第五章 守護者の一族 -1-
ニルーファルに、パールサプラを偵察するように大賢者から命令がきた。
パールサプラは古い遺跡で、いまはろくに住む人もいない。砂漠の中に、埋没している。かつては、ここに古い祭祀の神殿があったと言うが、今では神殿も置かれていない。
「慈悲の丘に行くのですか」
ヒルカは心配そうだ。だが、アナスから、タルウィ解放に使った残りの余った生気を分けてもらったニルーファルは元気であった。肌に瑞々しさも戻って嬉しそうである。
「先生からの直接の命令ですからね、直接の」
ニルーファルは新たなやる気に満ち溢れていた。未だ役に立ったとは言い難いニルーファルであるが、挽回の機会はきたのである。アナスには負けていられないのだ。
「あたしたちはどうしろって?」
アナスは訊ねたが、ヒルカもニルーファルも首を振った。わからなかったのだ。
「パールサプラまでは変化していけば、一日もかかりませんわ。報告までは、ゆっくりしていたらよろしいのでは。タルウィさんとザリチュさんは湖の復活に忙しいようですし、三人はアーバーディ・タシュク村にいらっしゃったら」
ニルーファルの言葉はもっともだったので、アナスたちは島の祠で忙しそうにしているタルウィとザリチュに断って村に向かうことにする。村人たちの悩みも解決したし、喜んでくれるだろう。
「それにしても、ケーシャヴァと双子神ですか」
大賢者から話を聞いたヒルカは、ケーシャヴァのラーイェン不在も知っている。そのためのパールサプラ偵察だと。
「ミフルが封印されていたとは、知りませんでしたね」
光明神と、ミフルとハラフワティー・アルドウィー・スーラーは、三面一体の神として考えられていた。要するに、その二柱の神の権能を取り込んだと言うことなのだ。
光明神は、太陽神の面もあるが、それはもともとミフルの神性であり、光明神の本性は月神である。太古は月神のが太陽神より格が上であった。旧き神である光明神が、月神としての神性であっても不思議はない。
「パールサプラなら、うちの連中がいるあたりも遠くはないわね」
アナスは確認するようにエルギーザに言った。銀髪の射手は首肯した。ザグロス山脈の高地はカシュガイ部族が多くいるところだが、シラージシュの北にはイルシュ部族も点在している。無論、アナスもその付近で暮らしていた。故郷と言える。だが、イルシュの現族長、つまりアナスの叔父のお陰で、いい思い出がない。
「マルヴダシュトの冷凍菓子の薔薇水掛けが懐かしいわ」
「アナスの記憶は大体食べ物に根付いてるよね」
エルギーザの発言は尤もだったので、アナスは反論しなかった。まず地下水路から復活させるべきとか言っているタルウィたちを置いて、塩の原野を歩いて戻る。どうせなら、水を戻す前に塩を回収できればいいのにと思うが、この広さと量では難しい。
アーバーディ・タシュク村の村人に経緯を説明すると、一行は大層恐縮された。偉い人だと思われたのであろうが、別にアナスの公式な役職は遊撃隊隊長なので、さほど偉くはない。ナーヒードが金を出してくれなければ、悠長に旅など出来ない懐具合だ。
「竜族の王が通った跡を確認しなさいと命令がきました」
ヒルカの精霊は、竜族の王やケーシャヴァの近くには近付けない。探知されて消されるのだ。だが、通りすぎた跡なら、確認できるであろう。
夕刻に指令を受けたヒルカは、妖精の配置を移動する指示を出すと、翌朝の報告を大賢者に約束した。
翌朝、ヒルカは暗い顔でファルザームに妖精の見ている映像を見せた。
「バーフト市までは全滅です。生き残っている人は見かけません。特に、このバーフト市の城門がひどく破壊されています。衝撃波が市の中央まで抜けています。どんな魔術が行使されたのか。師匠でもここまではできないでしょう?」
(竜族の真言じゃろう。太古の連中は、意力の本当の使い方をよく知っておる)
ファルザームは消沈していた。ナーヒードに報告はしなければならないが、とても映像を見せられない、と寂しそうに言った。
(しかし、イルシュの故地がマルヴダシュトだと言うのは忘れておったな。考えてみれば、パルサプラはアーラーン王国の発祥の地であった。守護者がその近くにいるのは当然か)
ファルザームは、思い付いたように言った。
(アナスにマルヴダシュトに向かってもらうかの。ジャビードの力を借りねばならぬかもしれん)
「イルシュの族長のですか? 嫌がりそうではありますが」
(仲がよくないのか?)
「最悪らしいですね。本来跡を継ぐべき者を優遇したら、自分の地位が危なくなるんです。当然の措置かと」
(俗物じゃのう。弟がそんなでは、キアーが泣いておるわ)
しかし、それでもアナスに向かってもらいたい、と大賢者は言った。いま、パルサプラ周辺で動かせる兵力で、最も頼りになるのがイルシュの騎馬隊なのだ。打てる手は打たねばならない。
「なに、あたしに何か言いたいの?」
朝食のハーブ粥を頬張りながら、アナスが訊ねてきた。視線を感じたのだろうか。
「師匠がですね…」
仕方なく、ヒルカは仔細を説明する。初めは黙って聞いていたアナスであったが、次第にその表情は悪化していった。
「あたしの言うことなんて、あの強欲親父は聞かないわよ」
「まあ、必ず説得しろと言うわけではないですし」
渋るのも当然なので、ヒルカはそう言わざるを得なかった。仕方なく、アナスは頷いた。
「冷凍菓子の薔薇水掛け奢ってよね、ピスタチオ入りのやつ」
「好きですね、アナスさん…」
それくらいでよければ、何杯でも奢ります、とヒルカは言った。アナスは約束よ、と微笑むと、あーあと伸びをした。
「まさか、本当にマルヴダシュトに行くとはねえ。エルギーザも久しぶりなんじゃない?」
「今回の徴兵も、シラージシュから参加だったからねえ。マルヴダシュトの空気は、ぼくでも好きになれないよ」
シラージシュは、パルサ州最大の都市である。葡萄や蜜柑、綿花や米も栽培され、大きな寺院や建築物もあり、人口は多い。
対して、マルヴダシュトはシラージシュの北東五千ザル(約五十キロメートル)ほどに位置する鄙びた村である。少しばかりの畑はあるが、荒野の中にぽつんと存在する村であり、特に目立った特産はない。近くにパルサプラの遺跡があるくらいである。
「何もないところよ。イルシュでいるのは、叔父の親族くらい。他の連中は、ザグロスの山中で馬や羊を追っているしね。一緒に暮らさない長では、信頼はされないわ。でも、金は持っているのよ。イルシュはそんなに裕福な部族ではないし、叔父に逆らえば生活が成り立たない人もいるの」
部族のまとめは、ルジューワとジャハンギールの兄弟に任されている、とアナスは語った。長のジャビードは、マルヴダシュトから動くことはないらしい。だが、その任されているルジューワが、頭まで筋肉のバカだからどうしようもない、と憤りも見せた。それに比べたら、弟のジャハンギールはかなりましらしい。
「先にジャハンギールと話すわ。可能性があるとしたら、それしかないもの」
あまり期待はしないでね、とアナスは肩をすくめた。