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紅星伝  作者: 島津恭介
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第六章 河を越えて -10-

 レギスタン広場では、スグドの音楽祭スグディアナ・タロラナリが開催されており、スグディアナ諸都市の音楽家が集まって演奏を披露していた。


 赤い衣に緑のパンタロン(シャルワール)を履いた女性がくるくると回り、胡旋舞を踊る。羽衣のような体に纏った薄く軽い布がひらひらとたなびき、鮮やかに人々を魅了した。


「アナスさん、いい街ですね」

「もぐもぐ、マラカンドのパン(ナーン)は、もっちりとしていけるわ。羊串(キャバーブ)も、隠し味にワインビネガー(バダフ・シク)香菜(クズブラー)が使われているわね」

「アナスさん、いつの間に買い食いしているんですか!」


 アナスとフーリもマラカンドの散策を楽しみ、束の間の休息をとる。


「でも、これなんかアーラーンじゃ見られないわよ。何て食べ物なの? 蒸餃子(マントゥ)? へえ、羊肉と玉ねぎの微塵切りを小麦粉の皮で包んでいるのね。隠し味の酸味はヨーグルト(マースト)?」

「アナスさん、これ美味しいですね!」

「ちょっと、フーリその奥にある屋台あれ何かしら。あんな食べ物も見たことないわ」

小麦粉麺(ラグマン)って言うらしいですよ。熱いですね、これ」

トマトスープ(ゴージェ・スーぺ)(ナマク)クミン(ジーレ)にんにく(スィール)で味付けしているのね。トッピングはディル(シュビット)香菜(クズブラー)か。ちょっとスープ(スーぺ)の味に深みが足りないわね。鶏肉(グーステ・モルグ)でも欲しいところよ」

「アナスさん、味の分析にかけては容赦ないですね…」


 女二人揃ってきゃいきゃい騒ぎながら食べ歩きをする。二人とも、これが初めての経験であった。そもそも同年代の女の友人が少ないし、いてもナーヒードでは気軽に食べ歩きなどできる身分ではない。だから、二人はとても楽しかった。あっという間に時間が過ぎ去ってしまうほどの楽しさであった。


「陽が暮れる…夕陽がマラカンドを赤く染めているわね」

「絶景ですね。まるで、青の都(アービ・シャフル)が燃えているかのよう」


 不吉なことをフーリは言ったが、絶景であるのは間違いなかった。


「アナスさん、そう言えば、あれどうする気ですか?」

「あれって…ああ、あれねえ」


 フーリが指差したのは、二人の後ろをくっついて来るスグド人の若い騎士であった。ミルザの騎馬隊の副官を務めると言うこの若者は、出会うなりアナスに一目惚れをし、いきなり口説き始めたのである。アナスは若者に容赦ない鉄槌を食らわせたが、めげない男で陽気に話しかけながら付いてくる。無視を決め込んでいたが、どうしたものであろうか。


「ディンヤールとか言ったっけ…。あたし、ああ言う軽いの苦手なのよ」

「押しはむしろ強いと思いますがねえ」


 若者は見られているのを呼ばれたかと思ったか、勇んで近寄ってきた。


「お呼びですか、我が最愛の人(アズィーゼ・マン)麗しの真紅の星アル・アスターリエ・ズィーバー

「いや、呼んでないから」


 真顔でそんなことを言われると、気恥ずかしくて居たたまれなくなる。


「それに、あたしは自分より弱い男は好きじゃないのよ」

真紅の星(アル・アスタール)にそんなことを言われたら、世に貴女に並び立つ男などいなくなりますよ。とは言え、機会があれば、このディンヤールの力を披露させて戴きたいものですが」


 フーリが道の端っこで身悶えしていた。ナーヒードと育ってきたフーリは、アナス以上に免疫がない。ディンヤールがその気になれば、フーリなら簡単に落ちたかもしれない。だが、そのときは女王陛下直々にフーリを幸せにするように迫ってくることが予想されるので、遊びでは手を出せない。


 アナスも男と付き合ったことがあるわけではないが、不幸なことに父親と三人の師匠を見てきたアナスの理想は非常に高く、並大抵の男では相手にもされないのは確かであった。


紅玉の瞳ゲラーレヘ・ヤーグートは美しく輝き、忠実な騎士を射抜く。真紅の星(アル・アスタール)の劇をやるときは、わたしがその射抜かれる役をやりたいものです」

氷の瞳(ゲラーレヘ・ヤハ)の間違いだと思うけれど」


 冷たいアナスの視線にもめげずに、ディンヤールは屋台の一つを指差した。


「冷たいと言えば、あれは食べましたか? 小さな氷室に氷菓子(バスタニー)を入れているんですよ。さっぱりしていて美味しいですよ」

氷菓子(バスタニー)? それは食べなきゃ!」


 食べ物で釣られるとアナスは弱かった。オレンジの氷菓子バスタニーエ・ナラングを奢ってもらい、にこにこしながら食べ始める。フーリもレモン味(ライムーン)を奢ってもらい、しゃりしゃりした感触を楽しんだ。


「冷たーい。これは汗も引くわー。大体、夏のマラカンドは暑すぎるわよ。アーラーンが天国に思えるくらい昼間は暑いわよね」

「アーラーンは何だかんだで高原ですからねえ。でも、わたしも暑いのは苦手なんですよー」


 氷菓子(バスタニー)に丸め込まれ、アナスとフーリのディンヤールへの態度が少し軟化した。選択を間違えなかったことに、ディンヤールは内心で自分を褒め称えた。


 ディンヤールは柔和な眼差しを持ち、甘い声と細やかな気遣いで数多の女性と浮き名を流してきた男である。嫌みな気性でないため嫌われてはいないが、本来はあちこちで袋叩きに遭ってもおかしくない。そんな噂を聞いているのか、宮殿に戻るアナスたちとすれ違った親衛隊員のディンヤールに向ける視線は軒並み厳しいものであった。当のディンヤールは、全く気にしていないようであったが。


 屋台で更に西瓜(ヘンディヴァーネ)を購入してもらったアナスとフーリは、すっかり機嫌よくなってにまにましながら戻ってくる。野生の西瓜(ヘンディヴァーネ)はそこまで甘くはないが、水分やミネラルを豊富に含み、砂漠の貴重な食料であった。アナスたちが買ったのは、羊の乳に切り身の西瓜(ヘンディヴァーネ)を入れたデザートであった。甘味が付いているのは、メロン(ハルボゼ)の果汁が入っているようだ。


 上機嫌のアナスとフーリから事情を聞いたナーヒードは、散財したディンヤールに礼を言いつつ釘を刺した。


「わたしの騎士にすまぬな、ディンヤール卿。だが、わたしの騎士は男慣れしておらぬので、あまりちやほやしないようにな。すぐ舞い上がってしまい、勘違いすることがあってはならぬ」

「むしろ勘違いして欲しい…いやいや、それがしは無論真面目に愛を語っているのです」

愛してる(ドゥステトダラーム)は一人だけに言うようにな」


 どうも、ナーヒードもディンヤールの噂は聞いているようであった。ディンヤールは女王の軽口に恐縮し、引き下がっていった。あれで懲りるとは思えないが、多少の薬にはなるだろう。


紅玉の瞳ゲラーレへ・ヤーグートとか真顔で言われたのは初めてよ。もう、むず痒いったらないわ」

「その割りには楽しそうであったな。いい息抜きになったようで何よりだ。エルギーザが部下を配置してくれているので、こちらも問題ない」

「楽しかったわ。本当はナーヒードさまも一緒に行きたかったのだけれど」

「それは仕方あるまい。ミーラーンはよく歓待してくれておるし、贅沢は言わぬよ」


 決めるべきことは決めたし、もうマラカンドでの滞在も終わろうとしていた。帰国したら、(マール)との対決が待っている。束の間の休息も終わりである。


 アナスも表情を引き締め、来るべき戦いに備えて気合いを入れ直すのであった。

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