第二章 ケルマーンの戦い -5-
灰色の髪の神官は、ぼさぼさの髪をかき上げると面倒くさそうに呟いた。
「やれやれ、大賢者さまにも頼まれたし、面倒だがやるしかないですか」
ヒルカは回廊と同様、妖精も十体くらいなら同時に召喚できる。ゴルバーフ方面に二体、ケルマーンに一体、マハンの南に一体、更に街道沿いに六体を南下するように指示を出す。
「特に探らないといけないのは、王子のケーシャヴァと六将のババールでしたっけ。ババールって三百年前のアーラーン初代王朝の頃、大賢者さまと対立した神官の名前と同じだけれど、偶然ですかね」
その気になれば、回廊を繋いだ他の人間にも、妖精の感覚を繋げられるのがヒルカの器用なところである。しかも、同時接続も可能であった。ただ、それだけヒルカの負担は増える。
「とりあえず、妖精がなにか見つけるまではのんびりしてますか」
サモワールからティーポットを取り出すと、コップに紅茶を淹れる。大きな神殿の神官は裕福な者が多いが、地方の小さな聖廟管理官に過ぎないヒルカは貧乏であった。
「いつかお前さんも立派な廟に弔ってやりますからね……ってまあわたしには無理ですかね」
ヒルカは自分の将来にさほど期待していなかった。とりあえず生活ができれば満足な、そんな小市民であったのである。そんな自分に管理される聖人も可哀想だな、とは思うが、これも運命である。神の導きなら仕方がない。
とりあえず、街道を南に下った付近の岩山の上に、銀髪の射手を発見する。アナスに妖精の視覚を繋げたヒルカは、彼がエルギーザであることを確認する。アナスからエルギーザにマハンに帰投するように指示を出してくれと頼まれたヒルカは、妖精の口を借りてその旨を伝えた。
「了解したよ。しかし、変わった生物だね……思わず射るところだったよ」
エルギーザは身軽に岩山の下に降りると、隠していた馬に乗って街道を北に向かった。遠からず、マハンに帰ってくるだろう。
妖精を更に南下させる。
暫く行くと、ミタン軍が野営している場所に行き当たった。街道から東に向けて点々と天幕が立っている。ここらへんにはアルバーバード村があることを思い出したヒルカは、一体の妖精をそちらに飛ばし、一体を街道上に置き、残りを南下させた。
「アルバーバードは占領されましたか」
たいして大きくない村である。建物は民家も隊商宿も接収され、ミタン軍の士官の宿舎にされたようだ。水や食料などの物資も強奪されているようである。住民は一箇所に集められ、武器を持った兵に見張られていた。
「殺されていないだけましですかね。さて、ここには敵の偉いさんがいそうなんですけれど」
とりあえず、アルバーバードから街道にかけてを、ナーヒードに感覚を繋げて見せる。街道から続々と敵が北上してくるのを見て、ナーヒードは無言であった。あまり騒がれても脳に負担がかかるので、ヒルカには都合がいい。
(アルバーバードの中を探ります)
(気を付けろ。さっきなにかいやな感覚がしたぞ)
王女の念話は根拠のないものではない。ヒルカの感覚にも、妖精を通じて尋常でない気配がびりびり伝わってくる。
と、一軒の家から、紫色の霊気が立ち上るのを感じたヒルカは、咄嗟に妖精との感覚の同期を切った。
(どうした、ヒルカ)
(紫色の二花弁……第三の目です。空に巨大な目が現れ、こちらを捉えるところでした。妖精との回廊を切らなかったら、辿られてこちらまでやられていました)
ヒルカは冷や汗をかいていた。紫色は第六段階のはずだった。あれは自分では相手にできない。刹那に見た第三の目には、こちらの意志を呑み込むような力を感じた。人間を超えた存在だ、とヒルカはナーヒードに伝えた。
(大賢者さまに連絡して対応をお願いします。わたしはあれには近付けない。遠くから見るしかないです)
(それがよさそうだな。ヒシャームの悪い予感が当たったか。神殿にも総力を結集して貰わねばならないようだ)
その後一通り連絡を終え、どっと疲れたヒルカはすっかり冷めた紅茶を一口すするとため息を吐いた。
荷が重すぎる。
だが、やらないわけにはいかない。次はゴルバーフのが先に妖精が到着するか。それまではまたのんびりしよう、とヒルカは心に誓った。
心を空にしながら紅茶を飲んでいたヒルカは、マハンに待機させていた妖精が異常を感知したのを察していた。
南方から黒い鷲が風のように飛んでくる。鷲はマハンの上空に達すると、威嚇するように旋回した。
ヒルカの妖精には、残念なから戦闘力などはない。鷲に襲われれば、殺されてしまう。
「大賢者さまが来るまでは、わたしが何とかするしかないですかね」
ヒルカが聖廟の護摩に手をかさすと、護摩の炎が激しく立ち上ってきた。
「聖なる魂よ、精霊となりて顕現せよ!」
ヒルカの声とともに、炎は巨人の形となって現れた。巨人は聖廟の壁画に描かれた聖人の姿で顕現していた。前にヒルカが召喚した妖精と異なり、この精霊には力が備わっているように見えた。
「ヴァリよ、マハンに邪教の使い魔が侵入しました。始末をお願いします」
精霊となって顕現した聖人は、炎を揺らめかせて頷いた。
(任されよ。ババールの臭いがする。彼奴がまたこのアーラーンに戻ってきおったか)
精霊ヴァリは、聖廟の上空に出ると黒鷲を睨み付けた。
黒鷲が夕闇に奇怪な叫びを上げた。精霊は炎を渦巻かせると、黒鷲に向かって放った。黒鷲は急降下してかわすと、瞬間、紫色の霊気を体から発した。
霊気は精霊に向けて飛んだが、ヴァリは炎をぶつけて相殺すると、更に大きな炎を出して、黒鷲の周囲を囲った。
黒鷲は嘴を開くと、声を上げて笑った。そして、懐かしそうに喋った。
「ヴァリよ、きさまさような姿でまだこの世に留まっておるとはな」
(お互い様と思うが、ババールよ)
黒鷲の翼から逆巻く烈風が沸き起こるが、精霊は業火を渦巻かせて対抗した。
(その姿では大した力は使えまい、ババール!)
「確かにのう。だが、使い魔程度相手にして、儂の力を計ったつもりでいたら、痛い目をみるぞ、ヴァリよ。大人しく、ファルザームを呼んでこい。あやつ以外に儂の相手ができる者はおらぬよ」
かかと笑う黒鷲に、精霊は四方から囲んだ炎をぶつけた。黒鷲はたちまち炎に包まれたが、笑い声はまだ続いていた。それは、黒鷲が炭化して大地に落ちてもまだ、執拗に響き渡ったのである。