第六章 河を越えて -5-
ザーミヤードは、目の前に展開する五百騎を見て、これが二か月前までは馬に乗ったことのない兵士たちだったのか、と舌を巻いた。稜線から現れ、ザーミヤードの左翼に展開し、アーファリーンの部隊に突入する速度と突破力は、かつてザーミヤードが精鋭と自負していたザブゼバール騎馬隊と比べても遜色ない。
アーファリーンは部隊を二つに分けて騎馬隊を包み込み、包囲の形に移行しようとしたが、アナスの親衛隊はそのまま後方に突き抜け、回頭してもう一度突っ込んでくる。それに合わせてザーミヤードは軍を進ませた。
挟撃を受け、アーファリーンの部隊は脆くも崩壊した。白磁のような肌を紅潮させ、アーファリーンが激怒して兵を叱咤している。だが、そこにアナスの急襲を受け、剣を突き付けられたアーファリーンは降参した。
観戦していたバナフシェフに呼び出され、アーファリーンが悪かった点の洗い出しをさせられている。あの作業がザーミヤードは好きになれなかった。バナフシェフの追及は厳しく、どんな細かい点も見逃さない。自分がどんなに劣った指揮官であるか、容赦なく知らされる結果になるのだ。
風に当たったまま小休止をしていると、アナスの親衛隊から一騎飛び出てきて、こちらに向かってきた。アナスの副官を勤めるフーリだ。とろそうな外見に関わらず、彼女の馬術にも隙がなかった。
「ハシュヤール隊長の騎馬隊が近くにいるので、協力を要請したそうですー。アーファリーン部隊にハシュヤール部隊を加えて相手にしますよー」
ハシュヤールはシャタハート将軍の騎馬隊の隊長の一人だ。騎馬の運用に関しては、シャタハート将軍が随一といわれる。その片腕となっている部隊長なのだから、隙のある用兵などするはずがない。折角今日はバナフシェフ将軍に叱られずに済みそうだったのにな、とザーミヤードはぼやいた。
再開した瞬間、アーファリーンの二千が小さくまとまってきた。てっきり激昂した彼女が押し寄せてくると思っていたのに、当てが外れる。そう簡単に行く相手ならば、苦労はしないのだ。みな、バナフシェフに鍛え上げられた指揮官たちなのだ。
遠くの方で、アナスの親衛隊と、ハシュヤールの騎馬隊がぶつかり合っているのがわかる。人数もハシュヤールの部隊が多いし、アナスは押され気味だ。ザーミヤードは騎馬と連携を取るべく、布陣をやや騎馬の方に移す。その移動の隙をついて、アーファリーンが寄せてきた。
アーファリーンの方が二倍の人数がいる。正面から戦っては、ザーミヤードが不利だ。ザーミヤードは後退しつつ、アナスの騎馬隊が突っ込めそうな位置までアーファリーンを誘導する。此処でアナスが突っ込んでくれれば、アーファリーンは間違いなく戦線を瓦解させたであろう。
だが、ハシュヤールの騎馬隊は完全にアナスの親衛隊を抑え込んでいた。アナスがどう動いても、ハシュヤールの動きをかわすことはできなかった。騎馬隊の練度で、まだアナスの親衛隊は他の騎馬隊に及ばない。散々引き回された挙げ句、ハシュヤールとアーファリーンに包囲を食らい、アナスは降参した。当然、ザーミヤードはとっくに戦線離脱を余儀なくされている。
ハシュヤールに騎馬隊の動きのチェックを受けると、親衛隊はまだまだなのがわかる。だが、歩兵はその親衛隊にもついていけないのだ。ヒシャームとシャタハートの騎馬隊の練度だけが飛び抜けている。ハシュヤールの騎馬隊の中にかつての部下の姿を見て、彼らもついていくのに必死なのだろうか、とザーミヤードは思った。
負けたので、また走ることになった。アーファリーンの部隊も走っている。もう走ることで脱落する兵はいないが、アーファリーン隊に負けたら何を言われるかわかったものではない。ザーミヤードは必死に部下を走らせる。前は自分が走るだけで余裕はなかったが、いつの間にか部下を見る余裕ができていた。慣れるものだ、と感慨が深い。
アナスとハシュヤールの騎馬隊はもういなかった。騎馬は騎馬の調練がある。馬も駆けさせねば動きは悪くなるのだ。
それにしても、バナフシェフを将軍に任じたナーヒードはいい目をしている。かつて名将軍と言われたバムシャードの副官として働き、その全てを吸収したと聞いてはいた。だが、あれはもうバムシャードを超えているのではないだろうか。あの冷徹な目で見つめられると、全てを丸裸にされるようでザーミヤードはいつも不安にさせられる。彼女の子飼いの三大隊長は、みなバナフシェフの教育を受けて育ってきている。激情家のアーファリーンが驚くべき自制を見せるし、引っ込み思案なミナーが時に無謀なほど果断になる。靴下を必ず片方なくすようなサルヴェナーズが攻守に隙がない用兵をするし、正直正面からではザーミヤードは勝てた試しがない。だが、バナフシェフが動かすと、ザーミヤードの部隊でも簡単に大隊長を追いまくれるのだ。バナフシェフの強さは、読みと命令の伝達能力の速さに他ならなかった。こちらが気がつく前に、必ずバナフシェフは気がつく。そして先手を取ってくる。その繰り返しである。百年経っても追い付ける気がしなかった。
その日は、ナーヒードが親衛隊の指揮に出てきていた。左右にアナスとフーリを従えたナーヒードは、歴戦の風格を漂わせていた。
ミナーの部隊が前面で盾役になっていた。女王を護るため、ミナーは鬼気迫る形相で押し寄せるオルドヴァイとハシュヤールの騎馬隊に立ち向かった。だが、突破され、為す術もなく撃ち破られたミナーは泣いていた。悔し涙にぼろぼろになりながら、ミナーは女王に不甲斐なさを恥じた。
女王はミナーを責めなかった。彼女はミナーを抱き締めると、次は必ず自分を護るように言った。ミナーは感激し、剣を捧げて永遠の忠誠を誓っていた。
間違いなく、自分たちは強くなっているはずであった。しかし、騎馬隊と向かい合うとその自信はいつも消え去った。ミナーは、調練ではザーミヤードをいつも圧倒する。そのミナーですら、騎馬の大隊長の前では赤子同然である。だから、強くなった実感が持てないでいた。そんなザーミヤードを、バナフシェフが将軍府に呼び出したのは、ナーヒードがサナーバードに入って半年か過ぎた頃であった。
「出撃でありますか?」
思わず聞き返した。バナフシェフがこういう無駄な聞き返しは嫌うことを知っていたが、つい出てしまったのだ。
「ホラーサーン三都市同盟を攻める。彼らは聖王国の傘下に入るのを断ってきたのでな。歩兵はアーファリーン、騎馬はアナスが付く。総指揮は貴様だ、ザーミヤード」
騎馬五百、歩兵三千の戦力と言うことだ。ホラーサーン三都市同盟は、それぞれの都市に千前後の警備隊しかいないはずなので、兵力としては妥当なところである。ナーヒードとバナフシェフの意図としては、新戦力の肩慣らしと言ったところであろうか。
「副官と言うものは、わたしの代理なのだ、ザーミヤード。わたしが自分で出撃したと思えるような指揮を見せてみろ」
何故アーファリーンではなく自分が総指揮を、と考えていたザーミヤードに、一気に重圧がのしかかった。初めから、ザーミヤードを育成するつもりで副官に任じたのであろうか。ともあれ、この半年間最も長くバナフシェフの隣で彼女の指揮を見てきたのはザーミヤードである。おれならば、できるはずだ、と自負を新たにした。
アーファリーンもアナスも、調練で何度も一緒に戦った仲だ。手並みは心得ている。連携に心配はなかった。
その日、アーラーン聖王国は、ホラーサーン三都市同盟に宣戦布告を発した。春も終わり、また夏が来ようとしていた。アナスにとっては、十七歳になる夏であった。