第六章 河を越えて -1-
「話に入る前にいいかな、軍務官殿」
ナーヒード並みに憔悴したルーダーベフを、エルギーザが呼び止めた。
「タフトで荷車を五台くらい手配していてね。もう少ししたら来ると思うから、荷受けしてくれるかな。これ目録ね」
いつ手配したのか、エルギーザは懐中から目録を出してルーダーベフに渡した。さっと目を通した軍務官は、泣きそうになってエルギーザの手を掴んだ。
「水や食料、医薬品、天幕や毛布などの雑貨…何処からこんなものを」
「道中買い揃えて運ばせていたんだよね。敗走したって聞いていたし、何れにせよ物資は必要になるだろうからさ。でも、所詮この程度の量気休めだから、これからどうするかだよね」
「いえ、これからどうするか、考える余裕ができました。有り難うございます…本当に助かりました」
ルーダーベフは、物資の荷受けと配付の段取りのためにバナフシェフと出ていった。そう言うことは、老将軍の副官であったバナフシェフは得意であった。
「助かる、エルギーザ。本当に今夜の糧食もなかったのだ。ヤズドのビザン卿には協力を断られてな」
ナーヒードもほっとした表情を浮かべていた。エルギーザは首を振って問題ないことを伝えると、核心を突いてきた。
「で、この軍は何処の軍になるんですかね。実のところ、ぼくはあまりそこを理解していないようなんですが」
「何処って、当然、我々はアーラーンの軍だ」
疲れたようにナーヒードは言った。その言葉に、むしろファルザームたちは驚いた。
「我々はアーラーン正規軍だ。わたしは、アーラーンの王女ナーヒードだ! わたしの頭がおかしくなったとか思っていますか、ファルザームさま」
「いや、するとそなたは、前の世界の記憶があるのじゃな。女神に虚空の記録を改竄される前の記憶が」
ナーヒードは思わず涙を浮かべた。理解されるとは思っていなかったのであろう。今まで誰かに言っても気が触れたとしか思ってもらえなかったのだ。いきなり変わってしまった世界に、ナーヒードは翻弄され続けてきた。だが、ようやく彼女はその原因を知ったのである。
「そう、世界が変わってしまった。少し前まで、わたしはアーラーン王国の王女ナーヒードであった。今は、アーラーン王国と言う国は地上にはない。今のわたしは、野盗の首領と変わらぬ。この軍も、補給すべき根拠地を持たぬ」
「それに関しては、すまぬとしか言えぬ。わしらは失敗したのじゃ。パールサプラの地でケーシャヴァと双子神と対峙したわしらは、彼奴らの儀式の阻止に失敗した。儀式は遂行され、女神が現代に甦った。彼奴らは本当は太陽神を復活させようとしたらしいが、水と豊穣の女神が割って入ったのじゃ。ハラフワティーは復活するときに、大規模に虚空の記録の改竄を行った。理由は、光明神の支配を壊すためじゃ」
だから、か! とナーヒードは吐き捨てた。
「ミタンの侵攻を迎撃し、ラーイェンまでは勝っていた記憶があるのだ。しかし、何故か我々はラフサンジャーンの北で蛇の主力軍と対峙していた。何が起きたのか理解する前に、敵の大規模な魔術を喰らい、兵の半分と、バムシャード将軍と、父を失った…。戦線を維持できず、全てを投げ捨てて退却する他はなかった」
騎馬隊が殿軍を務めているが、どれくらい生還するかはわからない。ナーヒード自身、必死に剣を振るって血路を開いて来たのだ。傷を負っていない兵などいなかった。
「これから、どうしたらよいと思うか」
ナーヒードが力なく言った。ファルザームは当然のように口を開いた。
「最終的には、女神を打倒し、光明神の地位を取り戻して、虚空の記録の書き直しをするしかありませぬ」
だが、いまの状況でそんなことは無理に決まっている。
「短期的には、軍を養う拠点を持ち、ナーヒード女王を奉じる新生アーラーン王国を打ち立てる他はありますまい。候補は幾つかありますが…わしとしては、サナーバードがよろしいかと。東西の大陸の要衝、交易の利だけでも十分兵を養えますが、それ以前にかの地では、スグド人と繋ぎがつけやすいのです」
アーラーンの国境を越え、北東に進むと砂漠地帯になる。その砂漠のオアシスに勢力を持っているのがスグド人だ。元を辿ればパールサ人やミタン人と同じアールヤーン民族らしいが、商売に長けた人種で、砂漠を越えた東方との交易の利で相当儲けているらしい。また、彼らの宗教はパールサ人と同じ光明神信仰で、行き場をなくしたアーラーン王国軍が手を組みやすい相手であった。
「青の都…マラカンドか」
大河アムを越えた先にある草原の美しき青の都。ナーヒードも話には聞いたことはあったが、見たことはない。王女は束の間目を閉じ、空想の翼をはためかせた。
「よかろう。方針はそれでよい。具体的な方策は詰めねばなるまいが…まずは、軍の再編と物資の確保が急務だ」
「それなんじゃがの…」
ファルザームは、声をひそめて王女に耳打ちした。ナーヒードは目を丸くしたが、不意に笑い出した。
「いや、確かにおっしゃる通りですが、大賢者、まさか拝火神殿に盗みに入るとおっしゃるなんて。そりゃ、あの神殿のものは、ファルザームさまのものも同然でしょうが」
「夜の間にヒルカにやらせておく」
灰色の髪の神官が、えっと言う表情を作ったが、彼は多分逃げられない。
ヒルカがげんなりしているところに、バナフシェフが戻ってきた。彼女は一礼すると、報告を開始した。
「エルギーザ殿の荷車か着到し、軍務官と目録の確認は済ませました。天幕と毛布を幾つか解放し、医薬品を用いて負傷者の手当てを始めております。同時に食糧の配給も開始しました。それと、ハシュヤール隊二百が帰陣致しました」
第八騎兵大隊が戻ってきた。千騎を二百騎まで減らしたとの報告に、苛烈な道行きを思ってナーヒードは胸が詰まる。
「ハシュヤールをこちらに。第八騎兵大隊の勇士には早めの休息を」
ナーヒードが指示を出すまでもなく、ハシュヤールは控えていたようであった。彼の甲冑は全身血で赤黒く変色しており、背には何本も矢が突き立っていた。それでも、彼の瞳にはまだ光は失われておらず、足取りもしっかりしていた。
「よく無事だった、ハシュヤール」
「悪運強く生き永らえたようで。他の騎馬隊も追々戻ってくるかと思いますが、最後尾をヒシャーム将軍が務めてらっしゃいますので、かろうじてこちらは逃げ切れました」
「ヒシャームは無事か」
「あの方をどうこうできる者がいるとは考えられませんな。波濤のごとく押し寄せる敵を相手にただ一騎、黒槍を手に押し返してましたぞ」
ハシュヤールが語るヒシャームの勇姿は、砕け散った王国軍の士気を僅かばかり回復させる効果はあった。千の敵を一人で蹴散らす黒衣の騎士が健在なうちは、まだ戦えると思うことができる。
暫くすると、第三騎兵大隊のオルドヴァイ、第五騎兵大隊のファリードも戻ってきた。何れも満身創痍であり、激戦を忍ばせた。
だが、ファリードから、第四騎兵大隊長のカーヴェーの戦死の報告を受けたナーヒードは、剛直な武人の死を悼んだ。
月も傾く頃、シャタハート、第十騎兵大隊長シアヴァシュ、第七騎兵大隊長シーフテハの三人が同時に帰ってきた。流石のシャタハートも瀟洒な白い套衣が血だらけで、色男が台無しであった。だが、凛とした所作には些かの乱れもなく、いつにも増して涼やかな物腰にアナスは流石師匠と感心した。
「無事だったか、アナス」
「エルギーザがいるもん」
二人がかわした言葉はこれだけであった。だが、その短い言葉に、アナスは満足した。