第三章 ラーイェンの悪魔 -10-
エルギーザが黒き矢を使って悪魔を倒すと言ったとき、正直なところアナスはほっとしていた。あの悪魔は、人間的すぎる。おバカだが、その心情が理解できてしまう。そんな悪魔を手にかけたとき、自分が罪悪感を覚えずにいられるかというと、自信はなかった。かと言って、ヒルカやニルーファルに攻撃力は期待できず、エルギーザの矢も悪魔には通じない。自分がやるしかない、と思っていたのだ。
それが、エルギーザが黒き矢を取り出したことで解消された。ヒシャームの黒槍と同じ天空と風の王の加護のついた矢とエルギーザの腕をもってすれば、単純な戦闘能力の低い悪魔の女の子くらい大した相手ではないだろう。
だが、ほっとした瞬間、アナスは自分が安心したことに気が付いてしまった。自分でやると決めたことを他の人に任せて安心してしまった自分がいることに、気が付いてしまったのだ。
「いや、待ってよ、エルギーザ」
声が出たのは反射的であった。だが、声を出した瞬間、アナスは自分でも思っていなかったほど、安心してしまった自分が許せなくなっていることを感じた。
「あたしがやる…エルギーザは下がっていて」
だから、そう宣言したとき、その真紅の瞳はすでに決意に彩られていたのだ。
「いいのかい?」
エルギーザは優しく問いかけた。エルギーザは、いつも優しい。だが、甘やかされてばかりはいられない。アナスは戦士として生きるさだめである。父親の後を追いかけると決めたあの日から、彼女に甘えは許されないのだ。
「あたしがやることよ」
エルギーザは、少し哀しそうに頷いた。
正面には、青白い生命の奔流を噴き上げる渇きの悪魔がいる。自分の命をぶつけてくるかのような一撃を食らったら、人間なんてどうなるかはわからない。だが、ここで逃げ出すわけにはいかない、とアナスは思っていた。この戦いは自分が望んだものである。
「アナスさん!」
灰色の髪の神官の叫び声が聞こえた。いつもは一言多い彼だが、たまに侮れない一言も漏らしてくれる。
「あなたは最善なる天則だ。あなたの選択は、必ず正しいことになる! どんな選択をしたとしても、あなたの選択は間違わない! 結果的には、必ずそれが正しい選択になります!」
気休めだとしても、アナスはうれしかった。なかなかいい気休めを言ってくれる。
右手を上空の悪魔に向ける。黒い翼が大きく羽ばたき、渇きの悪魔は金切り声をあげる。
「ああああああ! あたしの、あたしたちの前に、立ち塞がるなああ!」
青白い光が爆発したかのように煌めき、悪魔が突進してくる。渇きの悪魔が最後に選択したのは肉弾戦。本当に、自分の命をぶつけてきた。おのれが生命の輝きを両拳に集め、爆発的に高まった輝きを先頭に飛び込んでくる。
「神様が間違えた! 精霊も間違えた! 間違えた過去を、現在を、未来を! あたしが叩きなおしてやるぅぅぅ!」
アナスは右拳を悪魔の両拳にぶつけるように叩きつける。
「火柱!」
瞬間、アナスの右拳から、全てを焼き尽くすかのように、膨大な量の清冽な火焔が放たれる。普通の赤い炎ではなく、その火の色は青い色合いを帯びていた。
「ぎゃああああ!」
渇きの悪魔は絶叫を上げた。
「痛い、熱い、熱いぃぃぃ!」
青白い輝きも消え、ザリチュは転げ回った。黒い翼が一瞬揺らめくと、みるみるうちに焼け落ちていった。そして、引きちぎれるように振られていた尻尾も、焼き尽くされて消えていく。
「マジ熱い! 死ぬ、死ぬし!」
のたうち回りながら、ザリチュは叫んだ。転がって、転がって、砂まみれになりながら渇きの悪魔は痛みを訴えた。
「死ぬ…し…あれ?」
いつの間にか炎が消えていることにザリチュは気がついた。翼と尻尾は焼かれたが、それ以外の体に炎の損傷はなかった。
「あれ…みたいな?」
ヴァリが進み出てくると、アナスの肩に手を置いた。この聖人は、アナスがやったことが何であるか、この場で唯一わかっていたのである。
(その悪魔は…元悪魔は、精霊に戻された。それが、最善なる天則の、アナスの選択である)
ヒルカとニルーファルが、唖然として口を開けた。精霊を悪魔としたのは光明神である。つまり、それを打ち破って元に戻すには、神の力が必要なのだ。あの瞬間のアナスの青い炎には、その神の力が宿っていたということになる。
「あれが本当の…最善なる選択の…アシャの神火なのか」
ヒルカはよろよろと立ち上がった。そして、砂だらけになって茫然としているザリチュに話しかける。
「で、どうしますか、あなたは。精霊に戻りたかったみたいだけれど、もう戻ってしまいました。わざわざ聖なる木を枯らす必要もないでしょう」
ザリチュは地面に座り込みながら、ヒルカを見上げた。
「あたし…どうしたらいいの…みたいな? 悪魔の力も奪われたし、もう仕事しようと思ってもできないし、ってゆーか、悪魔じゃなくなって、タルウィとの接続が切れちゃったし、マジどうしたらいいのかみたいな!」
ザリチュの生命を吸い取る力は、悪魔でなくなったときに奪われたらしい。もともと、双子神を封印するために与えられた力だ。元に戻ればなくなっても不思議じゃない。
「あたしとの接続が切れたから、タルウィはあたしが死んだって思っているかも…みたいな? そうしたら、あの子切れて泣いて激怒して、暴走して火の玉になってあちこち蒸発させてまわりそうな…みたいな?」
物騒なことを言い出したザリチュに、ヒルカは青くなった。折角悪魔を一人解放したのに、片割れにそれ以上に暴れられては苦労が無駄になる。
「お、おい、そのタルウィさんはいまどのあたりにいるんですか! 一刻も早く止めないと、なんかすごい嫌な予感がするんですが!」
ザリチュも首を捻りながら記憶を掘り返した。
「うーんと…タルウィはラーイェンから西に向かって…たぶんいまタシュク湖とバフテガーン湖で水がたくさんあるって興奮していたみたいな?」
「バフテガーンか。あのあたりは鳥や動物もたくさんいて、結構危険な地域だよ」
狩人らしく、エルギーザが口を挟んだ。
「ここから行くとしたら、単純に九十パラサング(約五百キロメートル)くらいはありそうだねえ。馬を飛ばしても、十日くらいはかかりそうかな」
「妖精をあのあたりに飛ばしてみますが…」
ヒルカとエルギーザは難しい顔をした。十日も経っては、タルウィも移動するし、何をするかわからない。真面目なタイプで、しかもザリチェに対しての依存心が高いとなると、導火線に火が付いた爆弾を放置しているようなものだ。
「わ、わたくしが鷹に変化して偵察に行きますわ」
まだ立ち上がれないニルーファルが言った。ヒルカは首を振ってニルーファルを窘めた。
「無理はいけませんよ、ニルーファルさん。とりあえず、今日は休息が必要です。明日の回復具合を見てからにしましょう。ザリチュさんの身の振り方もあるし…一度、神殿の中に入って休息とお話をしましょうか」
ヒルカにしては真っ当な意見であった。