第二章 ケルマーンの戦い -6-
ババールの使い魔の顛末はすぐに報告された。ナーヒードは使い魔の監視を警戒したが、ヒルカの妖精が見張りを務めているので、そこまで気にしなくていいと説明され、納得する。逆にこっちの偵察もしにくくはなったが、妖精は戦闘力こそないものの隠れるのは得意なので、よほど接近しない限りはババールにも探知されないだろうとのことである。
ババールの軍はそのまま前進を止め、後続の軍を待つ態勢に入ったらしい。アグハラーナの軍が次第に北上してきており、合流する予定なのだろう。ナユールの軍はゴルバーフに向かったらしく、ケルマーン・バム街道上からは消えた。
アナスは聖廟にやってきている。ヒルカに会いに来ているわけではなく、聖人ヴァリと話しに来ていたのだ。何せ、ヴァリは生前は大賢者と同時代の力ある神官である。その魔術に対する造詣はヒルカよりも深い。アナスは、その魔術の知識について尋ねに来ていた。
「それで、あたしにもその火炎の魔術は使えるの?」
(そなたには火に対する強い親和性を感じる。使えないはずはないと思うのだが。少なくとも、ヒルカよりは才能はあるはずだ)
護摩壇からうっすらとヴァリが姿を現す。
(そなたはわたしを感じることもできる。魔力を感じることはすでにできておるのだ。あとは使い方の問題だけであろう)
「あの化け物たちに対抗できるっていうなら、何でもやってやるわ」
(うむ……短期間で力を手に入れるためには、力業が必要になるが……試したいのならばやってみるがいい。神官になりたい者に課す試練のうち、最も早く効果がある試練がある。危険度も高いが、それを受けてみるのがいいだろう)
危険度の高い試練。
アナスではかなわない敵。剣も通じるかわからない、人間をやめたような恐るべき存在。
そんなものからは逃げてしまえばいい。アナスが立ち向かう必要などない。危険な最前線などに立って、命を懸ける必要がどこにあるのだろうか。
そう、自分に言い聞かせることもできる。だが、それは自分の誇りが許さない。アーラーンの守護者であるキアーのたった一人の娘であるという誇り。その大好きな父親が護ったこの大地を侵略者に踏みにじられていいものかという、単純で素朴な感情。
思いというものは、複雑である必要はない。単純な方が強い力を得る、とは誰が言った言葉であったか。
アナスは両手を伸ばした。
護摩壇から、精霊もまた手を伸ばす。
アナスは精霊に導かれ、護摩壇の中の聖なる炎に両手を突っ込んだ。
青白い炎がアナスの両手を包み込んだ。炎は燃え盛り、掌を灼いた。アナスの赤い瞳も、恐怖に彩られた。だが、彼女の手は焼け爛れなかった。
「熱い……けど熱くない?」
(そなたは炎に親和性がある。聖なる炎で焼かれることはないが…そのままその炎を動かすことはできるか?)
「やって……みるわ!」
アナスは目を閉じた。精神を集中し、炎を動かそうと念じる。焼かれはしないが熱さを感じないわけではないので、アナスの顔は苦痛と暑さに歪む。その額はすでに汗が流れ出していた。
アナスが集中を続けると、次第に胸もとに淡く赤い輝きが灯ってくる。ヴァリは訝しげにその輝きを見た。
(その輝きには、神性を感じる。なにか持っているのか?)
虚をつかれたアナスは、胸もとの輝きに気づくと、瑠璃の首飾りを取り出した。蒼く輝く瑠璃が、不思議と赤い輝きを帯び始めている。
(アシャの護符……いや、微妙に何かが違う……)
ヴァリは首を捻った。だが、その瑠璃が赤い輝きを帯びてくると、アナスは炎を少しずつ動かせるようになってきたのは事実であった。
(魔力の統制の助けにはなりそうだ。アナスよ、念じるときはその護符を使うのだ)
アナスは暑さのため軽く唸ると、右手で護符を握りしめた。瑠璃の赤い輝きが強まり、聖なる炎は踊るようにうねった。
「動いた、動いたわ!」
(うむ、それでよかろう。第一歩としては上出来だ。あとは自分でその炎を出せるように練習するのだな。おそらく、その護符が助けになろう)
汗だくではあったが、アナスは充実した気分であった。今までの自分とは違う一歩が踏み出せた、そんな気分で高揚していたのである。
無事に魔術の発動を覚えたアナスが汗を流すために公衆浴場に去ると、外で控えていたシャタハート、ヒシャーム、エルギーザも聖廟の中に入ってきた。ヴァリはちらりと三人を見ると、思いつめた表情にため息を吐く。
(言っておくが、そこの黒槍の男にはなにも言うことはないぞ。その槍の力は精霊の力より大きい。槍とともにあれば、自ずと使い手となれよう)
精霊の言葉に、ヒシャームはどこか悟ったように頷いた。
(他の二人も、火との親和性は薄いようだ。わたしにもどうにもできぬな。頼るなら、ファルザームを頼るがよい。彼奴なら、他の魔術にも詳しかろう)
「実のところ、簡単な魔術は使えるのさ」
シャタハートは右手の人差し指を壁に向けると、一言呟いた。
「瞬く星」
シャタハートの人差し指の先から発射された飛礫が、壁に向かって飛んで行った。
「大きさや素材や速度や数は多少は変えられるが、この程度のことで通じるか不安になってね」
(星の欠片を扱う魔術か。そなたもそちらの戦士と同じ天空と風の神の加護を受けているようだな)
「三人ともそうだ。エルギーザは、少しだが風を操れる。キアーさまは戦士の神シャフレワルの力を受けておられた。わたしたちはその弟子なのだ」
(十分であろう。そなたらはすでに一人前の戦士だ。今更わたしが何かを言う必要はない。術で必要なものは、ファルザームに教えを請うのだな)
シャタハートとエルギーザも頷いた。ヴァリの言葉に、思うところがあったのだ。確かに彼らはすでに一人前の戦士である。敵が強大であったからと言って、自信を失って震えているわけにはいかない。
「迷惑をかけたな」
シャタハートは聖廟の隅でのんびりと紅茶を飲んでいた男に声をかけた。
「いいですよ。どのみち戦闘ではお役にたてませんし」
「聖廟管理官……大賢者さまが貴殿をその職に任じたのは、偶然ではないのだろうな」
「買いかぶりですよ。わたしは一言多いんで、年寄連中に嫌われているんですよ」
ヒルカは謙遜したが、この時期に彼がこのマハンという要地に派遣されていたことは、決して偶然ではないだろう。ファルザームの打った一手であることには違いない。
「互いに情勢を見てとれる以上、下手な小細工は通用しない。正面からの戦闘になるだろうね。わたしたちにできることは、それまでに少しでも力を上げておくことくらいかな」
シャタハートの予測に、ヒシャームとエルギーザは頷いた。彼らは聖廟から足早に去ると、陽が沈んだ宵闇に消えていった。