第五章 守護者の一族 -8-
ハラフワティー・アルドウィー・スーラー。
シュメルではイナンナと呼ばれ、アガデ帝国時代にはイシュタルとして権勢を誇った。神の門のベル・マルドゥクに破れ東方に去ってからは、パールサではハラフワティー、ミタンではサラスヴァティーとして知られる。これは言語的に多少違っているだけで同じ呼び方である。
水と豊穣を司る清浄な女神として知られる一方、戦いと舞踊を好む淫蕩な女神としてもまた知られている。かつては神の中の神であるベルの座にいたこともある大神だ。
ただ前にいるだけで、恐ろしいほどの神気の圧力が掛かってくる。心とともに体も折れてしまう。ジャハンギール、ヒルカ、エルギーザの三人は膝をついたところで歯を食い縛っていた。アナスとファルザームも立ってはいたが、状況はさして変わらない。唯一日頃と変わらないのはザリチュくらいであろうか。
「仕事は終わりみたいな?」
雰囲気が変なのを感じとったのか、小声でザリチュは言った。ファルザームの脳裏に一瞬ザリチュなら、との思いも走る。だが、ケーシャヴァと違い、真物の戦いの女神にエネルギーを吸収するだけのザリチュは通じない。神気を帯びた剣に両断されるザリチュを未来視し、ファルザームは望みを捨てた。
「終わりじゃ。ほれ、追加をやる。そなたは十二分に働いた。もう去れ」
ファルザームは小袋をザリチュに与えた。中には金貨が二十枚は入っている。ザリチュは目を丸くした。
「行け。そして、願わくば生き延びよ」
ザリチュはにっと笑うと、懐ろから例の金貨を一枚取り出し、ファルザームに見せた。ファルザームはもう一度褒めた。
「おまえのものだ。おまえはよくやった。色黒き者を十分な時間足止めしたのだ。望んだ通りのことをしてくれた」
ザリチュは金貨を袋に大切そうに入れ、にっと笑うとふよふよと飛んでいった。
その間もケーシャヴァは女神を睨み付けていた。彼はやはりどうしても納得がいかなかった。途中から参加した双子神と違い、ケーシャヴァは初めからこのためにここまで来たのだ。数多の家臣を犠牲にしても、太陽神を復活させ、虚空の記録を改変すればなかったことになる。だが、女神はそこは改変する気はないようであった。もとより、血と殺戮を好む黒き女神なのだ。
「いまの妾は気分がよい。逃げる者は殺さずにおいてやるぞえ」
「やはり、余は王者として逃げるわけにはいかぬ」
ケーシャヴァが円月輪を取り出し、同様に背面の空間に次々と並べていく。女神は興味薄そうにミタンの王子を見た。
「妾の時代、生まれてすらいなかった神の分際で、歯向かうつもりかや」
「旧ければ全てが優れているわけではない!」
無数の黄金の円月輪から、無数の太陽光線が放たれる。女神のもとへ光線は一瞬で到達するが、その直前にそびえる何かによって阻まれた。
「神水の水鏡」
水を司る大神であるハラフワティー・アルドウィー・スーラーである。女神の出した鏡のような水の防護壁は、ケーシャヴァの放った光線を全弾本人に叩き返した。
しかし、ザリチュとやって反射に慣れたか、ケーシャヴァは円月輪を上手く防御に回すことで凌いだ。円月輪から反射した光線は、そのまま展開した円月輪を経由して、全方位から再び女神に襲い掛かった。
女神は宙から宝剣を抜き放つと、瞬時にケーシャヴァとの間合いを詰めた。背後の大地に光線が着弾してるが、気にも止めずに宝剣を一閃する。
「ふ、ふは、余には刃物による攻撃は効かぬ…」
ケーシャヴァの装備する黄金の腰布の特性が、刃物を通さないであった。ゆえに、サーラールの攻撃も、ケーシャヴァには届かなかったのである。
だが、ハラフワティーが、ちんと宝剣を響かせると、ケーシャヴァの体の中央に赤い筋が入った。
「ぱ、ばかな…余が…」
「妾の剣は妾の神気が籠っておる。斬れぬものはないぞえ」
妾の相手がしたいなら、せめて剣を交わせるようになってから来るがよい、とハラフワティーは嘲笑った。ケーシャヴァは体の中央から真っ二つに斬り裂かれ、鮮血を吹き出して絶命した。
「それで、そなたらはどうするのじゃ」
ハラフワティーは妖艶な笑みを浮かべ、宝剣についた紅い血を舐めた。恍惚とした表情になる女神に、アナスは我知らず戦慄する。
「帰らせてもらえるなら、すぐに帰ろうと思う」
ファルザームは撤退を選択した。いま、この面子で戦っても、万にひとつの勝ち目もない。ならば、一度退くしか手はなかった。
「好きにせい、いまの妾は気分がよいからの…ああ、待て」
立ち上がりかけた一行が、ハラフワティーの制止にびくりと震える。女神は恍惚とした表情のまま、ジャハンギールを指差した。
「その男は置いてゆけ。妾が貰い受けよう。なかなか逞しくてよい男じゃ」
女神がそう宣言した瞬間、ジャハンギールは軽やかに立ち上がると、女神に向かって歩き始めた。アナスは慌てて止めようとしたが、意外と早い速度にその手を掴み損ねる。
「お、おいジャハンギール…」
「よせ、アナス。もう、書き換えられておる」
どう書き換えたかは知らないが、虚空の記録を弄くって、ジャハンギールを自分のものにしたらしい。女神は隣に来たジャハンギールにしなだれかかると、満足そうに頷いた。
「もうよいぞ。疾く去ね。もたもたしていたら、妾の気が変わるかもしれぬぞえ」
一行は恐怖に怯えるように逃げ出した。各々の胸中には、どうしようもない敗北感に満たされていた。かろうじて、ニルーファルとジャハンギールを奪われた怒りが彼らを支えていた。それがなかったら、全員ここで挫けてしまっていたかもしれない。
パールサプラから出て、マルヴダシュトまで戻る。馬ならひと呼吸の距離だ。相変わらずの田舎の村である。正直立ち寄りたくはない。ただ、叔父にジャハンギールの報告はしなければならない、とアナスは思った。
しかし、叔父の屋敷があったはずの場所にたどり着いたとき、アナスはそこになにも発見することができなかった。
「え…ここよ、確かにここよね、エルギーザ」
「間違いない、これも…虚空の記録の改竄のひとつなのかな」
ジャハンギールを書き換えるときに、その周囲まで書き換えた可能性がある。いずれにせよ、此処に叔父一家がいないのは確かであった。
「イルシュのみんなは…フィラーはどうなったのかしら」
悄然とうつむきながら、アナスとエルギーザは待ち合わせの隊商宿に入った。先にファルザームとヒルカが宿を取ってくれている。彼らはついでに情報収集と整理も行っていた。
「マルヴダシュトはエラム王国だそうじゃ。エラム王国の都はシラージシュ。ほぼ前のアーラーン南西部に当たるようじゃ。祭神は聞いた雰囲気によると双子神のようじゃな。エラム王国の王は、カシュガイ部族のバームダード」
あの、見た目だけダンディーな残念なおじさんが王様? とアナスは思わず叫びそうになり、自分の手で口を塞いだ。
「アーラーンの北西部はミーディール王国になっておる。都はハグマターナ。祭神はハラフワティーで、王はジャハンギール」
「ジャハンギールが王様!?」
さすがに声を抑え損ねてアナスは叫んだ。だが、ファルザームはそれには構わず、更に続けた。
「アーラーン南東部は、蛇王国じゃ。都はケルマーン。祭神はエジュダハーで、王もエジュダハー」
東部の蛇人の軍は壊滅させたはずなのに、ケルマーンを含めて南東部が蛇の手に落ちていることになるとは、どこまでも好き勝手に弄ってくれたものである。
「おそらく、旧アーラーン王国軍は北東部に逃げ込んでいるじゃろう。アム河を越えてスグドの地まで行けばハラフワティーの力も及ばぬし、逃げ込めるところはそこしかない」
アーラーン北東部から向こうは、かつて至高の天使であったバンベドが、堕落して悪魔になり支配している土地と呼ばれているらしい。要するに、光明神のことである。ならば、その悪魔の土地ならば、光明神の力がまだ生きている可能性がある。
とにかく、一度態勢を立て直して、それからの話であった。ハラフワティーに全てをひっくり返されたが、まだ死んだわけではない。此処からどうやって取り戻すか、それを考えなければならなかった。