその書き付けをみんなに廻した。写し取る者もいた。辻にその紙片が戻ってきた。紙片には二箇所ほど住所が書き付けられてあった。辻はその紙片を鞄の中に入れた。
夜も11時近くになって、その店を出た。辻は皆と別れ、下宿への道を歩いた。上空に白い月がぽっかりと浮かんでいた。11時を過ぎているのに、屋内の暑さを避けて、戸口に椅子を出して座り、通りの涼しさを楽しんでいる人もかなり見かけた。語らう様子もなく、ただ座っている人の前を通り過ぎて歩いた。今夜もかなり暑い夜になりそうだ。
カサ・デ・スィータ(売春宿)という耳慣れない言葉が耳に焼き付いていた。
やがて、行くことになりそうだ。そんな予感がした。
講義は8月中旬まで続き、その後9月初旬までが留学生の夏季休暇となった。
この頃までには、辻は日常の会話にはほとんど不自由しなくなっていた。この間、辻たちはメリダ市内の観光の名所はほとんど行きつくしていた。豪壮なカテドラル、モンテホの館、考古学博物館、市庁舎、モンテホ通りの大邸宅群といったところがメリダの観光名所だった。ソカロ近くにあるカフェテリアで、辻はよくスイカのジュースを飲んだ。氷は入れず、スイカの赤いところだけがミキサーに入れられた。大きなグラスになみなみと注がれたスイカのジュースは甘く美味しかった。また、オレンジを二つ割にし、圧搾器で絞った、フーゴ・デ・ナランハ(オレンジジュース)も美味しかった。一杯のジュースを作るために、オレンジが3、4個ほど使われたが、100円程度の金額だった。また、辻は「語学研修」と称して、ほとんど毎晩のように市内の映画館を渡り歩いては、上演されている映画を観て歩いた。料金は15ペソ(180円程度)であり、毎晩観てもさして懐具合には響かなかったのである。辻のスペイン語は上達していった。
陸奥たちも同じで、学生グループが驚くほどの上達振りを示した。もう、ノソ・ボソクインテットとは言われないな、と陸奥が冗談まじりで言うくらいのレベルになっていた。
そして、二週間の夏季休暇が始まったのである。
8月16日、水曜日。夏休みの第一日目。
昨夜は、いつものバルで陸奥たちと飲みすぎた。朝、9時まで寝ていた。
辻はズキズキと痛む頭を抱えて、朝食の席についた。アントニオは辻の食欲の無い様子をニヤニヤしながら見ていた。
「シンイチロウ、昨晩はかなり酔っ払っていたよ。今、頭が痛いんだろう?」
「そうなんだ、頭が壊れそうだよ。昨夜はセニョール・ムツとトロバドールで飲みすぎたようだ。いろんな酒をのんだよ。コロナ・ビール、ウイスキー、ブランデー、それにマルガリータ。特に、マルガリータが効いたみたいだ。飲みやすいから、調子に乗って何杯も飲んでしまった」
「マルガリータはテキーラ・ベースだから、効くんだよ。僕も前に少し飲んだことがあるけど、少し飲んだだけで酔っ払ってしまったもの」
「アントニオ! お前は未だ未成年だよ。お酒を飲んだらいけません!」
突然、背後からセニョーラに叱られて、アントニオが首を亀のようにすくめた。脇でマルタがアントニオの脇腹をつついて笑った。
ロペス氏が炒り卵をすくったフォークを口許で止めて、辻に話しかけてきた。
「シンイチロウ、このバケーションでどこに行くんだい」
「実はまだ決めていないんです。友達はカリブ海とか、マヤの遺跡、例えば、チチェン・イッツァとかウシュマルに行く計画を立てているんですが。いずれにしても、二週間のバケーションがありますから、コスメルとかイスラ・ムヘーレスあたりのカリブ海を少し旅行してこようかと考えています」
「ああ、カリブ海か。あそこはいいところだ。海の色が素晴らしく綺麗なところだ」
「私たちの新婚旅行で行ったところよ。パパが25歳で私が20歳の時。船が揺れてこわかったけど」
辻にコーヒーを注ぎながら、セニョーラが口を挟んだ。セニョーラの口ぶりは楽しそうだった。
マルタが行きたいと言い出した。アントニオも同調し、暫く賑やかな会話が続いた。
この家庭は温かいな、と辻は思った。可愛らしく駄々をこねている娘にロペス氏も降参といった感じだった。
夕方、辻はセニョーラに映画を観てくるから、夕食は要らないと言って下宿を出た。
ソカロに行って、新聞を買い、映画館情報欄を見た。面白そうな映画はやっていなかった。暫く、広場のベンチに座っていたが、やがて飽きて、ユカタン大学前の「ポップ」というカフェテリアに行った。そこで、ハマイカという甘酸っぱいソフトドリンクを飲んだ。鞄から本を取り出し、読もうとした。本と一緒に、紙片が一枚出てきた。その紙片には見覚えがあった。レペット先生がトロバドールで書き付けた紙片だった。
辻はその紙片を暫く見た。やがて、目を上げ、壁に貼ってあるアンディ・ウォーホールの有名なマリリン・モンローのポップアートを眺めた。
行ってみるか。辻はそう思った。
10分ほど歩いて、その住所のところに着いた。何気ない普通の家の造りをしていた。
暫く立っていたが、その家を訪ねる人は無かった。夜にならないと入る人もいないのだろう。そう、自分に言い聞かせて、辻はそこを離れた。
辻はトロバドールに行き、昨夜のようにドアを開けて中に入った。まだ日が暮れてまもない時間であったので、客は入っておらず、ただバーテンダーだけが暇を持て余し気味にしきりとグラスを磨いていた。入っていいか、と訊くと、バーテンダーは微笑みながら頷いた。
辻はコロナ・ビールとドライ・マティーニを軽く飲んで、トロバドールを出た。そして、先ほどの家に行き、暫く躊躇した後で、ドアをノックした。返事は無かった。しかし、ドアは開いていた。辻は中に入った。
娼家の中は殺風景な造りだった。ソファーが一つぽつんと置いてあるだけだった。
壁掛けには、「褐色の聖母マリア」の絵姿が飾られており、その下で一人の男が新聞を読んでいた。辻はソファーに座り、誰か現れるのを待った。長い時間が経過したように思われた。その新聞を読んでいた男がゆっくりと立ち上がり、辻の方に歩み寄って来た。
そして、低い声でぼそっと言った。
「何か、用かい?」
その男はかなりの大男で鋭い目つきをしていた。威圧的な物腰だった。
「セニョリータは居るかい?」
辻は努めて冷静さを装って、その男に言った。
その男はニヤッと薄く笑って、やはり低い声で言った。
「居るよ。少し、待ってくれ」
男は大股で奥に引っ込んだ。
5分ほど、待った。
男が戻ってきた。そして、辻を案内して奥に連れて行った。
辻が連れていかれた部屋は豪華な造りの部屋だった。天井にはシャンデリアが飾られ、豪華なソファー、椅子には派手な衣装に身を包んだ女が7、8人ほど座って、辻を迎えた。嫣然と辻に向かって微笑み、流し目をくれた。男が何か言ったが、辻には聞き取りづらかった。どの女にする、と訊いていることは明らかだったので、辻は視線を奥に向けて、アケージャ・セニョリータ(あのセニョリータ)と言った。男が、ハイメ!、と名を呼んだ。名を呼ばれた女は微笑みながら、ゆっくりと立ち上がった。名を呼ばれなかった女たちは、もう辻に関心は無いと言わんばかりに、視線を辻から離し、仲間同士とお喋りを始めた。
辻はハイメに手を引かれて別室に案内された。部屋に入ろうとすると、先ほどの男が廊下の端に立って、辻を呼び止めた。前金の催促だった。辻は言われるままに、百ペソ紙幣を何枚か彼に渡した。
ハイメが中から彼を呼んだ。辻が中に入り、ドアが閉められた。
2時間ほどして、辻はその家を出た。
通りには珍しく涼しい風が吹き渡っていた。辻は少し俯き加減でゆっくりと歩いて、ソカロに行った。急に空腹を覚えたので、近くのレストランに入り、夕食を摂った。
レストランの薄暗い照明の下で、辻はぼそぼそとユカタン風の薄い牛肉を齧った。味が無かったので、テーブルに備え付けのチレの皿を手元に引き寄せ、たっぷりとかけて食べた。急に口の中に広がった辛さをビールで紛らわした。辻はぼんやりと皿に残っている牛肉とポテトを眺めた。食欲は消え失せていた。辻は勘定を済ませ、外へ出た。
妙に、月の明るい夜であった。
下宿に着くと、セニョーラが待っていた。セニョール・ムツから電話があったとのことだった。辻は早速陸奥の下宿先に電話をかけた。陸奥の下宿のセニョーラが出て、少し待つように言われた。やがて、陸奥の陽気な声が受話器から聞こえてきた。
「ああ、辻君。実は明日、ウシュマルに行こうと思っているんだ。垣田さんも誘ったんだが、彼はカンペチェに行くとのことで駄目だった。君、良ければ僕と一緒に行かないか?」
辻は承諾した。
翌日も暑かった。辻は8時半に下宿を出て、ソカロの南西にある、バス・ターミナルに向かった。9時頃、ターミナルに着くと、既に陸奥が切符を買って待っていてくれた。
9時半の出発だったので、二人はターミナルのカフェテリアでコーヒーを飲みながら待つこととした。陸奥はエネケン製のパナマ帽を被っていた。
「陸奥さん、その帽子、なかなか似合いますよ。メルカード(市場)で買ったんですか?」
「あっ、この帽子ね。そう、郵便局脇のメルカードで買ったんだ。少し値段は高かったけれど、柔らかくてなかなか肌触りがいいよ。メリダでは必需品と言えるね」
陸奥は帽子を手で丸めてみせた。柔らかいが芯は強く、簡単に元に戻った。メリダ特産の帽子で、本場のパナマ帽を凌ぐとさえ言われている帽子だった。まるで、形状記憶帽子だ、と豊田が言っていた。二人は、ハンモックとかグアヤベラ(男性用の白い刺繍入りの服)とかいった、メリダ特産の品物に関する話をして時間を潰した。その内、出発の時刻となり、観光バスに乗り込んだ。バスはカバーという遺跡を経由して、11時に目的地のウシュマル遺跡に着いた。バスから降り立った二人は、「魔法使いのピラミッド」の方に歩いて行った。ウシュマルは規模こそチチェン・イッツァ遺跡には劣るものの、その美しさにおいては優るとも劣らない、マヤ古典後期を代表する遺跡である。特に、この「魔法使いのピラミッド」と「尼僧院」の美しさは格別だった。高さ26メートル、118段の急な階段を持つ「魔法使いのピラミッド」は小人が一夜の内に造りあげたというマヤの伝説から名づけられたピラミッドで周囲の密林を圧して、白亜の秀麗な姿を見せていた。陸奥が辻の方を向いて、何かを指差した。視ると、ピラミッドの背後の崩れかけた石垣を大きなイグアナが這い回っていた。イグアナは獰猛な外観には似ず、動きはユーモラスであった。胴体が4、50センチほどの大きなイグアナで、辻たちを横目で見ながら、のしのしと歩き、草むらの中にその姿を隠してしまった。
二人は「魔法使いのピラミッド」の階段を登り始めた。階段の傾斜は急で、一説によれば、心臓をくり抜かれた生贄の身体をピラミッドの頂上から投げ落とし、途中の階段に引っ掛かって止まることのないように、急な傾斜を持たせているとのことであった。
そういう目で見れば、階段は急で、且つ幅も異常に狭く造られているのも頷けない話ではなかった。陸奥もかなり慎重に登っていった。ようやく、頂上に辿りついた。二人は頂上の神殿の前に座って周囲を眺めた。素晴らしい眺めだった。「尼僧院」とか「総督の宮殿」といった遺跡群が一望の下に見渡せた。陸奥は大きく深呼吸した。そして、辻に話しかけた。
「辻君、いい眺めだね。しかし、こうして周囲の密林を見ていると、緑一色というのも、一種の恐怖感を持って迫ってくるね。そうは感じないかい。緑の地平線を見たのは、僕は初めてだ」
「僕も初めてですよ。アメリカに居た頃は何回も地平線を見る機会はありましたが、このような緑の地平線は見たことがなかったです。陸奥さんは緑の地平線に恐怖感を持つと言われましたが、それは緑の密林の恐怖ということなんでしょう。つまり、緑の下に覆い隠されている、密林そのものに対する恐怖、と言い換えることもできると思います」
「うーん、畢竟そういうことなんだろうな。砂漠で見る地平線には、覆い隠されているものは何も無いから、安心できるんだろうね。何も無いことが判っているのと、何があるのか判らない、その心境の差というのが、安心感と恐怖感という大きな差になってしまうんだろうなぁ」
座って見ている二人の周りには、米国人の観光客らしい一団が陽気にお喋りをしながら歩いていた。肥えた体をTシャツと半ズボンに包み、いかにもラフな服装の集団であった。ひとしきり、賑やかな会話が続いたが、その一団が去ると、また周囲には静寂が戻った。さて、次はあそこの「尼僧院」でも観ようか、と言って陸奥が立ち上がった。
辻も立ち上がり、二人は階段をゆっくりと降りていった。
午後1時の便でウシュマルを発った。2時半にはメリダに戻り、ソカロ近くのアラブレストランでシシカバブーを食べた。串焼きの肉は塩加減がきいていて美味しかった。
陸奥と別れ、辻は郵便局の前にある酒屋に行き、カルーワというコーヒー・リキュールとワインを買った。店を出て、何気なく郵便局の方を見ると、郵便局に入っていく垣田を見かけた。垣田はどことなく元気がなかった。垣田には日本に恋人がいると云うことを前に聞いたことがある。日本とメキシコはあまりにも遠すぎる。手紙のやりとりにしても、書きつくせぬものもあるのだろう、と辻は思った。ふと、カサ・デ・スィータには垣田さんは行かないだろう、と思った。陸奥さんも辻内さんも行かない、行くとしたら豊田さんくらいか。いや、豊田さんも行かないだろう。辻は自嘲気味にそう思った。
翌日から、辻は夜になるのを待ちかねるかのように、カサ・デ・スィータに通い始めた。
午前中はスペイン語の独習。和西辞典を一冊全て読破するつもりで勉強していた。
午後は散歩と映画。昼食の時はアントニオがいい話し相手になってくれた。
夜はハイメのところだった。
ハイメを通して女性を知ってから、肉体としての女性はそれほど神秘的な存在ではなくなったが、反面、異性としての神秘さは増していくような感じを持った。
神秘さは失った分、増していた。
「シンイチロウ、リカルドが呆れているわよ。毎晩通ってきて、よく財布がもつものだと。日本人は金持ちなの? それとも、悪いことをしている人なの?」
ハイメがシャワーを浴びながら、辻に訊ねた。辻はベッドの上で緩やかに回転している天井扇を眺めながら、ハイメに言った。
「日本では金持ちじゃないけれど、ここでは少しは金持ちだよ」
「そうね。リカルドも言っていたわ。日本は物価が高いから、日本人は日本ではリッチじゃないけれど、メキシコは物価が安いから、メキシコではリッチに暮らせるんだって」
リカルドは、最初の晩に辻を迎えた、あの目つきの鋭い大男の名前だった。シャワーを浴びたハイメはバスタオルで豊満な胸を隠して、浴室から現れた。ハイメはグアダラハラ出身のメスティーサ(スペイン人と先住民の混血の末裔)だった。どちらかと言うと、白人系の血の方が濃い容貌をしていた。
「今日、店に新しい女が入ったのよ。ロサマリーというアメリカ国籍の女よ。彼氏の借金のかたに暫くここで働くんだって。シンイチロウも彼女と遊んだら。いつも、私ばかりじゃ、刺激もないだろうから」
辻は黙って、窓のところに立ち、カーテンを少し開けて外を見た。淡い照明に照らされた中庭が見えた。中央に噴水もあり、なかなか幻想的な雰囲気を醸し出していた。
そこを出た後、辻はトロバドールに行き、いつものようにコロナとマルガリータを飲んだ。店の舞台では流しのトリオがギターの弾き語り演奏をしていた。リクエストを求められたので、50ペソ紙幣を渡し、「レイナ・デ・レイナス(女王の中の女王)」という曲を含め、歌を二、三リクエストした。ユカタンの甘いラブソングを聴きながら、辻はカサ・デ・スィータにも飽き始めてきたことを薄々感じていた。確かに、めくるめくほどの刺激はあった。しかし、・・・、それだけだった。快楽は金でいくらでも買えた。
しかし、それだけだった。かりそめの愛は買うことができ、肉の悦楽も買うことができるし、時には必要だったろう。しかし、それだけだった。何かが欠けていた。悲痛な胸苦しさを伴う、ある種の情熱が欠けていた。辻はそれが何であるか、知っていた。自分を高め、昇華させるもの。未知の彼方に行けるもの。無限の至福に至ることができるもの。それが自分には必要であり、それを得ることができない限り、この虚しさは常につきまとうだろう。自分はおそらく限りなく荒廃してしまうに違いない。過剰な自己愛も有害であるが、過剰な荒廃も自分の求めるところでは無いのだ。極端から極端への精神の波に翻弄されている自分を辻は意識していた。自分は何者になろうとしているのか。
自分はもう既に飛翔し、新たな自分になるべく、旅立ちを始めてしまったのだ。
辻はテーブルの上の紅いワイングラスの中でか細い炎をくゆらせ燃えている蝋燭の、その炎をじっと見詰めていた。
下宿に帰った時は12時近くになっていた。
手紙が二通、机の上に置かれていた。母からの手紙と坂田からの手紙だった。
ベッドに腰を下ろし、母からの手紙を読んだ。家族の近況が細やかに書かれていた。父が子会社の役員となって関西へ単身赴任すること、義二郎が毎日図書館通いをし
てほとんど家にいないこと、辻にお見合いの話が持ち込まれたことなどが几帳面な字
で書かれていた。くれぐれも身体には気をつけて暮らしなさい、という言葉で文面は
結ばれていた。家族の顔が浮かんだ。これまで、望郷の念にはあまり駆られたことは
無かったが、母の字にやるせないほどの郷愁を感じた。ベッドから立ち上がり、机の
前の鏡に映った自分の顔を見た。鏡の中の顔は歪み、涙を流していた。
その鏡の中の顔に向かって、辻は呟いた。辻の眼は輝いていた。
オアステペックで、自分はこれまでの自分に別れを告げた。
このメリダで新しく、自分は旅立とう。
感性豊かに生きること。もう無理かも知れない。夢に終わるかも知れない。
しかし、今、それを求めて俺は生きていきたいのだ。
辻の呟きは、メリダの深い夜の闇の中に吸い込まれ、そして消えていった。
完