第七章 竜族の王 -6-
商務長官がスグド商人から金を引っ張り、新たな輸送の段取りを整えた聖王国軍は、再び南へと進軍することとなった。どうやって金を出させたか、クーロシュは知りたくもなかった。だが、当然ヒルカを通じて女王の栽可は仰いでいるはずだ。ならば、多少の商業の利権など目を瞑るのに問題はない。
タバスからヤズドの間には、ほとんど村やオアシスはない。途中で二ヶ所ほど村があるだけである。荒涼とした岩石砂漠が広がり、風が全てを渇きの中へと誘うようだ。
それが蛇の本隊の北上を妨げていると言えた。一万でもタバスに到達できたのは、頑健な肉体を持つ蛇人ならではかもしれない。
そのような状況であるので、当然のように初めにたどり着いた村は壊滅し、オアシスも汚れて使い物にならなかった。兵士たちは落胆したが、首脳部は予想通りの事態に動揺はなかった。物資は十分に用意してあるし、サルヴェナーズの部隊を使用して輸送の手配も万全である。サルヴェナーズは不本意であろうが、今は任された任務を完遂することが重要であった。
天幕を張り、一夜の休息を得た聖王国軍の兵士は、翌朝太陽の光とともに輝く美しい泉と瑞々しい木々を見て、唖然とした。昨日までは濁って飲めそうにない泥水が、今は澄んだ清水に変わっている。泉のほとりにはファルザームが二人の少女とともに陣取っており、金貨を一枚渡していた。
「あたしのみたいな!」
少女の片割れが金貨を翳して踊っていた。兵士たちはおそるおそる大祭司長に近付くと、泉の水を飲んでもいいのか問うた。
「構わぬぞ。好きに飲むがよい。光明神の大いなる力の顕現じゃ。神が我らについておる。蛇の穢れなど心配には値せぬ」
兵士たちは歓呼の叫びを上げ、光明神を称えた。
この地点での水の補給は、当初の計画では組み込まれてなかった。バナフシェフはヤズドまでの水を確保して進むつもりでいたのだ。それには膨大な量の水と兵の取水制限が必要であった。だが、その計画を見たファルザームが、二ヶ所での水の補充を確約した。お陰で物資の輸送計画は大分改善され、実行の目処が立ったのである。ファルザームの切り札は、無論二柱の亜神であった。水と豊穣を司る二柱の神力は、大神であるハラフワティーよりは大分小さい。だが、いまこの時代に於いて、水と豊穣の神力を剥奪された光明神陣営にとっては不可欠の亜神であった。
十分な水と、高速育成された樹木から採れた果実などを補充した聖王国軍は、元気よく進軍を再開した。乾ききった大地にも、絶望を感じることはなくなった。前回エジュダハーの圧倒的な力に敗れた過去を持つ兵の中には不安を抱えた者もいたが、ファルザームの存在がその不安を打ち消した。
二ヶ所目の村でも、ザリチュとタルウィがオアシスを再生させた。村人は殺されたか逃げ去って誰もいなかった。もし逃げたとしても、物資がなければ生き延びることは難しい。ヤズドが蛇人の支配下にあるいま、南には逃げられないと考えると絶望的であった。
「ヤズドを取り戻せば、交易も再開する。スグド商人が交易路の開拓のために隊商宿を作るだろうし、また人は集まる」
ナーヒードが人気のないオアシスを見て涙を流すフーリの肩に手を掛けた。女王はこの心優しき乳姉妹を大切に思っていたし、その心根を愛してもいた。
「だから、泣くな、フーリ。ヤズドはわたしたちで取り戻すぞ」
一年前に絶望と悲歎に包まれた因縁の地ヤズド。しかし、そこは再起を誓った地でもある。太守はナーヒードへの協力を拒んだが、そこに住む民には罪はない。タバスよりもひどい状況が予想されるが、生き延びた人間は救出しなければならなかった。
「ヤズドで人間か蛇かの選択がされる」
ファルザームが重々しく言った。
「選択はアナス、そなたに掛かっておる。最善なる天則は宇宙の法則の力。神を断罪できるのは、そなただけだ。エジュダハーは太古の神の一柱。太古の混沌より生まれた本物の神じゃ。そなたが負ければハラフワティーを奉じぬ人間は、全て蛇に飲み込まれるであろう」
「ハラフワティーは、エジュダハーも従えているの?」
「牛は、蛇を支配下に置いておる。神の門以西はもともと牛の勢力圏じゃ。ハラフワティーは鳥、すなわち光明神を裏切って牛に味方しようとした。今回復活したことも、牛の息が掛かっていることは間違いなかろう。すなわち、神々の王アマルトゥ、またの名をマルドゥク、神の門を支配する牛の怪物のな」
神の門では、竜の神は神々の王に敗れて支配下に入ったとされる。この竜の神がエジュダハーだ。牛の神の命令に従って動かされる存在なのだ。
「ハラフワティーは、カラト・シャルカト、すなわちかつてのアッシュールに入ったそうじゃ。野心家のハラフワティーのことだから、いつまでも大人しくアマルトゥに従ってはいまい。恐らく、そのうち神々の王の座を掛けてアマルトゥと激突するであろう。カラト・シャルカトに入ったのは、そのためじゃろうな。アッシュール神、すなわちかつての神々の王であるエンリルの権威を利用するつもりであろう」
アマルトゥは、エンリルから神々の王の座を奪った。それは、太古の混沌と竜たちの軍団を打倒し、竜の神を支配下に置いたことが大きい。エンリルを信奉する部族は奴隷に落とされたり、僻地に追放されたりした。エンリルの子である光明神、すなわち月神シン、またの名をナンナルとその一派が東に新天地を求めたのは、そのためである。
「ハラフワティーは、恐らくアマルトゥとの対決に全力を注ぐつもりじゃ。だから、東はエジュダハーやシャフリヤールに委ねた。我々は、まずこの障壁をどかさねばならん」
すでに、ヤズドまでの道程も三分の二を過ぎた。エジュダハーとの対決も近い。此処まで歩兵に帯同してきた騎馬隊は、最後の補給を行って解き放たれた。此処からは機動力を生かして進む予定だ。歩兵だと六日は掛かる行程も、騎馬なら二日で辿り着く。
「エジュダハーはあたしが相手をするわよ」
進発するヒシャームとシャタハートの見送りに来たアナスは、二人に釘を刺した。下手をしたら、騎馬隊だけで勝負を決めようとしかねない二人である。ナーヒードと一緒に動くアナスが到着する前に決着がついていたらたまらない。
「心配するな、アナス」
だが、ヒシャームとシャタハートは落ち着いて言った。
「エジュダハーとクナンサティーの魔術は侮り難い。おれたちだけで無理はしないよ。痛い目を見ているからな」
ラフシャンザーンからヤズドへの撤退戦で最後尾を務めたヒシャームは、竜族の王の怖さを身を持って味わっている。力を侮るようなことはしなかった。
「様子を伺うだけだ。速度を落とせば魔術にやられるし、深入りもしない。お膳立てはしておくさ」
今回も、ミルザの千騎はシャタハートに帯同する。サカ人の教えを受けたマラカンド騎馬隊の騎乗技術は並みのパールサ人よりも高く、シャタハートの騎馬隊にもきちんと付いてくる。
アナスはもう一度声を掛けようとしたが、二人を信頼していないのかと言われそうでやめた。結局、彼女が口にしたのは、一言だけであった。
「神のご加護を」