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紅星伝  作者: 島津恭介
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第六章 河を越えて -9-

 メルヴを出たナーヒード一行は、更に街道を北東に進んだ。広大な綿花畑を過ぎると、再びカラクム砂漠の荒涼とした風景が広がる。


 北東に六日ほど進むと、前方に広大な河の流れが見えてきた。アム(ダリヤ)。ヒンドゥークシュ山脈のワフジール峠を源流とするこの大河は、北西へと向かって流れ、アラル海へと注いでいる。


 渡河には、橋を渡る必要があるが、恒常的な橋は架かっていない。スグド商人の船を列ねた船橋を渡らないと、大河の向こう側には行くことができない。あちら側でスグド人と敵対したら、退路はすぐ絶たれると言うことであった。


 河を渡り、二日ほど街道を行くと、ブハラの街に到着する。アム河からブハラの間は大分緑地も多く、畑なども目立つ。此処はメルヴやマラカンドほどの大きさはないが、繊維や絨毯などの特産もあり、オアシス都市としては栄えている方である。


 ブハラの太守イルヤースは敬虔な光明神(ズィーダ)の信徒であり、大祭司のファルザームとカウィの光輪(フヴァルナー)を持つナーヒードを穏やかに歓待した。イルヤースは、黒海近辺の遊牧民族イシュクザーヤ系のサカ人であったが、スグディアナ地方のサカ人はパールサ人の支配を長く受けた過去があり、宗教的にも同化していた。


 メルヴでカマール相手に疲れただけに、イルヤースの素朴だが温かい心遣いにナーヒードは大いに喜んだ。ヘテル人の侵攻の気配にイルヤースが悩んでいることを知ると、いざと言うときの協力をも約したのである。


 ブハラで三日を費やしたナーヒードは、思わぬ交流に表情を明るくしながら、更に東へと街道を進んだ。街道沿いには緑の肥沃な大地が広がっている。此処は水も緑も豊富な沃野であった。アム河の彼方に広がる天地に、ナーヒード一行は思わず目を見張った。


「豊かな土地だな」


 ナーヒードの述懐にアナスも頷いた。かつてのアールヤーン民族が、このスグディアナの地まで手を伸ばしていたのがわかる気がする。だが、いまはこの地を征服にきたわけではなかった。


 緑の大地に湖や川も多く、水を豊富に使いながら東へ六日進むと、ついに一行の視界にマラカンドの美しい姿が入ってきた。


 抜けるような青空の下に青を基調としたタイルなどを使った街並みが広がり、まさに青の都(シャフレ・アービ)と呼ぶに相応しい。


「ついに来た。マラカンドへ、スグディアナの総督(フシャスラパーヴァ)のもとへ」


 スグド人の規律正しい兵に先導されながら、ナーヒードは宮殿に向かった。アム河とシル河と言う二つの大河に挟まれた地スグディアナは、多くのオアシス都市が存在し、それぞれが都市国家として機能している。だが、その中でも盟主的な立場の者は存在し、それがこのマラカンドの太守ミーラーンである。


 大いなる跛者(ブズルグ・ラング)とも呼ばれるミーラーンは、かつて戦場で受けた矢疵がもとで軽く右足を引き摺っている。だが、そんなことを感じさせぬ覇気と生命力に溢れた英雄である。


 レギスタン広場まで来ると、スグド人の騎兵隊を整列させ、そのミーラーンが現れた。


 騎兵隊の背後には壮麗な神学校(マドラサ)が建てられ、太守の敬虔さを伺わせる。その神学校(マドラサ)にもふんだんに青色のタイルが使われ、複雑な文様で飾られていた。


「大地の統治者、カウィの光輪(フヴァルナー)を持つ者、アールヤーンの王の中の王(シャーハーン・シャー)


 ミーラーンは馬から下り、進み出るとナーヒードの前で膝まずいた。


「偉大なる女王よ、よくマラカンドまでお越し下さいました。我々は貴女を歓迎致します」

「スグディアナの総督(フシャスラパーヴァ)にしてマラカンドの太守(ナワーブ)ミーラーンよ。そなたの歓迎を嬉しく思う」


 ミーラーンの案内で宮殿に場所を移す。スグド人の財力を示す豪奢な宮殿である。青いドーム屋根が印象に残った。


「息子のミルザです」


 ミーラーンは、宮殿で若い騎兵隊長を紹介した。端正だが、父に似て覇気のある目をしている。彼は礼儀正しく美しい女王を賛美し、また麾下の騎馬隊の隙のなさを褒めた。


「女王陛下はケルマーンの(マール)と雌雄を決しようと思われているとか。ミルザと千騎のスグド騎兵を援軍に派遣致しましょう」


 ファルザームとの交渉で、この辺りのことは既に決まっていた。息子を派遣してくるとは思っていなかったが、老獪なミーラーンのことである。ミルザとナーヒードの婚姻を狙っているのかも知れなかった。


 月が懸かると、楽人の演奏が始まった。琵琶(ドゥタール)タンバリン(ダーイラ)などの静かな音に混じって旋律に乗せた詩が聞こえてくる。六つの旋法(シャシュマカーム)と呼ばれるスグディアナ独特の音楽である。物悲しげな調べにアナスは心を揺さぶられた。


 それは、六つの物語からなる長大な叙情詩であった。物語が変わる度に旋法(マカーム)も変わる。滅亡する国と亡国の王子、その王子と遊牧民の娘との悲恋、国を再興する戦いに身を投じる王子、戦いに敗れ命を落とす王子とその後を追って身を投げる娘、と悲劇を歌い上げていく。


 おいおいと泣くフーリを慰めながら、アナスは自分もそっと涙を拭った。楽人の調べには、心を震わせる力があった。


 それでもナーヒードは心を揺らさず、ミーラーンとこの先の展開について話をかわしていた。ファルザームの説明で、ミーラーンも水と豊穣の女神ハラフワティー・アルドウィー・スーラーが復活したことは知っていた。ハラフワティーは、光明神(ズィーダ)に匹敵する本物の神であり、その力を持って虚空の記録(アーカーシャ)を書き換え、ミーディール王国を作り出した。ミーディール人もアールヤーン民族の一つであるが、ザグロス山脈の辺りを本拠地としていたパールサ人とは部族が違う。もっとも、ミーディールの王となったジャハンギールはイルシュ部族で、これはパールサ人であった。この辺りはハラフワティーの好みが反映された結果であり、統一性はない。


 最終的にはハラフワティーを討ち、ミーディール王国を平定しなければならない。だが、その前にケルマーン地方の人間たちを奴隷のように扱う蛇人たちをます討伐しなければなるなかった。


 ナーヒードとミーラーンは、その辺の認識では一致している。ブハラ、クシャニア、マイムルグ、キシュ、ジャグーダなどのスグディアナ諸都市などもほぼ共通の認識と言っていい。だが、スグディアナ諸都市が下手に身動きできない理由があった。


 ヘテルである。


 バクトリア地方のバクトラを中心に勢威を奮う遊牧民族であり、最近はメルヴのカマールと結んでホラーサーンからスグディアナにも出没してきている。


 ついこの間もマイムルグがヘテルの襲撃を受けており、ミーラーンはスグディアナ諸都市を糾合してマイムルグの救援を行っている。


 それだけに、ヘテルに資金援助をするメルヴとの仲は悪く、最近は対立関係にあった。


 いずれはメルヴとも決着をつけなければならないと、ナーヒードとミーラーンは認識を一致させていた。だが、当面ナーヒードは南に注力せざるを得なく、ミーラーンは資金面での支援を中心に行うこととした。


「ヤズドの周辺は(マール)の支配下に入っておる」


 すでにヤズドも落ち、更に蛇の軍団は北進してきている。遠からずホラーサーンに侵入してくるであろう。ケルマーンから追い払われた借りは返さねばならない。そのための準備はしてきたつもりだ。


「まずはヤズドを奪回する。それから、ケルマーン。そして、パールサ人の故郷としてシラージシュは取り戻さねばならない。ヘテルを追い払うのは、その後になる」

「ミルザを供にお連れ下さい。不肖の子でありますが、役には立ちましょう」


 この日、アーラーン聖王国とマラカンドの盟約は成った。そしてそれは、アーラーン中興の祖として名高いナーヒードの、反撃の始まりとなったのである。

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