第三章 ラーイェンの悪魔 -7-
エルギーザの弓は正確で速い。ヒルカもそれはわかっていたが、こうしてアナスと比べるとよくわかる。
そもそも、鷹並みの視力を持つエルギーザは、常人よりかなり遠くを見る。しかも、音や気配などの探知能力も図抜けているし、ほとんど痕跡のない僅かな足跡から、獲物を辿ることもできる。
その異常な探知能力で素早く獲物を索敵すると、ヒルカが瞬きするより早く、もう一射している。それが、遥か遠くまで飛んでいく上に、狙いを外さない。
一射しかしないのは、それだけで仕留められるからであって、その気になればエルギーザは馬上で駆けながら、ひと呼吸で十連射できると言う。馬術と弓術が遊牧民の戦士のたしなみだとは言え、彼のそれは常識の範囲を超えていた。
「アナスもたくさん食べるから、これくらいできるようになるよ」
エルギーザは常に絶やさぬ笑顔で言う。しかし、ヒルカにはわかっていた。アナスは弓でそこまでの域には到達しない、と。
「もしもし、ヒルカさーん、何か失礼なこと考えている顔をしてるよねー」
「ちっ、アナスさんも最近侮れないですね!」
「あたしの火柱、最近本気出したら小さな城くらいの大きさならいけそうな気はするのよね。試してみるー?」
「全力を挙げて、お断りします!」
夜になるが、薪もないので、火は使えない。だが、アナスはヒョウの肉を自分の魔術で炙って食べていた。ヒルカは目敏くそれを目に止めた。
「おや、アナスさん、わたしの分は?」
「燃やすものを頂戴。ずっと火を出し続けてられないのよ」
くっとヒルカは悔しげに呻いた。正論に、反論できなかったのである。
こう言うときにエルギーザは使えない。この射手はあまり喋らないし、アナスにだだ甘だ。悔しさの余りニルーファルに愚痴念話をすると言う愚を犯したヒルカは、女の子にたかるとは聖職者の風上にも置けない、と説教を食らって更に落ち込んでいた。
朝になると、胡狼の死体が転がっていた。夜の間に彷徨いていたようだったが、エルギーザが全て射止めたのだ。星明かり程度の明かりがあれば、十分エルギーザには見えるようであった。
朝食を摂ると、黙って三人は旅立った。夜までにはバフクに着きたい。水と食糧には余裕はあるが、油断は禁物てある。砂漠の旅は常に危険が付き物だ。
昼と夜の寒暖差はそこまでない。砂の砂漠は昼と夜で真逆のような寒暖差があるが、岩山の砂漠はそんなに変わらない。だが、アーラーンは高地なので、夜はやや冷え込む。朝はまだ涼しさが残っているが、陽が昇れば普通に暑い。
アナスとエルギーザの水は残っているが、ヒルカの水の減りが早かった。四日分揃えたヒルカの水が、三日分なくなっている。倍のぺースで飲んでいるのだ。
アナスは何も言わなかった。ヒルカに体力がないのはわかっていたことだ。倒れられるよりはいい。まだ水の余裕はある。
夜になる頃に、ようやくバフクに辿り着いた。ここには、小さなオアシスがある。隊商宿もあった。
宿の値段は目が飛び出るくらい高かった。相場の三倍はする。だが、腹が立っても払うしかない。泊まれるだけマシなのだ。金は飲めないし、食えない。
「騒動は起こすなよ」
エルギーザが珍しく真面目な顔で言った。
「バフクの連中は気が荒いんだ。揉め事を起こすと、水が手に入らない」
それは大事なことである。
水場の傍には、アカシアの木が生えていた。トゲのある枝が、人を寄せ付けない。アナスたちも、少し枝から離れて水を汲んだ。他に人はいなかった。
「渇きの悪魔を妖精が捕捉しました」
ヒルカの報告が送信されてくると同時に、感覚が妖精に同期するか尋ねられる。了承するを選択したアナスは、岩山をふよふよと飛翔する黒い翼と尻尾を持つ女の子を捉えた。彼女の回りには、六つの青白い玉が回転している。
(あれ、あれが悪魔なの? 何か人間みたい)
(熱と渇きはもともとは精霊です)
アナスの問い掛けに、ヒルカは苦々しげに答えた。
(光明神が双子神を封印するときに、精霊から悪魔に落としたそうです。解放された彼女たちが双子神に従うのは、それが許せないからかもしれません)
(えー、それってなんか神様がひどいんじゃ…)
(確かにそういう一面もありますが、アーラーンが人が住めるようになるには、必要な処置だったとか。それまでは、本当にこの砂漠みたいな光景ばかりの土地だったと言います)
ヒルカは大賢者から聞いた話を披露したが、アナスの士気は明らかに落ちた。
「マジ仕事しようにも何もないんだって! ここらへんみんな干からびていて、婆さんの手よりかさかさだって!」
突然渇きの悪魔が叫んだ。誰かいるのかと思ったが、誰もいないので、念話であろう。
「計画が遅れているって言われたって、あたし頑張ってるし! タルウィこそサボっているみたいな…えっ、もう泉を二つ枯らした? マジで…はい…はい…すんませんでした」
渇きの悪魔は両手を地面について突っ伏した。
「泣くのはずりーし…あたしも泣きたいみたいな」
そして、またふよふよと飛び始める。速度は馬より遅そうだが、悪魔は休息がいらなさそうなので、その分引き離されそうだ。
感覚を切ると、アナスはやるせない思いを隠せなかった。見た感じ、悪魔と言えど、普通の女の子に見える。だが、敵なのだ。戦場で数多の敵を葬ってきた以上、女の子を殺すのができないと言うわけじゃない。しかも、やらなければアーラーンが滅びるかもしれないのだ。やれと言われればできる。だが、それとやりたいかどうかはまた別の問題なのだ。
「エルギーザが何でいつもあの笑顔なのか、わかる気がするわ…」
あれはエルギーザの仮面なのだ。アナスなんかより、遥かに多くの人を殺してきたエルギーザが、自分の心を救うための仮面なのだ。ならば、自分にも、できるはずだ。自分はエルギーザの弟子なのだから。
翌朝、一行は無言でバフクを発った。街道は西に向かっている。相変わらずの砂漠地帯だが、明後日の昼くらいにはヤズドに着くはずだ。
ヒルカは渇きの悪魔を捕捉し続けている。ニルーファルも迎え撃つ準備を始めたようだ。アナスとエルギーザは黙々と進む。
エルギーザがまたヒョウを射止めたが、もう死体は肉も取らずに放置した。時間が惜しいのである。
夕方に野営の準備に入る。ファフラジまではもう一日かかる。ヒルカはよく持ってくれている。砂漠の素人なりに、頑張っていると言えよう。あくまで、岩石砂漠においてはだが。砂の砂漠なら、死んでいたかもしれぬ。
南下したバムシャード将軍が、蛇人の一団と遭遇していた。夕食に、ヒルカが会話に出す。千人ほどの集団であったが、硬い鱗と強い力に苦戦したらしい。死者は少なかったようだが、負傷者がそれなりに出て、蛇人も半分くらいは逃がしたようだ。
千人くらいならともかく、一万いたら勝てないかもしれない。ナーヒードが、珍しく弱気な念話を残していた。自分が戦場に立てないのが不安なのか。
「明日か、明後日には、あたしもやるんだよね…」
アナスは瞬く星空を見上げると、眠るべく目を瞑った。