第五章 守護者の一族 -2-
ニルーファルが違和感を持ったのは、眼下にいるのが、ここにいるはずがない人物であったからである。
マゴイ部族の長老にして、高位の神官であるハーミ。彼が引き連れているのも、マゴイ部族の神官たちである。マゴイ部族は、ミーディール王国時代からの由緒ある祭司の一族だ。その部族名から採って神官をマグと呼ぶくらいである。
神官たちは、パールサプラの慈悲の丘の玉座の神殿で誰かを待っているようであった。こんな人のいない場所にいること自体が不思議な話である。
鷹の鋭い視力で高空から捉えていたが、問い質すために降りるべきか否かニルーファルは迷った。だが、迷った結果ニルーファルは舞い降りることにする。ハーミは高位の神官であるし、何かしら重要な事態で動いているかもしれなかったからだ。
「ハーミ神官長」
地上に降りると、ニルーファルは鷹の姿から人間に戻った。すぐに白い神官服を着た渋い中年男に話し掛ける。
「パールサプラにいらっしゃるとは思いませんでした。ファルザームさまのご命令でしたか」
ハーミと神官たちはひどく驚いたようであった。若い神官は狼狽えると口を開こうとしたが、ハーミが目で抑えて止める。
「ニルーファルは、大賢者のご指示でここに来たのか?」
「はい。パールサプラの状況を調査してくるようにとのご命令です。神官長も同じでございますか?」
「うむ、非常に高度な案件なので、内密にするように。ところで、一人で参ったのか?」
「はい。鷹に変身して参りましたので」
「なるほど。鳥に変身する魔術は、パールサプラの神官の流れにしか扱えぬ。同様に、こう言う魔術は、ミーディールの神官の流れの方が得意だと知っておるか」
ハーミの左目が、黒から黄金の輝きに変わった。その瞳に射すくめられたニルーファルは、ぐらりと体を傾かせる。
「邪眼!?」
体の自由が効かず、ニルーファルは地面に崩れ落ちた。意識が繋ぎ止められず、ヒルカと意識を同期しようとした瞬間に途切れる。
ハーミはニルーファルが眠ったことを確認すると、部下に命じて縛り上げ、魔術を封じさせた。それから、機嫌悪そうにニルーファルを蹴飛ばした。
「この雌狐が! ファルザームの手先が小癪な真似を」
神官たちが、不安そうな表情で言った。
「大丈夫でしょうか。計画が大賢者に漏れていたのでは…」
「ふん、神官の大半は我らが占める。計画通りミーディール六部族を動かせば、ファルザームには何もできまいよ」
憎々しげにハーミは言った。
「本来、我らミーディールの神官は、太陽神に仕える祭司であったのだ。我らはパールサとエラムの民に謀られた。今こそ、歴史の歪みを糺すときだ」
そして、ハーミはニルーファルの頬を片手で掴むと、侮蔑の言葉を投げ掛けた。
「色黒き者の求めに応じ、ミーディールは太陽神を取り戻す。そして、アーラーンという間違った歴史を抹殺し、ミーディールの歴史を作るのだ」
「ミフルに光を!」
神官たちは、一斉に拝礼した。ハーミは歪んだ笑みを浮かべると、ニルーファルを打ち捨てる。若い神官が進み出ると、ハーミにニルーファルの処遇を問うた。
「その娘はいかが致しますか? 計画の邪魔になるようでしたら、ひと思いに殺した方が…」
「いま殺すと何かあったとファルザームに気付かれる。ま、太陽神が復活されたら、虚空の記録を書き換えて、そやつを太陽神の信徒にすることもできる。暫く閉じ込めておけ」
ハーミはニルーファルを連れていかせると、再びケーシャヴァの到着を待った。背後の神官たちは、静かに祈りを捧げ続けた。
アナスは、ヒルカの顔色が変わったのに気付いた。気掛かりでもあるのか、何かを考え込むようにヒルカは目を細めている。
「どうしたの。問題でも起きた?」
「いえ…ニルーファルさんから一瞬回廊に接続要請が来たんですが…」
その一瞬で切れて以降、再接続がないと言う。しかも、こちらから繋げようとしても繋がらない。何らかの事情で出れないとしても、何かがあったのは確かだ。
「大賢者に見に行っていただいた方がいいんじゃないの?」
「それなんですがね、ラーイェンに六将ババールがいるらしくて、その始末だけつけたいようなんですよね」
ケルマーンからマハン、そしてラーイェンと東の戦線は順調に推移している。それだけに、不確定要素に慎重になっているのかもしれない。
「とりあえず、呼び掛けは継続しますよ。それと、申し訳ありませんが、出立を急ぎましょう」
アナスとエルギーザに異論はなかった。一行は、タルウィとザリチュに別れを告げると、マルヴダシュトに向かうことにする。アーバーディ・タシュク村からは、馬で飛ばせば二日もあれば行けるだろう。
一日、馬を走らせる。ニルーファルとは、まだ繋がらない。回廊が切れたわけではないので、生きているのは確かである。心配なので、ヒルカは妖精を派遣することにする。
街道沿いにタシュク湖の北から西に回り、夜になる。一行はソルタン・シャール村の隊商宿で宿を取ることにした。明日はバムー山に向かい、まずはイルシュ部族の放牧地を探さねばならない。
バムー山は、アーラーンにしては珍しい緑に溢れる山だ。ヒナゲシ、チューリップ、サクラソウなどが咲き乱れる美しい風景がある。野生の羚羊や山羊なども棲息しているし、イルシュの羊や馬を育てるにもいい環境である。が、胡狼やヒョウ、キツネなどの肉食獣も多いので、油断は出来ない。
翌朝、ヒルカはよく眠れなかったようで、赤い目をしていた。妖精はパールサプラに到達したが、結界のようなものが張られており、近付くことができない。焦慮は募ったが、今は進むしかなかった。
街道を西に進むが、途中から山に入る。アナスとエルギーザには、懐かしい光景だ。パールサ人の故郷とも言える土地なのだ。羊を追う少年を見つけ、ジャハンギールの居場所を聞く。少年は、アナスとエルギーザを知っており、好奇心に満ちた目を向けた。そして、夏を過ごす野営地の一つを挙げる。
アナスは礼を言うと、ビスケットを取り出して与えた。少年はあっと言う間に食べ終え、邪気のない笑顔で羊を追っていく。
「子供はいつもお腹を空かせているのよ」
アナスらしい発言である、とエルギーザとヒルカは認めた。
野営地までは、馬ですぐであった。夏らしく、風通しをよくした天幕が、高原の一角に点在している。天幕の前に座り込んでいた老人たちが、アナスとエルギーザを見てひそひそと会話していた。
暫く進むと、女たちが出てきた。先頭の恰幅のいい中年女は、アナスとエルギーザを見ると目を丸くして口笛を吹いた。
「珍しいね、先代の娘さんがここに来るなんて」
「久しぶりね、ラーメシュ。ジャハンギールに話があるのよ」
女は、ヒシャームの姉であった。イルシュの女たちを実質的にまとめている女丈夫である。彼女の迫力は、ヒシャームやシャタハートも逃げ出すくらいである。ただ一人、笑顔で優しいエルギーザだけには、割りとラーメシュも甘かった。
「とりあえず、入りなさい。男たちは、狩りに出掛けていていないよ。帰ってくるまで、紅茶でも飲みながら話を聞かせておくれな」