第八章 ダイラムの叛乱 -8-
ザールやロスタムなど、脱出する面子は先に郊外の集合場所に向かっている。シャフリヤールのもとにいるのは、不審を買わないために居残る近衛の騎士と、前髪がだいぶん後退した背の低い老人と、黒いスカーフとヴェールで顔を隠した少女がいるだけである。
老人は、大将軍のサームであった。ザールの妻の父であるサームは、自身も伯爵の爵位を持つ貴族である。落ち着いた雰囲気があり、人を安心させる。むろん、大将軍と言っても名前だけなので、兵権は全くない。
落ち着かない様子のシャフリヤールに、サームは穏やかな声をかけた。
「陛下、そろそろご準備はできましたかな。時間が迫っております」
「し、しかし、どうやって脱出するというのだ。外は兵で満ちている。廊下の角を曲がっただけで捕まるのは目に見えておるぞ」
震えるシャフリヤールを見て、アナスはその面影がナーヒードに似ているだけに哀しくなった。女王なら、こんなときに決して動じたりはしない。アナスを信頼して、じっと動かずにいるだろう。
「廊下など通りませぬ」
目を伏せたまま、アナスは答えた。このままシャフリヤールを見たら、思わず引っ叩きそうになるのだ。しっかりしなさいよ、と。
「陛下は中庭に出ていただくだけで十分です。あとは、わたしが集合場所までお連れします」
サームには、素性は話していないはずであった。だが、老人は格段うるさいことは言わなかった。おまえのように得体のしれぬ女など信用できるか、と騒がれたら面倒なところだ。この落ち着きと安心感はサームの人徳であろうか。多少髪の毛が後退しても、長い人生を重ねてきただけのことはある。
「そろそろ時間よ。お爺さん、ごめんなさいね」
アナスは立ち上がると、両手でサームの手を包み込んだ。
「よいのだ、娘御よ。わしのような先の短い年寄りに心を動かす必要はない。陛下を頼むぞ」
「陛下はあたしが必ずザール卿のもとへ届けるわ」
老人が信頼するのはやはり娘婿だろうと、アナスはザールの名前を出した。サームは孫を見るかのような表情でアナスを見ると、行動を促した。
「さ、行きなさい」
アナスは頷くと、部屋から中庭に出た。
後ろからシャフリヤールが怖々と言った足取りで出てくる。アナスは気配を探ったが、中庭には兵はいなかった。好都合とばかり、アナスはシャフリヤールを背中から抱き抱えた。
「な、何をする」
「いいから、黙ってなさい。舌を噛むわよ」
回りの人目がなくなったので、アナスは容赦なく素で叱り付けた。シャフリヤールが絶句している間に、炎翼を思い切り広げると、神速を同時展開して、一気に上空まで飛び上がった。
「まさに天使。最後にいいものが見れたわい。婿によろしくな、真紅の星」
窓から空を見上げた老人の独白は、届いたか届かなかったか。
炎翼から火柱を噴出し、更にアナスは加速する。やけに静かだと思っていたら、シャフリヤールは衝撃に意識を手放していた。アナスは嘆息すると、集合場所を目指して一息に飛んだ。
高空に一筋の赤い尾を発見したザルミフルは、愉快そうに笑った。
「ははははは! 星でも落ちたか? 赤い星とは、占星術師に占わせねばならんかな!」
カーレーン侯爵の幸せな感想が終わる頃、アナスは集合場所に到達し、火柱を逆噴射して減速した。神速も解き、アナスは上空からエルギーザの側にふわりと舞い降りる。
風圧でヴェールがめくれ上がり、アナスは素顔が曝け出されていた。薄れ行く炎翼に照らされたアナスの横顔は美しく、立ち尽くす男たちは見惚れて言葉をなくした。
アナスはヴェールを直すと、気絶したシャフリヤールをザールに押し付けようとした。
「ほら、ザール卿。陛下は気絶しているけれどご無事よ。貴方の馬に乗せて下さる? エルギーザ、あたしの馬はどこ?」
男たちは止まっていた刻が流れ出したかのように動き始めた。ザールはアナスからシャフリヤールを受けとると、若干主君を羨ましそうに眺めた。
「竜を倒せし美しき赤き御使いの話は本当だったのだな…」
そして、一行は馬に乗り、アルボルズ山脈に向けて移動を開始した。ミフラーン家の兵は東の街道を中心に固めており、サナーバードへの移動の警戒しかしていなかった。一行は北西へと向かい、易々とパルタヴァ貴族の包囲網を突破した。その呆気なさは、ザールやファリドゥーンの予測を遥かに上回るものであった。シャフリヤールを集中的に警戒していたことの弊害であろう。むしろ、ファリドゥーン、シャハルナーズ、アルナワーズの三人の方が脱出のために色々方策を巡らし、賄賂を使ったり荷馬車に隠れるなどの手段を講じたものである。
家族を連れて来ている者もいたが、全て騎乗させた。馬車では速度が出ない。一人で乗れない者には補助を付ける。
サームが時間を稼いでくれている間に急がなければならなかった。みな、黙々と原野を駆ける。ヒルカの妖精が先導しており、道に迷う心配はない。
走りながら、アナスは馬をザールの隣に寄せた。白髪の騎士は、訝しげにアナスを見る。少女はやや躊躇ったが、思い切って口を開いた。
「陛下を頼む、婿によろしくと言っていたわ」
老人の最後の科白を、ザールには伝えねばならぬ気がした。見捨てる判断をしたザールには酷な気もしたが、そうするべきだと思ったのだ。
「そうか」
ザールは短くそれだけを答えた。普通にしていれぱ、謹厳な騎士で通るのに、とアナスは思った。
「いいお爺ちゃんだったわ」
もう一言だけ、アナスは付け加えた。ザールは目を細めると、何か思い出すような表情を作った。
「そうだな」
二人がかわした会話はこれだけであった。アナスは馬を元の位置に戻し、ザールも無言のまま馬を飛ばした。
アルボルズ山脈の南麓には、ギーラーン総督軍は展開していなかった。ギーラーンは、山脈の反対側の北麓である。一行は遮る者もなく、山道を駆け上がった。途上、三十騎ばかりの小隊が林の中から出現し、一行の随伴に加わる。そのうちの一騎が、アナスの隣に馬を寄せてきた。
「ご無事でしたか、愛しい人」
「たったいま、目眩を覚えたわ」
マラカンドのミルザの副官ディンヤールであった。ヒルカからミルザへ、一行の位置、進路などを伝達してあったので、迎えに来たのだろう。むろん、アナスを迎えに来たのであって、他の男はまるで無視しているのが、この男らしかった。
「おい、エルギーザ卿、あれは何者だ?」
ザールに問われたエルギーザは、苦笑しながらディンヤールの素性を答えた。マラカンド騎馬隊の副官の名は、あっと言う間に一行に共有されることになった。男たちの白い目に曝されることになったディンヤールであったが、そんなことでおのれを変える男ではなかった。
そして、アナスたちの眼前に、山間に築かれた城塞が現れる。ダイラム人の山の砦、アールフ・アームート。ギーラーンの総督軍の攻勢に耐え続けるダイラムの誇りが、一行を出迎えるのであった。