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紅星伝  作者: 島津恭介
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第一章 赤毛の小娘 -1-

 冷たくなったパン(ナーン)と、僅かな羊肉と豆の煮込み(アブグーシュト)を受け取ると、少女は自分の天幕(オマル)に入り、パン(ナーン)をちぎって煮込みに浸して食べ始めた。 パン(ナーン)は薄く焼かれており、これだけでは腹一杯にはなりそうもなかった。


薄いパン(ラヴァーシュ)ならせめて二個は欲しいのだけれど」

「急な徴兵だったからね。食料の準備も間に合ってないようだ」


 同じ天幕(オマル)にいた若者が少女の呟きに答えた。彼もまた薄いパン(ラヴァーシュ)を煮込みに浸して食べていたが、手を止めて腰に提げた小袋を放ってきた。少女が小袋を開けると、中には乾したザクロ(アナール)が三個入っていた。


「足りないならそれをやるよ、アナス。おまえはまだ体を作らないといけないからね」

「ありがとう、シャタハート。けちな王国の連中とは違うわね」


 僅かな食事を終えると、少女は天幕(オマル)の外に出て剣の手入れを始めた。若者もぶらりと外に現れ、周囲を見渡している。


 天幕(オマル)の正面には、ケルマーンの城壁があった。


 アーラーン王国南東の要所ケルマーン。アフシャール部族の族長マフヤールが治めるこの地に、いまアーラーン王国の諸部族率いる二万の兵が集結している。


 マフヤール率いるアフシャール部族が五千。


 バームダード率いるカシュガイ部族の兵が二千。


 勇猛なるサーラール率いるクルダ部族の兵が二千。


 バクティアリ、バルーチ、イルシュなど小部族の兵が千。


 そしてアーラーンの王メフルダード麾下のシャーサバン部族の兵が一万。


 アナスとシャタハートが所属するイルシュ部族は、王国の招集に応えて兵を送ったが、その数はわずか五百。当然待遇は軽く、城壁の外での天幕(オマル)暮らしを余儀なくされており、食料の配給も少なかった。


「あの収納袋(キリム)刺繍(スザンニ)はバルーチね。ザーヘダーンから撤退してきたみたいね」


 シャタハートの視線の先を、少女も見たようであった。


 国境の街ザーヘダーンは、すでにミタン王国の侵攻により陥落していた。ザーヘダーンのバルーチ部族は敗走し、イルシュ部族の隣で薄汚れた天幕(オマル)を立てている。彼らの目は疲労と恐怖に濁っており、ミタン王国の侵攻の苛烈さがうかがわれた。


「ミタンの兵力もかなりのものだとか。ザーヘダーンが陥落してすでに一か月以上。そろそろ先遣隊がこちらに向かってきてもおかしくない頃合いだ」

「問題はあたしたちがどこに配備されるかってことだわね。真正面で捨て石にされるのはたまらないわ」


 アナスは頭布(クーフィーヤ)から零れた緋色の髪を、再び布の中に戻した。少女の頭布(クーフィーヤ)には、火炎(アーテシュ)刺繍(スザンニ)が施されている。羽織ったフェルト(ナマッド)の上着にも、細かいイルシュの刺繍(スザンニ)が入っている。意外なことに少女は布仕事も嫌いではなく、全て手作りであった。


 イルシュの兵五百を率いてきたのは、族長の息子ルジューワである。アナスたちの天幕(オマル)からは、ヒシャームという青年が軍議のために赴いていた。アナスの剣の手入れが終わるころ、ヒシャームは疲れた顔で戻ってきた。アナスは天幕(オマル)の中に入ると、紅茶(チャイ)を淹れてヒシャームに差し出した。ヒシャームは乱暴に腰を下ろすと、ため息を吐いて紅茶(チャイ)を啜った。


「ルジューワは話にならん。王に会えてすらいない。将軍に着陣の報告をし、城外で待機しろとの命令を受けてそれっきりだ」

「そんなことだろうと思ったよ」


 シャタハートは面白くもなさそうに呟いた。


「エルギーザに情報を集めに向かわせたよ。とりあえず、隣のバルーチの連中のところにね。ザーヘダーンの状況が知れれば、少しは心構えもできるだろうさ」

バカ息子(アーマグ・ペザル)に命を預けるのはごめんだわ」


 辛辣なアナスの呟きに、シャタハートは苦笑した。


「わたしもそれは勘弁してほしい。いざとなったら逃げるのも一つの手だが、さて砂漠を越えるほどの物資がないのが困ったものだ」

「ケルマーンは東は砂漠、南は山だからな。ザーヘダーンから砂漠の南端を回ってここまで小さな街が四つほどあったはずだが、どこまで足止めになるものか。軍が迫ると同時に門を開くのが関の山だろう」

「砂漠の南のバムからこのケルマーンまでの道は山の中で、大軍が急いでこれるようなものではないはずだわ。試しにひとあてして敵の進軍を遅らせてほしいところだわね」


 アナスも自分の紅茶(チャイ)を啜り、心を落ち着かせた。そこに、バルーチ部族の許に向かっていたエルギーザがようやく戻ってきた。吹き抜けの入り口から足音も立てずに天幕(オマル)の中に入ってきたエルギーザは、人好きのする笑みを浮かべたまま口を開いた。


「やあ、ぼくの分の紅茶(チャイ)ももらえないか? あっちには水しかなくてね」


 アナスは黙って鉄瓶から紅茶(チャイ)を注いだ。エルギーザは銅製のコップ(リワン)を傾けると、また笑顔を振りまいた。


「いやあ、参ったね。今回のミタン王国は、第一王子のケーシャヴァが率いているらしい。その数は十万と号しているとか。ザーヘダーンの城門は一日で落ちて、族長も殺されたとさ。隣にいる連中は兵というより、ほとんど避難民だね。武装もろくにしてないし、女子供も多い」

「予想通り過ぎて涙が出るね」


 シャタハートもため息をついて紅茶(チャイ)を啜った。


「ババール、ナユール、アグハラーナ、スミトラ、アクランティ。ミタンの六将のうち、五人を確認したようだよ。英雄がいなかったのは、不幸中の幸いなんだろうかね」

「本気すぎるじゃない、それは」


 アナスのぼやきは宙空に消えた。


「急な招集で、こっちの歩兵の多くは間に合ってないんでしょう? アーラーンの騎兵が勇猛果敢だとはいえ、準備不足は否めないわね」

「騎兵では籠城もできないだろうし、城外に展開しての原野戦になるな」

「北からクルダの連中が来ているから、原野戦で負けるとも思えないけれども」

「問題は、あのバカ息子(アーマグ・ペザル)よね」


 無能な指揮官の下では、いくらアナスたちが腕に覚えがあっても生き残れない。せめてイルシュ五百騎がアナスの部下で、思う通りに動かせるなら戦いようもあるが、現状では真正面の最前線に駆り出され、そのまま使い潰されるのが落ちだろう。


「あいつの指示を待っていたら、命がいくつあっても足りないわ。ここは、あたしたちで前線に偵察に出るのはどうかしら」


 圧倒的に足りないのは情報である。ミタン王国軍がザーヘダーンを落とした後、どこまで来ているかもわからない。ならば、自分たちで情報を手に入れるしかなかった。


「面白いね」


 エルギーザがのんびりと言った。


「よかろう」


 ヒシャームが獰猛な笑みを浮かべる。


「敵の先陣がどこまで来ているか……それだけ確認したら戻るぞ。おまえらに任せたら、そのまま敵陣に突っ込みかねん」


 やれやれと言いたげにシャタハートが肩をすくめた。


「情報を得たら、バカ息子(アーマグ・ペザル)に報告せずに、直接シャーサバンの連中に持ち込むぞ。ルジューワに握りつぶされるのは御免だ」


 シャタハートの言葉に三人はうなずいた。

 

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