第五章 守護者の一族 -7-
神の顕現を破壊したとしても、精神界にいる神の本体を殺したことにはならない。だが、その顕現でもほぼ不死身に近いので、顕現を倒すだけでも大したものではある。更に、アナスの場合は最善なる天則の力で虚空の記録を上書きできるため、顕現を破壊された神は二度と物質界に干渉できなくなる。それは、実質的に神として殺されたも同じであった。
アナスがラウムに勝てたのは、初見であったことも大きいが、ラウムがケーシャヴァみたいな直接的な攻撃の魔術を持っていなかったことも大きい。時戻しみたいな魔力による干渉はカットできても、さすがに高エネルギーをぶつけられたら同程度のエネルギーが必要になる。要は、相性がよかったと言えるであろう。
ラウムを排除したアナスは、ラハムの様子を窺いに玉座に向かった。神官たちがまた血塗れになって倒れ伏しているのは、大抵エルギーザかジャハンギールに射られた者たちだ。
だが、玉座に到達したアナスは、そこに信じられぬ光景を見た。
「まさか!」
神官たちの屍が累々と続いた後に、ファルザーム、ヒルカ、エルギーザが倒れていた。ジャハンギールだけがラハムと相対しているが、その顔色はすでに青白い。
「ラウムを倒してくるとは、恐ろしき神殺しよ。しかし、少し遅かったな。儀式はもう終わる。そなたらは、あの悪魔が誰の神性を元にして作られたかもう少し考えるべきであった」
ザリチュの特性は双子神の封印のために与えられたものだ。生命を育む力に対して吸い取る力を持っているのだと思っていたが、それだけだはないらしい。
「神の力が悪魔以下のはずがない。我とてエネルギー全般の操作くらいできる。ほれ、その男もよく耐えたがそろそろ限界か」
敵味方問わず生命エネルギーを吸いまくったラハムに、一番体力のあるジャハンギールが最後まで残っているようであったか、その力も尽きようとしていた。
「この!」
アナスは再び火柱を自らにまとわせると、速く、速く、速くと呟きながら急加速でラハムに踏み込む。ラハムはその人智を超えた速度に反応しつつも、ついては行けない。エネルギーを操る力も、アナスの神火は操れない。そこもザリチュと同じのようだ。
刃がラハムに届きそうになったとき、突如としてアナスとラハムの間に強烈な神気を湛えた光柱が立った。その輝きは璧玉のようでもあり、瑪瑙のようでもあった。アナスの瑠璃の護符が激しく青く輝き、神気からのフィードバックを防いだ。あんな強烈な神気を当てられたら、常人はおかしくなってしまう。
「ふはは…神のご帰還だ…これで、偽りの世界が終わる」
よろよろと神官長がよろめきながら現れた。ラウムに生き返らされた後で、唯一生き残った神官のようだ。
「激しい神気…並の顕現ではない。さすがに大神級の…いや、これは?」
徐々に収まりつつある光の中に、長い髪を翻した清冽な美女が凛として立っていた。サナーバードの聖廟管理官、ニルーファルだ。だが、その双眸は黄金色の渦のような輝きに満ちており、人のものとは思えなかった。
「あーはっはっはっはっ!」
突然ニルーファルは笑い出した。清冽な雰囲気は崩れ、むしろ妖艶な気配を漂わせている。
「戻った…戻ったわえ。忌々しいが、ネボに頭を下げた甲斐はあったと言うものぞ!」
「おまえは、イナンナ! 何故、お前が此処に。お前は神の門に封印されているはず」
ラハムが慌てていた。アナスは油断なく構えていたが、そろそろと動いて、倒れている仲間の様子を探る。一応、みな虫の息だが生きてはいるようだ。ならば、とアナスはタルウィとの戦いのときに吸収して余ったエネルギーを、少しずつ全員に配る。とりあえずは動ければいいのだ。
「イナンナ…じゃと。アガデではイシュタル、アーラーンではハラフワティー・アルドウィー・スーラー、ミタンではサラスヴァティーと呼ばれた紛れもない大神じゃ」
呻きながら大賢者が立ち上がる。その様子を見てアナスはほっとした。何だかんだでファルザームが頼りだったのだ。いま放り出されては何をしていいかわからない。
「あーはっはっ。辛気くさい顔をしているのは、ラハムかえ? そうじゃな、協力感謝するぞえ。ネボから神の門のベル・マルドゥクに根回しをして、虚空の記録を書き換えてまで封印の場所を入れ換えたのじゃ。奴らもお堅い兄上は苦手でな。妾の協力と同時に太陽神の身柄も確保できるって喜んで協力してくれたわえ」
「バカな! もともとこの計画はネボから来たもののはず…まさか、初めから利用するつもりだったのか!」
異様な雰囲気を嗅ぎ取ってやってきたケーシャヴァが叫んだ。彼らとしても、ハラフワティー・アルドウィー・スーラーを解放するつもりではいた。だが、それは、太陽神が磐石の体制を作ってからのつもりだった。権力指向が強く、自由で奔放で殺戮と快楽を好むこの女神を、首輪も着けずに野放しにする危険を冒す気などなかったのだ。
「そう、そうじゃ。初めから利用していたのじゃ。わざわざネボがババールなんて男に力と知識を与えて、生き延びた若い神の中から適当なのを見繕って封印の解除を唆した。旧い神はみな封印を食らって月神に取り込まれたからの。そなたみたいなペーぺーでも、いないよりはマシだったのだわえ」
ハラフワティー・アルドウィー・スーラーにしてみれば、ケーシャヴァなど尻の青いひよっ子だ。双子神は自分よりも更に旧いが、力は自分のが上である。畏れる必要もない。
「おや、怒ったかえ? やるのかえ? 妾が太古戦いの女神でもあったことを知らぬのか、大胆なやつじゃ。当時はそなたの国の雷神ですら妾を避けて歩いたものを。男として、屈辱的な死を遂げてもいいのかえ」
うっすらと紅い唇がつり上がると、女神はケーシャヴァを挑発する。ケーシャヴァは怒りに震えたが、神としての格が違うのはわかっていた。彼はそこで、ラハムに助けを求めた。
「よいのか、ラハムよ。太陽神を解放してこそ、光明神を駆逐してそなたらの過去を取り戻せるのではなかったか」
「それだが、我らの計画していた太陽神復活に即しての虚空の記録の改変は滞りなく進んでいるようだ。ただ、太陽神のところが、水と豊穣の女神に代わってしまったが」
ラハムは計画は順調に進んでいることを告げた。彼は女神と対立する気はなさそうであった。本来双子神は戦闘向きの神ではないのだ。本物の戦いの女神と事を構える気はないらしい。
「手違いはあったが、目的は達したのだ。これで、月神は神の座から逐われた。もう物質界には未練はない。こちらは消えさせてもらうよ、イナンナ。構わないかな」
「よいわえ。妾に敵対しないなら、好きにするがよい。妾を復活させてくれたことには、感謝をするのじゃ」
女神は寛容に許しを与えた。ラハムも最後に感謝だけ伝えると、徐々にその存在感を薄れさせ、消えていく。
納得がいかなさそうなケーシャヴァだけが残された。