第七章 竜族の王 -1-
スグディアナとの盟約の成立により、アーラーン聖王国に後顧の憂いはほぼなくなった。資金面での不安も解消され、スグド商人の金がナーヒードのもとに雪崩れ込んでくる。
行政長官に任命されたクーロシュは、次第に増大する業務量に悲鳴を上げていた。軍事長官のルーダーベフ、農政長官のカスラー、法務長官のハーテレフは既に決められていたが、新たに財務長官にバーバク、徴税長官にダードベフ、工務長官にフィルーズ、商務長官にイーラジが任命され、内政の体制は整ってきている。だが、業務の振り分けや引き継ぎの負荷は全てクーロシュにかかってきており、正直出世してよかったのかを日々悩んでいる次第であった。
大祭司長にファルザーム、大将軍にバナフシェフが就任し、祭祀と軍の組織も安定してきている。
エルギーザは宮廷書記長官と言う役職に就いたが、実態は監察官の統括であった。監察官も表と裏があり、裏の監察官はエルギーザの個人的な部下と言ってもよく、密偵や暗殺者出身の者が雇われていた。
騎兵将軍にはヒシャームとシャタハート、アナスの三名、歩兵将軍にはザーミヤード、アーファリーン、ミナー、サルヴェナーズの四名が就任する。
これだけの体制を整えるのに、一年近くを費やした。気がつけば秋も終わり、冬が訪れようとしていた。
蛇人の侵攻により、タバス以南は占領されていた。タバスは、聖王国の勢力範囲であるバルデスキャンから南に約三十バラサング(約百七十キロメートル)ほどしか離れておらず、ホラーサーン地方に食い込んでいる。
作戦目標としては、まずこのタバスの解放が優先される。タバスにいる蛇人は一万程度と推測されるが、ヤズドにいる竜族の王の本隊は五万を数えると言う。これに対抗する聖王国軍は、三万を出すのが精一杯である。先遣隊の壊滅とタバスの解放が上手く行っても、ヤズドの本隊との交戦が厳しいものになりそうであった。
ナーヒードは、軍事長官のルーダーベフと大将軍のバナフシェフを諮問し、出兵の計画を問うた。ルーダーベフは女王と王都防衛のために一万を残し、二万五千での出兵を主張したが、ナーヒードは自らの親征を宣言し、それを却下した。バナフシェフは王都に五千を残し、三万での出兵を立案し、女王はそれを容れた。
王都防衛には常備軍からは歩兵将軍のザーミヤードの五千が残された。警備隊隊長のグーダルズ率いる王都警備隊が三千いるので、正確には八千が残るが、警備隊の練度は常備軍に比べると低いので、あまり計算には入れられなかった。
王都防衛の責任者になる歩兵将軍のザーミヤードが、女王の留守を預かる行政長官のクーロシュと打ち合わせをしていると、たまたま農政長官のカスラーが通りかかった。かつてのラザヴィー三都市連合の太守たちが久しぶりに勢揃いし、彼らは懐かしい話に興じた。だが、すぐに今回の出兵の話に戻る。
「バーバク財務長官から出兵することの財政への負担を訥々と訴えられるんだが、今年の小麦は悪くはなかったんだろう?」
クーロシュは財務長官が苦手であった。確かに数字に強く秀才であるのだが、国家が何を目的として動いているのかなど理解していない。彼は目の前の数字が好転することだけが全てなのだ。その手のタイプの官僚と話をするのはなかなか面倒くさい。
「小麦は豊作だ。商務長官だって、スグド商人との取引はうなぎのぼりだと言っている。今回の出兵が半年に渡っても支えられるくらいの資金はあるはずだが」
「徴税長官も、今年の徴税計画は順調だと言っていたしな。バーバクは騒ぎすぎなのだよ。あいつが紙の束を抱えてやってくると、また一日あいつの顔を見て過ごすのかと憂鬱になる」
「そういや、マラカンドから紙が安価に入ってくるようになったな」
「マラカンドに製紙工場があるらしい。こればっかりは女王陛下も見学できなかったそうだ。スグド人に聞いても教えてはくれないだろうな」
ザーミヤードは経済には明るくないので、二人の会話には割り込まず黙っていた。だが、話題が変わり、軍事に転じてくると彼の意見が求められた。
「そう言えば聞いたか? 王弟殿下がヒュルカニアを征服し、パルタヴァ王を名乗られたとか」
ナーヒードの弟シャフリヤールが生存していたことは情報が入っていた。ミーディール王国の王都となったハグマターナから王族を率いて脱出し、ヒュルカニア地方のアスタラーバードに落ち延びていたのだ。ナーヒードとは連絡を取っていたが協力はせず、かつてパルティアの七大貴族と呼ばれたパルニ家やスーレーン家と連携してヒュルカニアを席巻し、サーリー、シャフレ・レイ、ラシュトとハザール海沿岸の都市を手中に収めている。
「問題なのは、光明神ではなく水と豊穣の女神を主神としているところだな」
「ああ。実質的にはミーディール王国に服属していると言ってもいいくらいだ。ミーディール王国は西に目を向けているので安心していたが、こっちがどう動くかはわからない」
カウィの光輪を持ち、諸王の王を名乗るナーヒードの権威が最も高いことは確かではあるが、それは光明神の権威である。光明神を堕天使と呼び、悪魔の王として扱う水と豊穣の女神の教団の前では、そんな権威は通用しなかった。
「シャフレ・レイを根拠地にして、軍備を養っているらしい。ハーラズムの遊牧民と接触しているとの話も聞くが、詳細は不明だ」
「ハーラズムの遊牧民と言えば、マサゲトゥ人か。しかし、あれと話が通じるものか?」
「わからん。しかし、我々がスグディアナと手を組んだのは知っているだろう。ならば対抗してハーラズムと考えても不思議はない」
「女王陛下はシャフリヤール殿下から侵攻してくることはないと見ているようではあるが」
「それは血を分けた弟君だからな。王族の生き残りも多いらしい。だが、万が一パルタヴァ騎兵が侵攻してきた場合、野戦でこれを破るのはおれには無理だな」
ザーミヤードは自らの軍団を鍛え上げたが、それだけにいつも調練の相手にしている騎兵部隊の怖さも知っていた。パルニ家やスーレーン家は、かつて大陸を席巻したパルタヴァ騎兵の中核である。歩兵だけで勝てる相手ではない。
「王都に籠城して女王陛下の帰りを待つよ。おれにできるのはそれくらいだ」
「まあ、恐らく心配はいるまい。パルタヴァ王国を成立させたのはいいが、足下でダイラム人が抵抗しているらしいからな。そうそう外征に出る余裕はないはずだ」
行政長官だけにクーロシュは色んな情報に通じていた。主にエルギーザとヒルカとの交友により手に入れているものであるが、業務上情報は不可欠なのでソースが誰であろうと構わない。
この日は、クーロシュとカスラーがザーミヤードにパルタヴァ王国を警戒しろと言うことで終わった。ザーミヤードは、西の国境に近いサブゼバールとボジュヌールドの街に早馬を整備するよう大将軍のバナフシェフに進言し、これを容れられたのである。