第二章 ケルマーンの戦い -9-
アナスの目の前にいた味方の兵士が崩れ落ちた。その陰から、血塗られた大斧が現れる。味方の兵士を倒したこの男は、二ザル(約二メートル)近い巨体を誇っていた。
「なんだあ、こんな小娘が兵士なのか」
ミタンの言葉だったので、アナスにはわからなかった。アナスは怯まず前進すると、振り下ろされた大斧に左手を合わせる。
「爆炎」
左手が触れた瞬間、大斧が砕け散る。巨体の兵士がぎょっとする間に、アナスは右手を大盾に添える。同時に、今度は大盾が砕け散った。
「な、なんだ、こいつは!」
驚愕に動きが止まる兵士の懐ろに入り込むと、アナスは甲冑の上から兵士の左胸に掌を当てた。
「さよなら」
くぐもった音とともに、男は大量の血を吐き出し崩れ落ちた。返り血がアナスに降り注ぐ。極限まで威力を抑えた爆炎でも、心臓を爆砕されては生きてはいられない。どんな重装備があろうと、それ越しに徹せるアナスの魔術の前には無力である。
叫び声を上げてまた一人兵士が大斧を翳して襲い掛かってくる。アナスは身軽に大斧をかわすと、素早く懐ろに入り込んで左胸に手を当てる。
流れるように敵の懐ろから懐ろに移動し、アナスは瞬く間に四、五人の兵士を片付けた。穴から食い込もうとしていたミタンの兵は完全に勢いを止められ、アーラーンの前線が甦る。
「盾の穴を埋めて!」
アナスは立ち直りつつある味方に声をかけると、更に前に出た。
「囲め!」
恐怖に後退りをしそうになる兵士たちに、アクランティが叱咤をかけた。アナスの周囲に、三人の重装歩兵が向かってくる。アナスはしゃがみこむと、両手を両脇の地面につけた。
「火柱」
轟、とアナスの両脇に巨大な炎の壁が出現した。突然出現した炎の壁に、左右の兵士が立ち往生する。その間に、アナスは正面の兵士に爆炎を叩き込んだ。
そのまま火柱を操作し、半円状に作り替えて背中の守りにあてると、残る二人も順番に片付ける。アナス一人にアクランティの精鋭部隊が崩されようとしていた。
「冗談ではない!」
アクランティがアナスの前に立ち塞がった。白い甲冑を鮮血で染め、凶悪な大斧を暴風雨のように振り回す。全身からは、第二の円輪の橙色の闘気が渦巻いている。
「こいつも橙色使いなのね! 全く、こんな化け物がぞろぞろいちゃたまんないわ!」
増幅された力が、アクランティの中で暴れまわっていた。全身に血管を浮き立たせながら、アクランティはその力をねじ伏せる。そして、アナス目掛けて大斧を振り下ろした。
速度は、アナスよりも上回っているように思えた。超人的な身体能力を得る花弁使いである。常人よりは素早いアナスであるが、人外の速度はない。
だが、攻撃の前の予備動作の大きさのお陰で、なんとかかわすことはできた。大斧が振り下ろされた大地は、衝撃波で陥没してしまっていた。あんなものをまともに食らったら、アナスは肉塊に変えられるだろう。
「でもそれは、お互い様……かな!」
アナスの爆炎だって、触れさえすれば人間の肉体など吹き飛ばせるのだ。それなら大振りのアクランティよりも、アナスに勝機があるかもしれない。
それでも、アクランティの大斧は脅威であった。超人的な膂力はそれを軽々と振り回し、アナスに致命的な一撃を入れようとしてくる。少女は何度も横っ飛びに転がり、必死に逃げ回った。迂闊に近づくこともできない。
「近付かないと爆炎は使えないのに、近付くこともできないなんて、どうすりゃいいのよ!」
大地を転がりながら、アナスは叫んだ。大斧に砕かれた岩が跳ね飛んでアナスにもぶつかってくる。頭をかばいながらそれを避けると、アナスはすぐに立ち上がろうとした。
「あれ……待ってよ、これ……」
その視線が自分にぶつかった岩石の破片に突き刺さる。
「そうか……できるかもしれない。おっと!」
次の一撃をまた転がりながらかわすと、アナスは咄嗟に岩石の破片を掴んで跳びすさった。
「石なんて掴んでどうするつもりだ!」
アクランティは嘲笑し、大斧を振りかぶる。そこに、アナスは手に持った石を投げつけた。
「いけ! 爆炎!」
アクランティの甲冑に弾かれようとした瞬間、突然石は爆発した。衝撃に白い甲冑は砕け、アクランティ自身も深い傷を負って吹き飛ばされる。
「ぐはっ……なんだと……」
アナスは思い付きが成功したことに喜んだ。触らないと発動しないなら、一度触ったときに時限式に発動するようにしたのである。それに、これだと自分が巻き込まれなくて済む分、威力も抑えなくていい。
「どんどん行くわよ! 食らえ! 爆炎!」
アナスは更に石を投げつけた。アクランティはかろうじて身をひねってかわすが、生じる爆風までは避けられない。巨体が木の葉のように転がり、アクランティは血反吐を吐いた。
「こ、この!」
何とか起き上がろうとしたアクランティの視界に、更に飛来する三つの石が映る。
「ええい、第三の円輪!」
奥の手を出さざるを得なくなったアクランティは、黄色の闘気を吹き上がらせると、一気にアナスに肉薄した。アナスは後ろに転がって距離を開けると、にいっと笑った。
「そこは、さっきあたしが立っていたところって知ってた?」
火柱! とアナスは叫んだ。アクランティの足もとから、巨大な火柱が立ち上った。手加減をしないで放ったその術の規模は、二階建ての家の屋根くらいの高さはあった。業火に包まれたアクランティは水を出して消そうとするが、圧倒的な火力を前に焼け石に水であった。
火柱は三十秒くらい燃え続け、消えた後には溶解した甲冑や大斧と、炭化した黒い何かだけが残った。
勇名を誇ったミタンの白象の旗は、異郷の地で折れたのである。
「あ……赤い魔女だ……」
将軍を失ったアクランティの重装歩兵は、アナスが一歩進むと恐怖に怯えて後退した。
(愚か者め!)
そのとき、宙空に巨大な老人の顔が現れた。髪も髯も真っ白な老人であるにもかかわらず、その肌には不思議と張りがあった。そして、その額には縦長の第三の目が見開かれていた。
(ミタンの戦士が何たるざまか! そのだらしない顔で殿下の前に頭を垂れるつもりか!)
崩壊しかけていた前線の士気が、その叱咤で立ち直った。重装歩兵は十ザル(約十メートル)ほど後退すると、再び強固な隊列を組みなおした。指揮権は副官に移り、軍は息を吹き返した。
「あれが……六将ババールね」
空の巨大な顔の映像を見上げながら、アナスは呟いた。アクランティは倒したが、まだこの戦場で最も手ごわい敵は残っている。スミトラ軍のように、将軍が討たれたからといってそれで終わりでもない。戦いはまだまだ続きそうであった。
だが、アナスは手応えを感じていた。とても勝てないと思っていた花弁の使い手が相手でも、やり方次第で何とかなるのだ。使い勝手の悪かったアナスの魔術でさえ、発想ひとつで凶悪な武器に化ける。
「次は……おまえの首よ!」
アナスは剣を抜き放つと、大空の映像に向けて宣言したのである。