第五章 守護者の一族 -9-
北東部を目指す前に、アナスがイルシュ部族の野営地に寄りたがったので、まずそちらに向かうことにした。どのみち、小一時間程度で到着する位置である。街道から外れ、緑なす山麓を登っていく。
野営地には天幕が幾つも張られていた。天幕の前には数人の女性がいる、アナスは少し安堵しながら、中に入っていこうとした。その足下に、唐突に矢が射掛けられる。アナスの馬が棹立ちになるが、何とか鎮めた。
「何をするの!」
アナスの叫びに、天幕の前で弓を構えていた女が口を開いた。
「こっちの科白だよ、お嬢さん。此処はカシュガイ部族の野営地だよ。余所者が来るところじゃない」
「カシュガイって…!」
アナスは反論しようとしたが、ファルザームが止めた。書き換えられたのだ。此処にいたイルシュ部族の民は何処かに行ってしまった。空き地にカシュガイ部族が入ったからと言って責める筋合いもない。
「いえ、ごめんなさい、悪かったわ」
「わかってくれて嬉しい。…ほら、あんたはさっさと水を汲んできな」
弓を構えた女は、隣にいた奴隷の女に水瓶を渡した。奴隷の女は、よろよろと力なく動いて水瓶を手に取った。随分小さな女であった。何の気なしにその顔を見たアナスは、痩せこけて笑顔のないその表情に一瞬誰かはわからなかった。
だが、馬首を翻して立ち去ろうとしたとき、不意にその女性が誰だかわかった。ジャハンギールの妻のフィラーだった。
「フィラー! 何でこんなことに!」
アナスは馬から転がり落ちるように下りると、従兄の妻の手を取った。フィラーは驚くほど痩せており、目には生気がなかった。
「行き倒れを拾って使っていてやっただけだよ。知り合いかい?」
「あたしの義姉さんよ」
女に悪気はないようであった。奴隷として、金貨十枚を出せば解放しよう、と持ちかけてくる。残念ながら、アナスには持ち合わせはなかった。ちらりと大賢者を見ると、ファルザームは嘆息して金貨を女に手渡す。
「ア…アナスさん…?」
ようやく取り戻したフィラーを抱いて涙ぐんでいると、次第にフィラーの瞳に照準が戻ってくる。
「イルシュを追放されたアナスさんが…どうして…」
「あたしは追放されたことになってるのね」
事実上前も大差なかったから、そのことに不満はない。だが、このフィラーの扱いだけは許せなかった。勿論、フィラーの存在が邪魔なハラフワティーが切り捨てたのに相違あるまい。
「とりあえず、後にしましょ。あたしの前に乗ってくれる?」
水と塩だけ少し与えると、アナスはフィラーを馬に乗せた。痩せ細っているが、フィラーもイルシュの一員だ。馬くらいは扱える。
「まず、目指すはサナーバードじゃ」
ファルザームの宣言に、一行は胸に痛みを感じた。清冽な聖廟管理官のことを思えば、拳を叩きつけたくなってくる。だが、今の彼らにはどうすることもできなかった。
「北に進んでヤズドからタバス、バルデスキャン、トルバデ・ヘイダリーエあたりを通ってサナーバードじゃ。ここらへんがどの国に所属しているのかよくわからぬから、慎重に行くぞ」
常にヒルカの妖精に先行させながら進むことにする。ちなみに、ヒルカの回廊と妖精は一回全てリセットされていた。回廊を使ってナーヒードと連絡を取ろうとした一行は、出だしをこれで挫かれたのだ。
一日北に駆け、街道沿いのシヴァンドの村に宿を取る。フィラーの体調もあるから、早めである。ここらへんはまだエラム王国領であった。祭神が双子神のようであるが、すでに双子神は手を引いて精霊界に戻ってしまっているため、実際は半分ミーディール王国の属国に近い扱いらしい。バームザード王の王権は弱く、神の門との国境近くの都市シューシュの領主ルフラテルの方が勢いがあるようだ。
フィラーには夕食に軽く粥を食べさせ、すぐ休ませた。体力を消耗しきっているため、あまり重いものは食べさせられない。余りに軽くなってしまった義姉の体重に、アナスは涙をこぼした。ジャハンギールを助けられなかったために、この可愛らしかった義姉がこんなに苦労してしまっている。一体どういう過去にされているのか、アナスは聞くのが怖かった。
「アナスよ、気にするでない。わしらはできる限りのことはしてきたし、今も続けておる。そもそもおぬしはあのラウムを打ち倒したのだ。責められるべきはラハムを止められなんだわしらじゃ」
ファルザームはアナスとヒルカがそれぞれ苦しんでいることを知っていた。ヒルカの方は放っておくつもりであった。彼の弟子はあれで強い心を持っている。それでなければ、目をかけて一番弟子にはしない。今は苦しむだろうが、必ず乗り越えて強くなるはずである。
だが、アナスの心の強さまでは測れなかった。まだ十六歳の少女なのだ。この過酷な状況に、心を擦り切らせてもおかしくないのだ。
「ファルザームさま、アナスならば大丈夫ですよ」
弓の弦の調整をしながらエルギーザが言った。
「この程度のことで折れるような鍛え方はしていません。明日の朝まで時間を上げて下さい。それで立ち直りますよ」
本当にそうだろうか、とファルザームは思った。実際、階段を肩を落として上がっていくアナスを見ていると、そう簡単に立ち直るとも思えない。だが、長くアナスとともにあるエルギーザの言うことならば、確かなのであろう。
それにしても、エルギーザこそタフな男であった。あれだけのことがあったのに、この男の行動はいつもと変わりない。本物の戦士なのだろう。心が揺れ動くということがない。
ファルザームは、エルギーザの鋼のような精神を見習うことにした。この先、ひどい現実が待っていることは容易に予想できる。だが、その度に心を揺らしていては、きちんとした対処はできない。少なくとも、光明神の祭司としての役割は果たさねばなるまい。
翌朝、起き出してきたアナスに、外見上の問題はなかった。やや泣き腫らした目をしているが、それくらいである。とりあえず、気持ちは切り替えたらしい。
フィラーには、今日も粥とスープだけ飲ませる。顔に生気が戻ってきたようなので、一安心である。
フィラーにどうして一人で取り残されていたのかを聞くと、キアーの死後、アナスが追放された後に追放処分を受けたと言う。それ以降各地を放浪し、道ばたで倒れていたところをカシュガイ部族に拾われて奴隷になったらしい。ジャハンギールとの結婚もなかったことになっていた。
イルシュ部族がミーディールの王家になっているのは、ミーディール六部族からしたら不満ではないかとも思うが、ハラフワティーの前で逆らうことはできぬであろう。アナスの父、先代族長のキアーは神を裏切った裏切り者になっており、ジャビードはそれを討った英雄であった。それを聞いたアナスは、今までで一番悔しそうな表情になった。キアーを誰よりも尊敬するアナスである。彼女の英雄を汚す者は、誰であろうと許さない。
「ハラフワティー・アルドウィー・スーラーは、いつかあたしが始末してやるわ」
唇を噛み締めながら、アナスは誓った。その瞳には、今までにない強い光が宿っていたのである。