第三章 ラーイェンの悪魔 -5-
騎馬での旅は、思ったよりも捗りそうもなかった。アナスとエルギーザだけなら、一日に十五パラサング(約八十四キロメートル)進むのも難しくはない。だが、ヒルカが馬に慣れておらず、一日九パラサング(約五十キロメートル)も進めればいい方であった。
とは言え、マハンからケルマーンはさほど遠くはなく、ヒルカの乗馬の腕でも日没前には辿り着けた。ただ、疲労困憊の神官を見て、いささかこの先の旅路に不安を抱いただけである。
「神官ってなんかこう、もっと格好いいものなのかと思っていたわ」
アナスはこっそりエルギーザにこぼした。エルギーザは破顔した。
「アナスはお話の中の魔術師に夢を見すぎだよ」
現実はこんなもんさ、と肩をすくめる。
ケルマーンは相変わらずばたばたしているようであったが、それはマフヤールの出陣を控えているからのようであった。軍務官の地獄の忙しさは変わらぬようで、アナスはルーダーベフは元気にしているかしら、と物思いに耽る。
「マフヤールは明日出陣するようだよ。かなり迅速だ。これは、前から準備だけはしていたんだろうね」
宿を決めてきたエルギーザが、そこで仕入れてきた情報を披露する。いつも笑顔を絶やさないエルギーザは、こういう情報収集は得意である。特に、女の子を相手に。
「まあ、あたしたちには関係ないけれどね。マフヤールはあのバカも拾っていくのかしら」
「命令にはなかったしね。忘れられているんじゃない、スィルチに配備した五百騎なんて」
ルジューワ率いるイルシュの五百騎は、全く戦っていない。部族の戦士の無事は喜ばしいことだが、キアーの出身部族としての名が泣くというものだ。アナスたち四人が活躍しているから、王国はイルシュの働きを認めているとは思うが。
ともあれ、特にケルマーンでやることもない。一行はさっさと宿に入った。ヒルカが死ぬ死ぬとうるさかったのだ。
「ニルーファルさんもヤズドに入ったみたいで、早く来なさいよね、と何かお叱りを受けました…」
夕食時に、ヒルカは更に顔色悪く語っていた。しかし、鷹に変化する魔術は便利である。流石は大賢者の弟子と言えよう。目の前の若者も確か弟子だったはずなのだが。
「痛い、アナスさんの目が痛い、何故この人は鷹に変身できないのだろうって顔をしてますね!」
そして、無駄に鋭い。回廊を繋いでいるせいであろうか。
宿の食事はあまりいいものではなく、パンも薄かった。軍隊が大量に食糧を消費しているので、市場の食糧が高騰しているようだ。さすがに価格を統制はできないらしい。
翌朝、水と食糧の補充だけすると、早速北の街道に向かうことにした。ヒルカは尻がまだ痛いと項垂れていたが、そのうち慣れるものだ。無視するに限る。
サラサヤブ、フートクなどの村を通り抜ける。この北からもケルマーンに向かう百人ほどの兵の行列があり、フートクですれ違った。ヤズドでファルロフ将軍が再編成するらしいが、間に合わなかったのであろう。ケルマーンに着いた兵は東の蛇人との戦いに使われるだろうから、無駄ではない。
チャトロードには、陽が沈みそうな頃に到着した。もう少し余裕で着くと思っていたが、ヒルカの消耗が早く、休息を度々摂らざるを得ない。
無難な隊商宿に泊まる。ケルマーンに向かう隊商と話をするが、扱っているのはやはり食糧らしい。麦や羊肉はこのあたりだと西側の倍はするそうだ。ルーダーベフが来年の予算を心配するはずである。
「これで飢饉や干魃になったら、どうなるのよ…」
アナスには、難しいことはわからない。ヒルカだって、王国に継戦能力がなくなるだろう、という漠然とした危機感があるだけである。
「そういや、暑いせいか、体の弱い老人や病人の死亡が昨日今日で続いたみたいでな」
辛気くさいことだ、と商人は締めくくった。
ヒルカの顔色が変わったことに、アナスは気づいていた。商人が去ってからどうしたの、と問い掛けると、神官は聖なる白い紐を握り締めながら言った。
「渇きの特性は、老いです。生命力を吸い取るのです」
「まさか…さっきの話も?」
「影響が出始めているのかもしれません。こちらに向かった可能性が高いのですから」
動物よりも、植物のが早く吸われるはずだ、とヒルカは言った。もともと双子神の特性は水と植物だと言う話である。双子神の力を反転させた悪魔なら、植物の方が効果は高い。
「くっ、ヒルカが賢く見える。何か負けた気がする」
「アナスさんは何と戦っているんですかね!」
ヒルカはもっとこう駄目な男のはずだ。知的なイメージはあまりないのだ。
翌朝、更に北に向けて出発する。このあたりは平野部であり、畑も多い。一見すると異常はないようだが、楽観はできない。急いで次のザランドを目指す。
「アルバーバードの一万二千と衝突したみたいですね」
六将を失った敗軍が相手とは言え、数は相手が多い。ナーヒードも負傷で欠いている。だが、ヒシャームとシャタハートが残ったのだ。あちらの戦線に不安はなかった。
「ゴルバーフのカシュガイ部族はまともに戦わないで押したり引いたりしてますね。援軍が着くまでそれでよさそうです」
朝方はヒルカもそんな会話をする余裕があるのだが、午後になると、もう一言も喋らない。黙々と馬を駆っている。一昨日くらいまではうるさいくらい悲鳴をあげていたが、声も出なくなったようだ。
結局、ザランドには陽が沈んでからようやく辿り着いた。旅がし易い平野の街道を通ってこれなので、この先の旅路に若干の不安が走る。
「ニルーファルさんが、デブの将軍に食事に付き合わされる、早く来いってうるさいんですよ…」
夕食のときに、ヒルカは更にぐったりして現れた。これは騎乗した肉体的疲れだけではない。ニルーファルのお喋りに付き合わされた精神的な疲労もあるに違いない。
「ニルーファル管理官って、ヒルカの同期なんでしょう? 好かれているんじゃないの?」
「ええっ、ないですよ! いつも人の顔を見ると文句しか言わないんですよ!」
どうだか、とアナスは疑った。本当に嫌いなら、そもそも無視をするのである。構ってくるのは、それだけ関心があるのだ。
「ほら、エルギーザとかヒルカに興味ないから、全く怒らないじゃない」
「やだなあ、アナス。ぼくはヒルカの能力はとても好きですよ」
「褒めてないですよね? 人格否定してますよね?」
エルギーザはいつも笑顔なだけに、ヒシャームとシャタハート以上に内心を読ませない。その気になれば暗殺できない者はいないというような凄腕の射手であるが、それゆえに感情を殺す訓練を受けてきたかのようだ。気配の消し方や、街中でのアナスを護る位置取りなど、専門家としか思えぬ動きをする。護衛官としての動きは、実は三人の師匠の中で一番優れているのだ。だから、シャタハートはエルギーザが付いているから心配はしていない、と言ったのである。
夜が明ければ、またすぐ出立である。次の目的地はシリズ。ここからは緑も減り、また砂や岩肌を見ながらの旅路だ。途中に村もない。
念のため、一食分余計に水と食糧を持つと、三人は出発したのである。