第四章 蛇の侵攻 -8-
マハンの南に、ミタン人が阿修羅の棲処と呼ぶ地がある。岩の峰に囲まれた空間であるが、三週間ほど前にミタン軍がアーラーン軍に撃ち破られた地でもある。
その土地にいま、黒き門が開こうとしていた。
街道に突如現れた門には、繋がるべき建物というものはなかった。ただ、門だけがそこに存在しており、蒸気のような煙を上げていた。
門は少しずつ開こうとしていた。そして、門の中から光が漏れ出していた。
門が開くと、星の輝きが周囲を照らした。光の中から老人が現れると、老人は周囲を見回した。
「まさか、このわしが殺される羽目になるとはな」
老人は髯を撫でると、額に第三の目を開いた。
「虚空の記録によると、灼熱の悪魔と渇きの悪魔が亜神に昇格し、新たなる完璧なる水と不滅の植物の加護を得たとある。これは異常な事態じゃな。虚空の記録を書き換える特異点が、新たに出現したことに他ならない」
老人は第三の目を閉じると、深く考え込んだ。
「書記官の計画にはないが…不確定要素が紛れ込んでおるようじゃ」
沈思から醒めると、老人は宙に浮かび上がった。
「王子の身が心配ではあるが、双子神がついている以上、何とかするであろう。わしはラーイェンに張り付いている厄介な男を何とかしなければならん。善い思惟の力は、計画上最大の障害になる」
そして、老人は南へと飛び去った。黒き門は蒸気とともに消え失せると、後には静かな岩肌だけが残った。
ラーイェンの遺跡に立て籠もるミタン軍の前線指揮官であるアジットのもとに、王子の副官であるガウムディーから連絡が入った。六将ババールが帰還したため、至急参集せよという知らせである。
アジットが副官の部屋に行くと、そこにはすでに他の前線指揮官たちが集まっていた。アシュリータ、ジャガド、ダヤラムの三人である。アジットは二千の騎兵を、アシュリータは二千の弓兵を、ジャガドとダヤラムは三千ずつの重装歩兵を率いている。部屋にガウムディーの姿はなく、三人は暇そうに立ちすくんでいた。
「おい、敗走した兵の生き残りが、六将はみな討ち死にしたと報告していなかったか?」
アジットは小声でアシュリータに聞いた。アシュリータはかぶりを振った。
「そう聞いていたが、わからんよ、あの老人は。死ぬことを忘れたと噂されているお方だぞ」
暫くすると、副官が慌てたように戻ってきた。その後ろに続いて、見慣れた老人が元気よく歩いてきた。どう見ても六将ババールであった。死人には見えない。ほら、やっぱり、とアシュリータが呟いていた。
「ファルザームは追い払った。暫くは近寄ってこないじゃろう」
「まさか、鷹の姿で飛び回っているとは思いませなんだ」
老人と副官が何か話していた。それから、ババールは鋭い目で四人を睥睨すると、口を開いた。
「ラーイェンの北東およそ千六百ダンダ(約二千九百メートル)の位置に、蛇人の軍団およそ七千ほどが滞陣しておる。彼奴らは、アーラーンの軍一万五千と向かい合っておるが、これと戦えば恐らく蛇人の軍に勝ち目はあるまい。ゆえに、わしらは今から蛇人の軍を救援に向かう」
さすがに四人の前線指揮官に動揺が走った。蛇人を救援するとは、ババールは気が狂ったのか、と思ったのである。
「わしの指示は王子殿下の指示である。そうだな、ガウムデイーよ」
「はっ、殿下は確かにそうおっしゃいました。ババール殿が帰還されたら、その指示に従うように、と」
副官の言葉に、四人は思い出した。どんなに疑問があっても、上官に命令されたことを遂行するのが軍人である。彼らは命令を了承すると、出陣の時刻を問うた。
「明朝払暁に出発じゃ。第一陣はジャガド、二陣にダヤラム、三陣にアシュリータ。アジットは先行し、敵の騎兵を牽制せよ。但し、決して深入りするな。敵の騎兵とまともに交戦したら」
ババールは厳しくアジットを見据えた。
「貴様は死ぬ」
冷たくババールは言い放った。アジットは我知れず戦慄した。
「敵の騎馬隊の将は、六将のスミトラ、アグハラーナ、アクランティを討ち果たしておる。並みの武勇ではない。対峙したら死ぬと思え。それを頭に入れて、まともに戦うな。だが、相手をまともに動かしてはならぬ。あの騎馬隊を縦横に動かしたら、歩兵は陣を整えられん。勝利の鍵を握っているのはおのれだと思え、アジット」
難しい注文をしてくれると思ったが、不思議と嫌ではなかった。かの翼持つ者と呼ばれたアグハラーナの赤き神鳥騎馬隊ですら敗れたという敵の騎馬隊とどう交戦するか。それが頭を満たしたのである。
未明、アジットの騎馬隊二千は出動した。鍛え上げた騎馬隊は、すぐに蛇人の軍団を視認する位置まで到達する。無視していたから気付かなかったが、思ったよりラーイェンから離れていない。そして、すぐ側にアーラーンの軍団の陣が構築されている。こんなところまで迫られていたのかと思うと、アジットはぞっとした。そう言えば、最近は食事の量が少な目な気がしていた。これは、本国との補給線が切られているのではないかと思うと、肌が粟立つ。
アーラーン軍の野営地からは、馬の気配が感じられなかった。騎馬はあそこにはいない。騎馬隊が何処かに潜伏していると考えると、アジットは戦慄した。すぐに斥候を出すと、敵の騎馬隊の捕捉に入る。この位置に長くいるのはまずいので、斥候との合流地点を決めて本隊も動くことにする。
太陽が昇ってくる。王子の軍であることを示す黄金の円月輪の旗が、朝日に照らされて輝く。その輝きを受けると、誇らしい気持ちになってくる。
右側に嫌な気配を感じた。アジットは即座に四隊に隊を分けると、四方向に散開した。唐突に出現した騎馬隊が、そのうちの一隊を追っていく。八の旗が見えたところを見ると、第八騎兵大隊のハシュヤールであろう。
敵の数が千騎ほどであることを確認したアジットは、残りの三隊と連携してハシュヤールを押しつつもうかと考えた。だが、背筋に走った感覚に、即座に全部隊予定地まで逃げろと命令を変更した。
飛び出してきたのは、三と七の旗を掲げた千騎ずつの部隊であった。第三騎兵大隊のオルドヴァイと、第七騎兵大隊のシーフテハか。三千の騎馬隊が、まるでひとつの頭を持っているかのように連携し、迫ってくる。ナーヒードはここまで優秀な指揮官だっただろうか。冷や汗を掻きながら、アジットはその顎を振り切った。
危ないところだった。ハシュヤールに気を取られていたら、今頃全滅していたかもしれない。必死に集合地点まで駆けながら、アジットはババールの言葉が冗談ではないことを悟った。敵の騎馬隊の主力は、シャーサバン騎兵大隊のはずだ。だが、その実力は、以前より数段上がっている。
耐える戦いになる。
地獄のような戦闘を予想し、アジットは身震いした。幸いなことに、まだ彼は、遭遇した騎馬隊がほんの序の口てあることを知らなかった。